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正義の味方  作者: 春原 恵志
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第2部 如月佑

第2部

如月佑


 都内某製薬会社の研究所、大井町開発センター。その中の研究室。

 一人の男が自席にて荷物を片付けている。男はここの研究員如月佑63歳である。

 如月は頭の半分程度が白髪になるが年齢よりは若く見える。痩せ気味の身長は170㎝ぐらいのいたって普通の男性である。如月のもとに若者が近寄る。

「如月さん、いよいよですね」

「ああ、瀬川君、色々お世話になったね」

「ほんとに辞められるんですね」

「うん、まあ、もう定年にはなってるんでいつやめても良かったんだがね」

「でも、まだまだ働ける歳でしょ?再雇用制度だとあと数年は十分、働けるはずですよね。会社からも引き止められていたじゃないですか?」

「そうなんだが、なんというかそういった働く意欲が無くなったというのかな」

「奥様の件ですか?」

「それもあるけど、まあ、色々だな。この歳だと色々あるんだよ」

「そうですか、それにしても奥様は本当に残念でしたね」

「運命だったのかな、ちょっと早い気がするね。私が先に逝くものと思っていたからね」

「運命で片付けたくはないですけど・・・」

 瀬川は感慨深げだ。そんな若者に如月が陽気に話す。

「それより、瀬川君たちが私の研究を引き継いでくれると聞いてるよ」

「はい、私もそうですがチームとして研究をしていきます。とても一人では無理です。それにしてもあと一歩のところじゃないですか?」

「研究成果を学会に発表もできたし、動物実験も成果が出ている。あとは細かい調整と臨床かな、その段階で何かでるかもしれない。でもまだまだだな。課題は多いと思う。でもなんとか製品化まで行って欲しいよ」

「わかりました。私たちで頑張ってものにします。あとデータを確認させていただいて、何かありましたらまた連絡させていただきます」

「そうだね。データはまとめてあるので見れば分かると思う。何かあったらメールでもなんでも連絡してくれ」

「この研究は如月さんのライフワークでしたものね」

「俺にはそういったことしか能がないからね。実際、私はチームプレーが苦手なんだよ。そういった意味では研究を続けさせてくれた会社に感謝してるよ」

「でも、他にも如月さんの色々研究成果が出てましたからね。特許数だって他の人間の何倍もお持ちで、会社がここまでになったのは如月さんのおかげも大きいと聞いてます」

「いやいや、特許数だけだよ」

「ところで、辞められてどうされるんですか?」

「いや、特に何も考えていない。しばらくはゆっくりと終活かな。何かやりたくなったらその時考えるよ」

「そうですか、また、何か機会がありましたら、お会いしたいです。お身体に気をつけてがんばってください」

 瀬川が離れていく。お身体か、もうそれに気を付ける状態じゃないんだがな。

 荷物をまとめて私物はカバンにいれる。残りは廃棄処分に回す。いよいよ、ここともお別れだな。部屋を見回す。入社当時は木造の研究所で冷暖房もない部屋だった。夏は暑くて、研究しながら水を入れたバケツに足を突っ込んで涼んだりしたことも思い出す。

 当時はこんな近代的な研究室で働けるとは思っても見なかった。ただ、あの頃の方が仕事は楽しかった。仲間も家庭的で仕事と遊びの境界線があいまいだった。仕事終わりにみんなで研究室で流しそうめんとかもやったな。考えると懐かしい。

 自分の荷物整理を終えて、如月は最後に研究所所長室に向かう。ドアをノックする。室内から声がする。

「どうぞ。」

 研究室所長の下村は同年代だ。下村は如月とは違い、研究バカではなく世渡りに優れていた。研究成果と言った意味では如月の方が上だが出世は違う。世の中はそういったものだ。

「所長、お世話になりました」

「おお、如月さん。今日で終わりかい?」

「そうです。色々仕事は残ってますが、後任に引き継いでいるので安心しています」

「うん、それでこれからどうするんだ?」

「はい、しばらくはゆっくりと休養して、その後はまた別途考えます」

「そうか、如月さんなら引く手あまたじゃないか」

「もう、研究職は打ち止めです。それ以外を考えます」

「うん、如月さんのおかげでうちの会社もここまで大きくなったと言っても過言じゃないからな」

「そんな滅相もないですよ。皆さんの力です」

「いや、特許数もそうだが、うちの会社で貴方が作った薬剤の売上は大きいよ。製薬会社で研究者が売り上げに貢献できる薬剤は生涯に一つでもできれば御の字と言われる世界であなたの成果は尋常じゃない。本来ならここに座ってるのは如月さんだったかもしれないよ」

「いえ、そんな力量はないです。基本、研究バカですから、そういった意味でも、もう限界でした。細かい文字も見づらくなったし、記憶力が信じられないぐらい減退しましたから」

「いやいや、そんなことはないだろう、わたしならその通りだがね。ところで奥様のことは本当に残念だった」

「葬儀の際はお世話になりました」

「うん、奥様とも昔からの付き合いだからね。信じられないね」

「製薬会社にいて妻の治療など何にも貢献出来なかったんですからね。皮肉なもんです」

「うん、言葉もないよ。運命で片付けられるもんじゃないね」

ふたりともしばらく黙り込む。意を決したように如月が話す。

「下村所長もお元気で」

「はい、どうもお疲れ様でした」

 如月は所長室を後にする。そして入門証を使って研究所から出ていく。いよいよここともお別れだな。

 正門まで来て研究所を振り返る。

 これで如月の社会人生活が終わる。私の40年間は何だったんだろう。家族のためを一番に考え、仕事による自己満足と社会貢献、そういった意欲で生きてきた。ただ、最も重要視してきた家族はもういない。娘は幼くしていなくなり、ここで最愛の妻も逝ってしまった。もう自分には何も残っていない。言い様のない虚しさがつのる。

 これからの自身の人生も残り少ないことが最近わかった。

 守衛所に入門証を渡す。守衛さんが不思議そうな顔で如月を見る。

「今日で終わりなんですよ。これを総務課に戻しておいてください」

「ああ、そうなんですか、それはお疲れ様でした」

 守衛さんが声を掛けてくれた。

 如月は駅に向かって歩いていく。この40数年そうしてきたそのままに。


 私鉄を乗り継いで、郊外の自宅のある駅を降り、近所のスーパーで弁当や生活必需品を買って家に戻る。この数日、身の回りの整理に追われていた。いわゆる終活作業である。 

 如月には身寄りもない。最終的には自分が亡くなった後の処理まで行わなくてはならない。自宅の処分を含めた処理が必要だ。医師免許はないが、製薬会社で研究職をやっていたため、それなりの医学知識は持っている。自分の状況は自分で分かる。

 あと、半年がいいところだろう、妻も癌で亡くし、自分もまた同じ病気にかかっていた。妻の看病に追われていて自分の症状には気づかなかった。妻の葬儀が終わって調子が悪い事に気が付いた。スキルス性の胃がんだった。定期健診はそれなりに受けてはいたが、胃の裏側が蝕まれていた。すでにステージ4で他の臓器への転移も始まっていた。

 医者からは手術は無理だと言われ、抗がん剤治療のみだった。まあ、それもいいかもしれない。もう生きる意味がない気がする。それと自分の最後の研究結果があんなものを生み出すとは想定外だった。それを含めてもう自分が生き続ける意味はない。


 近所の公園を通る。春の陽気の中で子供たちが遊んでいる。如月はふと公園のベンチで休む。

 こんないい雰囲気のまま、静かに逝くのがいいな。もう苦しむのはいやだ。

 子供たちが鬼ごっこでもしているのか、公園内を走り回っている。あああの子は美幸の年頃かな。やっとのことで出来た子供だった。約2年間の不妊治療のあと、ようやくさずかった娘だった。元々、身体が弱かったが、それでも小学生になり、ようやく元気になったと思った矢先だった。

 あの娘の人生はたった10年で終わった。最後まで奇蹟を信じていたが、その夢もかなわなかった。あの時にわれわれ夫婦の人生は一度終わった気がする。妻も口にはださなかったが、同じ思いで生きていった気がする。以来二人の中で美幸の話は禁句になった。

思い出にするには辛すぎる。

 ぼんやりと昔のことを考える。すると意識が遠のく気がした。いや、まさに意識が薄れていく。目の前が暗くなってきた。ああ自分はこのまま死ぬのか?その時、薄れていく意識の中で目の前に美幸がいた。美幸は私の事を心配そうに見ている。

「美幸・・・」

「大丈夫?」

 ああ、美幸がどうしてここにいるんだ。次の瞬間、完全に意識が飛んだ。


 気が付くとベッドに寝ていた。消毒液のにおいがしている。どこかの病室にいるようだ。私はどうなったんだ。しばらくそのまま呆然としていた。

 看護師が気付いて声を掛けてくれる。

「気が付かれましたか?」

「ああ、私はどうなったんでしょうか?」

「倒れて救急車で運ばれたんですよ」

「そうだったんですか、すみませんでした。ご迷惑をおかけしました」

「公園にいた子供たちが助けてくれたんですよ。救急車を呼んでくれて」

「ああ、それは申し訳ないことをした」

「あとで先生の診断があります。何か持病をお持ちですか?」

「末期がんなんです」

 看護師がびっくりする。

「え、そうなんですか?」

「はい、ただ、今回の様な、倒れるようなことは初めてで迂闊でした」

「そうですか、先生の診断もあると思うので、その話はしておきますね」

 看護師が病室から足早に出ていく。ここはどこの病院なんだろうか。子供たちが助けてくれたのか。そういえば、美幸の夢を見た様な気がする。


 数時間後、医師と面談し、症状の確認と現状把握の後、すぐに退院の許可が下りた。

 これからは貧血などで倒れる可能性も高いので気を付けた方が良いとの事だった。

 公園で助けてくれた子供達にはお礼をしないといけないなと思いながら、また、倒れると問題なのでこの日は帰宅した。


 翌日、いくぶん体調はよくなり、交番に顔を出す。交番には年配のお巡りさんがいた。

「すみません、昨日、公園で倒れてしまったものなんですが、救急車を呼んでくれた子供たちにお礼がしたいのですが」

 ここの所長さんだろうか、年配の男性警官である。

「はい、ああ、貴方ね。もう大丈夫なんですか?」

「はい、ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です」

「子供たちへのお礼ですね。今、結構個人情報がうるさくってね。ちょっと待ってください」

お巡りさんは交番の中に入る。しばらくして再び、顔を出す。

「はい、今、先方に電話してお会いするのは構わないそうです。お礼は要らないっておっしゃってますのでお気遣いなくとのことですよ」

「はい、わかりました」

「実際はその女の子が一人で救急車を呼んでくれたんですよ。多分、今度、表彰されるはずですよ」

「そうだったんですか・・・」

「住所はこちらになります。ここから歩いて10分ぐらいかな」

 警官は住所をメモした紙を如月に渡す。確かにここからは近い場所だ。

「はい、どうもありがとうございます。」

 駅前の洋菓子店でケーキを見繕ってそのアパートに向かう。如月の自宅とは駅の反対側になる。住宅街で昨日倒れた公園とも近い場所だ。するといつも公園で遊んでいるのだろうか。

 木造のけっこう年季の入ったアパートが見えてきた。ここなのか。番号からすると2階になる。今にも壊れそうなさび付いた階段を音を立てながら上る。2階の部屋に来るが、表札は出ていない。チャイムを押す。中から声がする。

「はい、今、開けます。」

 あらかじめ来ることを予想していたようだ。扉が開き、中から女性が出てきた。母親だろうか?30代だと思われるが表情から疲れた感じが漂う。

「すみません。私、如月と申します。実は昨日、公園で倒れたところをこちらのお嬢さんに助けて頂いたそうで、本当にありがとうございました」

「ああ、さきほど、警察から連絡がありました。お礼なんかけっこうなんですが」

「いえ、あのまま行き倒れたかもしれないので、本当に助かりました」

「娘はちょっとでかけていて、今いないんですよ」

「そうですか、あの、これつまらないものですが、娘さんと食べてください」

 如月はケーキを差し出す。

「そんなお気遣いいらないのに。」

「いえ、ほんの気持ちです。ああ、それじゃあこれで失礼します」

「こちらこそ、お構いもしませんで」

 そのとき、階段を上ってくる気配がした。如月がふとそちらを見る。そして目を疑った。

「美幸・・・」

 階段を元気にあがってくる女の子は、亡くなった如月の娘の美幸にそっくりだった。母親がその娘に声を掛ける。

「みゆき」

「お母さん、ただいま。あ、昨日のおじさん」

 女の子が如月に気づく。如月は言葉が出ない。母親が話す。

「みゆき、おじさんが昨日のお礼に見えたのよ」

「そうなの。こんにちは」女の子はにこっと笑う。眩しいぐらいの笑顔だ。

「あの、美幸さんと言うんですか・・・」

「ええ、そうです。どうかされました」母親が不思議そうな顔をする。

「ああ、いえ、実は私の娘も美幸といいまして、美しい幸せと書いたんです」

「ああ、同じ名前なんですね。よくある名前だからかな。この子はひらがなでみゆきです」

 如月は娘とそっくりだとは言い出せなかった。こんなことがあるのだろうか、昨日、意識がなくなる前に見たのは娘の幻影じゃなく、この女の子だったのか。

 呆然としている如月にみゆきが話しかける。

「おじさん、もう大丈夫なの?」

「ああ、おかげさまで元気になったよ。ほんとうにありがとうね」

「それはよかった。救急車を呼ぶの初めてだったから大変だったんだよ」

「そうなんだ。おかげで助かったよ」

「でも元気になって良かったね」

 如月の目から思わず涙がこぼれてしまった。みゆきがびっくりする。

「どうしたの?」

「いや、目にゴミが入っちゃったみたい。ああ、それじゃあこれで失礼します。みゆきちゃんどうもありがとうね」

「じゃあね。バイバイ。」

 如月はアパートを後にする。

 後ろで女の子がケーキを喜ぶ声が聞こえる。

 如月は、そのまま呆然としながら自宅に戻った。

 如月の今の自宅は子供が生まれる一年前に購入した。研究所からは遠かったが自然の多いこの地域が気に入って新築一軒家を奮発した。もう20年以上も前になる。

今となってはそれなりに大きい家で50坪もある。2階建てで庭もある。娘が庭で遊べるようにとこの家に決めた。

 誰もいない室内に入る。一人では広すぎる家だが、いまさら移る必要もない。

みゆきが亡くなって以来、娘の部屋はそのままになっている。妻が処分を嫌がったのもあるし、自分もあえて整理する気にはなれなかった。

 久々に2階のその部屋に入る。そして本棚にある娘のアルバムを取り出す。このアルバムも美幸の死後は見たことがなかった。見る勇気がなかっただけである。見れば思い出が怒涛の如く押し寄せてくるはずだった。

 子供のころからの写真が並ぶ。妻がきれいにまとめてくれていた。昔は子供といっしょに見たものだ。今日、見た『みゆき』を思い出す。こうして冷静に見ると確かに自分たちの美幸とは違っている。そうだったかな。自分たちの美幸は、思い出さないようにしていることで印象が変わって来たのかもしれない。少しほっとした気にもなる。

 結局、如月はそのまま娘の部屋で一晩中すごしてしまった。


 それからは毎日のように公園へ行くようになった。もっとも家にいても何をすることもないので、買い物などをするついでに行くのが習慣になった。

 この公園はこの地域でも割と大きいようで、家族連れや子供たちが頻繁に訪れるようだった。

 如月は仕事をやめてから気が付いたが、日中、どこに行っても高齢者が多いことに驚く。自分自身もその仲間なのだが、この国は老人大国になったことがよくわかる。

 みゆきちゃんも良くこの公園に来ていた。そして如月を見かけるといつも話に来てくれた。娘が同じ名前であると聞いてより親近感を持ってもらえたようだ。

「おじさんのみゆきちゃんは家にいるの?」

「うん、美幸、ああ、そうそう、うちのみゆきは漢字で美しい、幸せと書くんだ。みゆきちゃんはひらがななんだよね」

「そうだよ、むすめさんは漢字で美幸ちゃんっていうのか」

「実は美幸はもういないんだ。天国に行っちゃったんだ」

「ええ、そうなの、それは残念だね。会いたかったな」みゆきは悲しそうな顔をする。

「うん、美幸もそう言うと思うよ」

「うちのお父さんも天国にいるよ」

「そうなの?」

「うん、みゆきが小学校に上がる時に死んじゃったんだ」

「病気だったの?」

「うん、急に悪くなったみたいだった。おとうさん、たまにはみゆきに会いに来てほしいな。お盆の時に帰って来るってお母さんが言ってたけど、みゆきの所には来なかったよ」

「見えないけど、みゆきちゃんの所に来ているよ。大丈夫」

「そうかな。でも見えないのは寂しいよ。お父さんに会いたい」

「おじいちゃんとかおばあさんはいないの?」

「うん、いるみたいだけど、お母さんは会わないって言うんだ。みゆきはよくわからない」

「そうなんだ」

 何か家庭の事情があるんだろうな。

「お母さんはどんな仕事をしているの?」

「うちのお母さんは絵を描いてる」

「絵をかいてるの?」

「そう、でもね。絵を描くだけじゃあ、お金が足りないみたいで、アルバイトもしてるの。近くのスーパーで働いてる」

「そうか、ああ、そういえば、みゆきちゃんの家から油絵の臭いがしたな」

「そうでしょ、臭いって隣の人から文句を言われたりもするの」

「でも、お仕事なんだから仕方がないよね」

「うん、わたしはあの匂い好きだよ。おとうさんがいたときは絵を描くことだけでよかったみたいだけど、今はパートが中心みたいで、お母さん疲れてる」

「そうなんだ」

 あのアパートで子供を育ててパート生活だと、苦しいんだろうな。なんとかしてやりたいが、どうすればいいかな。

「みゆきは早く仕事をしてお母さんを楽にさせてあげたい。絵だけを書いて欲しい」

「うん、そうだね。でもお母さんはみゆきちゃんが勉強して立派な人間になることを望んでるんじゃないの?」

「そうなんだ。よくわかるね。勉強しないと立派な人間になれないって、よく言われる」

「みゆきちゃんは成績はどうなの?」

「えー、それは秘密だな」

「秘密か、おじさんは理科とか算数は得意だったよ。絵とか音楽はだめだったけど」

「そうなの、みゆきは音楽とか絵とか大好きだよ」

「おじさんも見たり、聞いたりするのは好きなんだけどね」

「そうなの?あ、そうそうお母さんの絵が賞をもらったんだよ。今度、展示されるって」

「そりゃあ、すごいね。どこで展示されるの?」

「えーとね、六本木って言ったかな」

「六本木?国立新美術館かな」

「そうそう、そんな名前だった」

 新美術館だったら日展なのかもしれない?それはすごいな。


 如月は買い物ついでに公園に顔を出すのが日課になっていった。がん治療は在宅での薬物療法を基本としていたが、徐々に進行しているようで余命が伸びるようなことはないようだった。

 それでも、みゆきの存在が如月に生きる希望を与えていた。なんとかこの家族を幸せにできないものかを考えていた。ただ、金銭的な援助をいきなり行うことを母親が希望するとは思えない。何か複雑な事情がある家庭のようだった。


 都内の病院への定期通院のついでに美術展のことを思い出し、調べると日展はまだ開催していることがわかった。

 病院からは地下鉄で行ける。それで六本木の国立新美術館まで足を延ばすことにした。六本木駅を降りて、美術館まで歩く、都会にありながらこの一帯は自然もあり、美術館は建築物自体も美しく、それが美術品のようである。

 日展は会場をほとんど使用する規模の美術展で、絵画だけでなく、彫刻やデザイン、書まで展示されている。すべて回るほど、如月の体力は持たないので、みゆきの母親の油絵のみを見ることにした。

 会場に入る。油絵だけでもすごい数の作品が展示されていた。如月は絵の知識があるわけではないが、学生時代に美術部にいて少しだけ油絵を習い描いたことがあった。

 みゆきちゃんの母親の名前を探す。たしか松浦だったはずだ。端から見ていき、結局、入り口付近まで戻って気が付いた。入り口の方に受賞作が多く展示されていた。

 その入選作品が多く展示されているエリアにきて、その絵は一瞬で如月を捉えた。

 そこにみゆきがいた。ああ、娘を描いたんだな。特選に選定されたその絵は娘に対する愛にあふれていた。100号(162.1×162.1㎝)の絵だろうか。大作である。

 如月にとっての天使がいる。この絵がほしいと漠然と思った。

 しばらく絵に見入っていて、いつまでもここに居ると迷惑と思った瞬間、また、眩暈がした。しまった。油断した。ふらっと座り込む。

「大丈夫ですか?」

 後ろから声がかかる。銀髪を後ろに束ねた中年の女性のようだった。

「すいません。大丈夫です。ありがとうございます」

 如月はこのままだと、迷惑がかかると思い、這うように歩く。

「無理なさらない方がよろしいですよ」

 なんと親切にその女性が手を引いてくれる。そしてそのまま、展示会場を出て、近くの椅子に腰掛ける。

「本当にすみません。もう大丈夫ですので」

「どこか、お悪いのですか?」

「いえ、ちょっと貧血気味なもので、すみませんでした」

このままだとさらに心配をかけそうだ。無理をしても歩いて帰らないと。そう思いながら、立ち上がり、出口に向かおうとする。しかし、ふらついてしまった。

「とても歩ける状態じゃないですね。」

 女性が後ろから笑顔で声を掛けてくれる。なんとなく顔を見ると思ったより若い女性かもしれない。銀髪ではあるが目元が涼しく、それでいて鋭い目をしている。はっきり言って美人である。如月は観念する。

「はは、そうですね。私、そこの喫茶室で休憩してから帰ります」

「あら、私もそこに事務所の子を待たせてますよ」

「そうなんですか、じゃあ、そこまでご一緒させてもらいます」

 二人で喫茶室まで歩く。確かにそこでは若い男の子がスマホをいじっていた。女性が近くに寄る。

「西城君、お待たせ」

「ああ、社長、もうよろしいんですか?」

 ああ、社長なんだ。確かにそういった雰囲気は持っている。

「うん、だいたい見終わったわ。ああ、こちらはさっき、お会いした方」

「ああ、如月と申します」

「如月さんね」

「はい、どうも」若者は若干、怪訝そうな顔で如月を見る。誰なんだろうといった感じか。

「ちょっとご気分が悪いみたいで、こちらで一服されるそうなの」

「ああ、そうなんですか」

「そうね。私もお茶して帰ろうかしら」

「ああ、そうされますか?僕、注文してきます。ここはセルフなんで僕が買ってきますね。何にしますか?」

「私はコーヒーでいいわ、如月さんは?」

「ああ、すいません。じゃあ、お言葉に甘えて私はミルクティーをください」

「わかりました。買ってきます」若者は勢いよく注文に行く。

「社長さんだったんですね」

「ああ、そうなの、小さい会社なんだけどね」

「そうなんですか、私はついこないだ会社を退職しまして、今や無職の身です」

「そうですか、それはお疲れ様、定年まで働かれたんですか?」

「ええ、今は再雇用と言って、60歳過ぎても働けます。63歳になります」

「そうですか。でも、まだまだ働ける歳ですね」

「そうですね。まあ、ちょっと小休止といったところでしょうか、今まで働きづめだったもので」

「そういう私もいつまで働けるか、ただ、私の場合、後任が必要になるのですぐには辞められないですね」

「はあ、失礼ですがどういった仕事をされているのですか?」

「ああ、こちらも失礼しました」

 そういってバッグから名刺を差し出す。名刺には柳沢麗子、プラチナシードとあり、代表取締役の肩書で芸能事務所のようだ。

「業界の方でしたか、私、こういった分野は疎いのでよくわかりません。色々、大変なんでしょう?」

「そうですね。浮き沈みの激しい業界ですので、それなりに気苦労は耐えませんね」

 柳沢が笑顔を見せる。先ほどの若者が飲み物を持ってきた。

「どうもありがとうございます。おいくらでしたか?」

「いいんですよ」社長が手で制する。

「いえ、そこまで甘えるわけにはいきません」

「そうですか。」如月は金額を聞いて若者にお金を払う。

「そういえば、先ほどはずいぶん長い時間、同じ絵をご覧になってましたね」

「ああ、周りの迷惑も考えてなくてすみません。実は知り合いの方の絵だったもので」

「そうですか、確か特選だったかしら、あの絵のモデルは娘さんなのかしら」

「あなたもご覧になられたんですね。ええ、そのようです。実は娘さんにもお会いしてるのですが、絵というものは不思議なものでなんというんでしょう、その本質を表現しているというか、また、書き手の情愛も感じられて、とても素敵な絵でした」

「そうね。私も素敵な絵だと思いましたよ」

「柳沢さんは、今日はお知り合いの方の絵画鑑賞だったのですか?」

「ええ、それもありますけど、私自身も絵の勉強もしているのですよ。教室に通ってね」

「そうですか、いいご趣味ですね。油絵をやられるのですか?」

「水彩画もやりますけど、油絵は準備もありますから気合が要ります」

なるほどこの人なら絵について知識があるのかもしれない。如月は思い切って聞いてみる。

「あの、変な話ですが、絵を買うのは大変なんでしょうか?」

「ああ、そんなに大変じゃありませんよ。画廊などで売ってますし、今はネットでも買える時代ですから」

「そうなんですか、費用的にも、私なんかが買えるものなのでしょうか?」

「ああ、有名な画家の絵はそれなりに高いものもありますけど、通常はそれほどでもないです。むしろ感覚的には安いかもしれませんね」

「例えば、今日、展示されていたような作品になるとどうなんでしょう?」

「そうですね。それこそ、作者によるとは思いますが、高くても数百万ぐらいじゃないですか」

「え、そのぐらいなんですか。」

「そうです。だから、プロの画家も厳しい生活をしていますよ。絵だけ描いて暮らしていけるような画家は少ないんじゃないでしょうか。それこそ、学校の先生をやりながらとか、教室を開いたり、色々、苦労されていますよ」

「そうなんですか。」

「皆さんが名前をご存じのような画家になると、ある程度は金銭的には恵まれるんでしょうけど、数少ないでしょうね。まあ、芸術家はそういったものでしょう。私どもの業界もそれこそ、芸を売ってるわけで潤沢に商売になるのは一握りでしょうね」

「なるほど、それでは、先ほどの絵も私が買えたり出来るんですかね」

「出来ますよ。ご本人からお買いになるのに抵抗があるのなら、画廊を通されればよろしいかもしれませんね」

「そうですか。そういった方法もあるんですか」

「ああ、私でよければ、画廊を紹介しますよ」

「ええ、ぜひ、お願いします」如月の顔が輝く。

「じゃあ、先ほどの名刺に連絡下されば、メールでも電話でもけっこうです」

「はい、すみません。ではまた、連絡させていただきます。ああ、でもすみません。ずうずうしいお願いなのに」

 柳沢はにこやかに笑いながら、

「こういった業界にいるせいかもしれませんが、私は縁というものを大事にしています。ここで如月さんとこういった形でお会いしたのも何かの縁ですよね。私の人生はこう言った縁を基本に広がって来たとも思っています。お気になさらずに、連絡お待ちしています」

「はい、ありがとうございます。」

「私たちもこれから事務所に戻りますので、駅まで車で送りましょう」

「そんな、そこまでしてもらうのは」

「六本木駅までですから、遠慮なく」

「はい、すみません」

 如月は社長の車で駅まで送ってもらった。本当は体調が悪く、駅まで歩くのもやっとの状態だったので助かった。後で別途、何かお礼をしなければならないなとは思っていた。

 地下鉄から私鉄に乗り換えて自宅の駅に着いたが、そこからもタクシーで帰った。いよいよ、体調面でも自分の思い道理にならないようだ。

 家に着いてから、ネットで社長の経歴を確認してみる。想像以上に大手の芸能事務所のようだった。如月でも知っているようなタレントを数多く抱えている。

 早速、メールで本日のお礼と事務所宛にお届け物を送った。そして考える。もし、画廊経由でみゆきの母親の絵を買えれば、少しは生活の足しになるかもしれない。


 数日後、柳沢社長から連絡をもらった画廊に絵の件を依頼すると、購入可能とのことで早速、買う手はずを整えた。絵画の価格は号単位での値段付けになるらしく、みゆきの母親はまだ、新人ということで号単価は1万円ぐらいとのことだった。如月の希望で2万円換算で購入することにした。それでも200万円であり、画廊のマージンもあるので彼女にはそこまでの金銭はいかないだろう。

 ただ、絵画購入という方法でも家族を支援できればという如月の思いは達成できそうだ。そういったことも今後、画廊に相談しないとならない。


 その後も如月とみゆきの交流は続いていて、如月にとって人生最後の望みはこの娘の幸せしかなくなった。まったく希望のなかった最後の瞬間がこれほど充実するとは思っても見なかった。それ以上になんとかこの件に道筋をつけないと死んでも死にきれない気持ちになっていた。


 公園は子供たちだけでなく、地域の若者も来ることがあった。中には顔をしかめたくなるような者もいて、そういった時は子供たちは公園には立ち寄らない。如月も公園でからまれるようなことも度々あった。しかし、こういった若者はどうやって生計を立てているのだろう。昼日中からブラブラしていて、まともな仕事もしていない。特に近年、この地域にはこういった若者が増えているようだ。子供たちや近所の人から話を聞くと、半グレ集団が増えていて、特に多摩地域で活動を活発化させているようだった。

 今までは仕事をしていたので、日中は周辺の状況もわからず、帰宅時は夜間でそれこそ、寄り道もしなかったので、状況には気が付かなかったが、日中、自宅周辺を徘徊すると度々、そういった若者を見かける。


 そんなある日、公園に行くと、みゆきや友達の子供たちがワイワイやっていた。見ると子犬をかまっているようだ。

 如月が近くに寄って話をする。

「どうしたの、その犬?」

「チャッピーのこと?」みゆきが答える。

「チャッピーって言うの、誰の犬なの?」

 子犬はおそらく雑種で秋田犬が混じっているような感じだった。

「チャッピーはみんなで飼ってるんだよ」

「そうなの、でも、どこで飼ってるの?」

「今までは河原に小屋を作って、そこで飼ってたんだけど。大きくなってきたんで周りの人に気が付かれて処分されそうになったの」男の子も心配そうな顔をしている。

「学校でも飼えないって言われたし、このままだと本当に処分されちゃうんだ。飼い主を探してるんだけど、雑種だし、ここにいるみんなも飼えるような家じゃないんだ」

 犬は確かにそろそろ大人になりかけの大きさだ。大型犬なのでこのまま放し飼いで飼うわけにもいかないだろう。

「だったら、しばらくの間、おじさんの家に置いておこうか?飼い主が見つかるまでだけど」

 子供たちの顔が輝く。「ほんとに、いいの?」

「うん、うちは昔、犬を飼ってたから、その頃使ってたケージもあるから、しばらくだったらいいよ」

「わーーい、やった。おじさんありがとう」

「でも昼間はみんなで面倒を見てくれよ。夜はうちで預かるから」

 子供たちは大喜びでチャッピーと駆け回る。心なしか犬も嬉しそうに跳ね回る。

 それから、犬は夜間は如月が預かることになった。

 昔、如月の娘の美幸が小学校に上がった頃に犬を飼いたいと言って来た。みんなでペットショップに行き、美幸が気に入ったトイプードルを飼うことにした。当時は家の中でケージを使って飼っていたのだ。そのケージを庭に置いてチャッピーを飼えば、如月がいなくても子供たちがそこから連れていけることになる。

 トイプードルは美幸が死んだ後も生きていたが、その後、数年で息を引き取った。

 元々、チャッピーは首輪もなく、放し飼いのようだったが、それだと近所の目もあるので如月が首輪とリードを買って遊ぶときはリードを付けるようにした。飼い主登録もしたほうがいいのだが、本当の飼い主を決めてもらうまでは登録できない。

 如月にとってはみゆきと会う口実ができたこともあって逆にいいことだった。

 学校帰りに如月の所に子供たちが来て、犬を連れていく。たまに来ない時もあったが、如月も犬は嫌いじゃないので、それなりに相手をすると気がまぎれた。

 チャッピーと言う名前はなんでもアニメに出てくるキャラクターから取ったらしい。色や雰囲気が似ているそうだ。

 みゆきも如月の家に頻繁に来るようになったので、彼女の家庭の事情も少しづつ見えてきた。みゆきの母親は、親に反対されて半ば駆け落ちのような状態で結婚したらしい。それ以来実家には顔を出していないそうだ。みゆきも祖父母とは会ったことがないらしい。  

 おそらく結婚した父親に抵抗感があったらしい。母親は絵をやってることからもそれなりの上流階級ではないかと思われる。対してみゆきの父親は親もいないような家庭だったそうで、父親には親せきもいないようだった。結局、みゆきの母は親からの援助を断って生活しており、意地でも頼ることができないようだ。

 事実確認をしていかないといけないが、なんとか如月が力になれないかとも思っていた。このままだとみゆきがかわいそうだ。

 また、その後も芸能事務所社長の柳沢麗子とはメールや電話での交流が続いていた。主に画廊や画家の話をするのだが、如月は知らなかったが現在の美術界では、驚くべきことに画家側の取り分が少ないそうだ。柳沢が紹介してくれた画廊は今回の件ではそれなりに対応してくれたそうだが、それでも50%は手数料で持って行くらしい。画家の取り分が30%といった例も多々あるそうだ。画家とパトロン(専用のスポンサー)の関係になることが重要だとも教えられた。パトロンになれば直接、画家から絵を購入するために中間マージンを取られることがない。如月がみゆきの母親のパトロンになれば、好きな絵を描いてそれを買ってもっと多くの援助をすることが出来る。

ただ如月にとって気がかりなのは自分の人生の残り時間だ。どうやら、母親の今まで描いた絵はすべて販売済であり、今から購入したところで家族への資金援助にはならないことになる。なんとか如月が存命中に購入可能な絵を描いてもらうしかない。

 それで家庭の状況確認を含め、みゆきの母親と話をさせてもらうことにした。

 みゆきと一緒にアパートに顔を出す。今回は部屋に入れてもらえた。2Kの木造アパートで6畳間と4畳半があるだけだった。その4畳半は絵を描くための部屋プラス物置になっているようだ。如月が独身の頃に住んでいたアパートを思い出す。やはり油絵特有の臭いがした。テレピン油の臭いだったか。

 ちゃぶ台があり、差し向かいで座る。以前、会った時もそう思ったが、母親は年齢よりも老けて見える。おそらく40歳にはなってないと思うが、それ以上に見えてしまう。

 如月が話をする。

「お忙しいところ、すみません。少しお話をしたいことがありまして」

「いえ、こちらこそ、いつもみゆきがお世話になってます。犬の件でもご迷惑をおかけしているようで、本当に申し訳ありません」

「いえ、犬の件はこちらも癒されてますので問題ありません。お気になさらずに」

「今、お茶を入れますね」

「いえ、けっこうですよ。おかまいなく」

 母親が台所に向かう。みゆきが小声で如月に話す。

「なんか、おかあさん緊張してるみたいだよ。この家にお客さんが来ることがあんまりないから」

「そうなんだ」

「うん、お母さんは昼間はだいたい働いているから、夜しかいないんだ。今日はたまたま休めたみたい」

「それは悪いことしたな。お休みなのに」

「お休みの時はいつも絵を描いてるの。さっきまでそっちの部屋で描いてた」

「それじゃあ、ますます悪いな。早めに切り上げないと」

 母親がお茶を持ってくる。

「すみません。ティーバッグのお茶です」

「なんか、お仕事のじゃまをしたようですみません。用件を済ましたら早めに退散しますので」

 母親が少し笑顔でうなずく。やはり時間が必要なようだ。

「単刀直入に話をさせていただきます。実は絵を描いていただきたいのです」

 母親は不思議そうな顔をする。

「絵ですか?」

「はい、実は先日、私の方で日展に発表されていたあなたの絵を買わせていただきました」

「ああ、貴方が買われたのですか。取引のない画廊からの話だったものですから、少しびっくりしました。そうでしたか」

「はい、私も絵を買うのが初めてで知り合いの方から画廊を紹介されて購入しました」

「それはお世話になりましたね」

「少し調べさせていただいたのですが、貴方の絵はすべて販売済だとか聞いてます」

「ああ、個人的に販売出来ないもの以外はすべて買い手がいれば、売らせていただいています」

「そのようですね。ゆくゆくは市場に出ているものも買いたいと思っていますが、出来れば、これからお描きになるものも差し支えなければ私の方で購入したいとも思っています。もちろん値段的に折り合えばになります」

「あの、ちょっと戸惑っています。そこまで私の絵を気に入って貰えたのは嬉しいのですが、その理由はどこにあるのでしょう?」

「理由は、うまく言えませんが、気に入ったというか、私の感性に適合したというか、日展であの絵を観た瞬間にショックを受けました」

「はあ」母親は半信半疑の顔である。

「私自身、絵については素人で油絵が何なのかもわかってないような人間ですが、感動したことは事実です。それでよろしければあなたの絵のファンとして、集めていきたいと思った次第です」

「そうですか、私としては嬉しい提案です。今、私の絵はそこまでの需要があるわけではありません。今回の入選もようやくといった状況で、画家として食べていけるような状況でもないです」

「厚かましいお願いですが、描いていただけませんか?」

 母親は少し考えた末に、

「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」その言葉で如月はほっとする。

「絵のテーマについてはあなたにお任せします。サイズについてもあなたの好きなようにお書きください」

「え、それでいいのですか?」

「はい、ただ、決めた後からどうこういうのはおかしいと思いますので原案については見せて頂いてそこからスタートする形でどうでしょうか?」

「はい、それでけっこうです」

「サイズは大きいほうがいいです。200号でもそれ以上でも、貴方の創作意欲のままに描いて下さい」

「200号だとこの部屋だと難しいですけど・・・」

「そうですね。アトリエも提供したいぐらいですが、まずはあなたの出来る範囲で描いて下さい。ああ、あと、金額ですが号単価5万円でいかがでしょうか?」

「え、そんなにいただけるんですか?」

「今回は画廊も通さないのでそれで構いません。一応、契約書も交わしましょう」

 母親はあまりの話に呆然としている。

「あと、虫の良いお願いですが納期は早い方が嬉しいです。だいたいどのくらいかかるんでしょうか?」

「日展に出したものは構想を入れて1年かかりました。ただ、こちらに任せて頂けるようなので急いで仕上げても2カ月はいただきたいと思います」

「そうなんですか、そんなに時間がかかるんですか」

「元々、時間がかかるタイプなんですよ。ゴッホとかモディリアーニなんかものすごく早かったらしいですけど、私はとてもそこまで早くは描けません」

 初めて彼女の顔から笑みが生まれた。

「あと、失礼かもしれませんけど、当座の資金についても私の方から出させていただきます。材料費やら色々かかるでしょうから」

「どうして、そこまで・・・」

「画家にはパトロンがいるのが一番なんでしょう?あなたの絵のファンとして私にパトロンをやらせていただきたい。ああ、その前に私の状況ですが、今は会社を辞めて無職の身です。ただ、長いサラリーマン人生でそれなりに貯えもあります。言い方は変ですが余裕資金とでもいうんですか、それは潤沢にあるんです。妻にも先立たれましたし、子供もいません。生きていけるだけのお金は年金だけでもなんとかなるぐらいです。金銭的には何の問題もないとお考え下さい」

ここで母親はじっと下を向いて深く考えている。しばらくそのままで意を決したように如月に向かって話を始める。

「みゆき、ちょっと外で遊んでてくれない。おじさんと二人で話をしたいので」

「え、どうして?私も話を聞いていたい」

「うん、でも大人の話だから、みゆきにはいつか話をするから」

 みゆきはしぶしぶ、承諾して外に出ていく。「公園に行ってるよ」

「おじさんもあとから行くよ」

「うん、じゃあね。」みゆきが出かける。

 みゆきがいなくなって、母親が意を決したように、おおきく息を吐いてから、話を始める。

「実は困っていました」

「はい?」

「ええ、私には借金があります」

「はあ」

「それも500万円を超えるような金額です」母親が徐々に話を始める。

「みゆきの父親は病気で亡くなりました。癌だったんです。気が付いた時には手遅れでした。それでも一縷の望みで抗がん剤や色んな治療をおこないました。当時はそれなりに貯金もあったのですが、入院費や治療費もかさんで貯金は底をつきました。結局、主人は亡くなってしまったんですが、以降は収入減もあり、生活はぎりぎりになっていました。アパートも、こんなところでも家賃を払うのがやっとの状況で、絵を描くのも止めようとも思いました。ただ・・・・」ここで母親の頬に涙がこぼれる。

「ただ、画家で成功するのが主人と私の夢でしたから、それは捨てられない。主人も絵描きでした。亡くなる時もその夢の話をして、何とか私がそれをかなえないと、それだけは私が生きていく意味だとも思っています」

 如月にとっても初耳だったが、絵を観たときの危機感の様なものはそこから来ていたのかもしれない。

「そんな時、結局、だまされたんです。家賃やらみゆきの学費とかお金が必要な時があって、お金に四苦八苦していました。バイト先で知り合った方が、お金を貸してくれるというので借りたんです。50万円でした。証文とかもいらないというので、それをそのまま信じて借りたんですが、返す段になって利子が付いたとか金額が違うとか言い出されて、結局、その金額が500万円になったというんです」

「それは高利貸しじゃないですか、警察に相談したらどうですか?違法ですよ」

「それが、先方の方で巧妙に証文も作成されていまして、お金を借りたことは事実ですので、犯罪に問うことは簡単ではないようなんです」

「そんなこと・・・」

「わかりません。そういった手続きも疎いので、私にはどうしようもないんです」

「わかりました。それについても私がなんとかします。また、経緯などは相談することになると思います。大丈夫です。多分、問題なく解決できますよ」

 典型的な闇金の手口と思われる。こういった内容であれば弁護士に相談すれば処理できるはずだ。ここまでの話でほっとしたのか、母親の顔がなごむ。

「誰にも相談できなくて、どうしようかと思っていました。また、人を信じることもできなくなっていたので・・・申し訳ありませんが、如月さんの話もまだ少し疑ってしまいます」

「そうですね。わかります。みゆきちゃんから少し話を聞いていましたが、色々苦労なさったようですね。こういう私も信じられないかもしれませんが、なんとかお力になりたいとは思っています。何でも相談してください」

「ありがとうございます。みゆきには心配かけたくないので、あの子は素直に育って欲しいです」

「大丈夫ですよ。素晴らしいお嬢さんです」

「そうですか、そういっていただけるとうれしいです。ああ、そういえば、如月さんにもみゆきというお子さんがいたそうですね」

「はい、残念なことに今のみゆきちゃんの年頃に亡くなってしまいました。こういうと失礼かもしれませんが、自分の子供の分もみゆきちゃんには幸せになってほしいと思っています。私の命の恩人ですしね」

「いえ、こちらこそ、色々、迷惑をおかけして申し訳ありません。みゆきのこともよろしくお願いします」

 母親がやつれていた要因が少しは理解できた。女でひとりでましてや両家のお嬢さんで世間知らずなのかもしれない。そういった人につけ込む輩がいるようだ。いわゆる暴力団などの手口にもそういったものがあるようだ。


 以降、如月は弁護士に相談し、違法な取引であることを立証し、弁済済であると申し立てた。相手は田代真司という男で他にも同じような違法行為を繰り返していたようだった。

 今後は母子にも接触しないように話を付けた。相手も基本的には違法であることを承知しており、 色々難癖をつけてきたが、弁護士を立てていることもあり、無事解決にいたった。

 如月は担当弁護士に確認のため、立川駅前のビル内の事務所を訪問した。ここの弁護士事務所は本社は都内にあり立川は出張所のような扱いのようだった。それでも数名の弁護士を抱えている。

 打ち合わせスペースで担当弁護士を待つ。扉が開き、弁護士が顔を出す。

「お疲れ様です」

「こちらこそ、今回は色々ありがとうございました」

 弁護士は如月の前のソファーに腰を降ろす。すでに数回面会している。30歳前半の男性だ。

「はい、なんとか先方には了解してもらえたとは思います。念書も交わしてます。ただ、なんというか、法律が通じない相手と言うか、はっきり言って、頭が悪い感じで納得はしていない」

「そうですか」

「今後、同じことをしたら法的に出る旨は言い渡しましたので、大丈夫だとは思います」

「はい、ありがとうございます」

「実は同じような案件がすでに数件あります。今回の田代がらみもありますが、どうも多摩地区全体で同じようなことをやってるみたいです」

「組織的な犯罪行為ということですか?」

「そうです。暴力団かと思ったのですが、そうではなく、いわゆる半グレだと思います。手口は同じです。カモを見つけていい言葉をかけ、無利子で返済も何時でもいいみたいなことを言います。金を貸したあとに実際は法外な利子を請求します。それが出来ないと挙句の果てには返済のために風俗で働かせたり、臓器売買をさせたり、なんでもありのようです。今回の様に言い返せない弱い人間をターゲットにしているようです」

「ひどいな」

「実際、今回のように弁護士に相談している例は少ないのではないかと思います。そういった費用も厳しいような人を狙っています。なので氷山の一角と考えると相当数、被害が出ているかとも思いますね」

「警察は動いてないんですか?」

「それなりに動いてはいるようですが、いかんせん数が多いらしい。立件できる事案も少ないそうです。今回の松浦さんも警察では動きづらい案件でした。被害者が強く動けない場合、今回の様な不幸な事になってしまいます。まあ、如月さんが動いてくれたんで助かりましたが、弁護士費用も払えないような人もいますんで」

「そうですか・・・その半グレはどういったグループなんですか?」

「そこまではわかりません。ただ、うちの事務所にもそのグループ絡みと思われる事案がけっこう来ています」

「そうなんですか」

「とにかくカモを見つけたらどこまでも搾り取るようです。如月さんも松浦さんへのフォローを続けてもらうと安心だと思います」

「はい、わかりました」

 如月は内心、困ったことになったと思う。自分の体ではいつまでもフォローできない。どうすればいいのか悩む。


 如月が自宅の庭にいてチャッピーに餌をやる。ようやくチャッピーも如月に慣れてきたようで、餌をくれる人を主人と思うようだ。それでも犬は飼い主に順位をつけるようで子供たちに比べると如月の順位は一番低い。チャッピーはまったく言うことを聞かない。

「チャッピー、今日はみゆきちゃんたち来ないね」

 チャッピーはケージの中を飛び跳ねて、如月に愛想を振りまく。

「さっき、ご飯を食べただろう、お前は食い意地が張ってるな。あんまり食べると太るぞ」

さらにケージから飛び出さんばかりに跳ねる。

「元気いっぱいだな。うらやましいよ。」

 すると外から子供たちの声が聞こえてきた。

「チャッピー、ご主人様が来たみたいだぞ」

 チャッピーは子供たちの声に気が付いたのか、さらに飛び跳ねる。

「おじさん、こんちは!」

 みゆきといつもの男の子たちがやってきた。

「おかえり、学校は終わったの?」

「うん、今日は健ちゃんが掃除当番だったんで少し遅くなったんだ」

「そうか」

「チャッピー連れていくね」

「はい、どうぞ。また、ここに返しといてね」

「うん」

 そういうと子供たちはチャッピーをケージから抱えて、リードを付けて連れていく。

「ああ、おじさんも買い物に行くから途中まで一緒に行こう」

 如月と子供たちがチャッピーと公園まで歩く。チャッピーは子供たちに懐いていてぐるぐると周りを走る。元気いっぱいだ。少しその元気を分けてほしいぐらいだ。

 公園に近づくがそこに誰かいるようだ。子供たちの顔が曇る。特にみゆきがこわがる。

「やばい、あいつらいるよ。逃げよう。」

 見ると公園に数人の男女がいる。公園は禁煙なのにタバコを吸っている。

「え、だれなの?」

 子供たちが逃げるように元の道を戻って行く。しばらくしてみゆきが話す。

「あれが、借金取りだよ」

「え、あれがそうなのか。おじさん、ちょっと見てくる。みんなはチャッピーと遊んできて」そういうと如月だけが公園に戻る。

 男が二人と女も二人いる。

 男のどちらかが田代のはずだ。一人は小さいががっちりした体形でもう一人は180cmを超えるぐらいの大男である。どちらも一見して不良だとわかる。小さい方は短髪だが、微妙に剃りこみが入った髪型でそういったヘアスタイルをなんというのか、如月はよく分からない。

 もう一人は長髪で肩ぐらいまである。女性は若そうだが派手な服で茶髪と金髪である。化粧も濃い。素人ではないような雰囲気である。如月は公園の外側から観察する。下手に見つかると面倒なのでしばらくそのままで見ていた。公園に近づく人はいない。

 数分たって、男たちがそのまま帰っていく。公園脇に黒い車が駐車してあった。車種はランサーエボリューションだ。二人はそれに乗っていく。残った女性が公園から出ようとする。そこに如月が近寄る。

「すみません。ちょっといいですか?」

 二人がぎょっとした顔をする。「何?」

 近くで見ると意外と若い20歳、もしくはそれ以下かもしれない。如月を怪訝そうな顔でみる。

「さっきの男の人について聞きたいんですが」

「忙しいんだよ」女性たちはそのまま、行こうとする。

「ああ、すみません。時間は取らせません。今の人、田代さんですよね」

 茶髪が分かったような顔をする。

「おっさん、マッポか?」

「いえ、そういうのではないです」

「じゃあ、なんだよ」

 如月はこのままでは埒が明かないと思い、財布を出す。

「失礼ですけど、これでなんかお昼でも食べてください」

 2万円も出したので、二人ともびっくりした顔をする。

「おっさん、パパ活希望か?」

「いえ、そういうのでもないです。田代さんのことを聞きたいだけなんです」

「そうなのか、じゃあ、遠慮なく貰っとくよ。ここで話すかい」

「はい、大丈夫です」

 公園のベンチに3人で座る。

「で、何を聞きたいの?」金髪が煙草をくわえながら聞く。

「今の人のどっちが田代さんなんですか?」

「なんだ。それも知らないのか、小さい方が田代、で、でかいのが木村だ」

「なるほど、貴方たちはどういう関係なんですか?」

「うちらはキャバ嬢だよ。あいつらは客、今、アフターの帰りさ、眠いんだよ」欠伸をする。

「常連なんですね」

「そうだね。よく来るよ」

「田代さんはどんな仕事をしてるんですか?」

「仕事?無職じゃねえの。表向きはフリーターとか言ってるけど。どうみても仕事人じゃないよ」

「でも、お店に行くのも金がかかるでしょう?」

「あいつら、グループに入ってるからな」

「グループって?」

「ヘチだよ。知らないかい?」

「ヘチ?知らないです」

「ここらへんはほとんどヘチの縄張りなんだよ。うちらの店もオーナーはヘチだって話だし」

「えーと、そういう筋のグループなんですか?」

「そういう筋って何のこと?半グレだよ、半グレ」

「ああ、そういうグループですか」

「元々、暴走族だったらしいけど、族自体がヘチになったみたいだよ」

「そうなんですか。彼らはヘチでどんなことしてるんですか?」

「はあ、おっさん変なこと聞くな。まあ、いいか、ここからはオフレコだぜ。噂だけどけっこうやばいことやってるらしいよ。あいつらはオレオレとか闇金が主だって聞いてるけど、もう少し幹部になるとヤクも扱うらしい」

「オレオレ詐欺ですか」

「おっさんも気をつけなよ。今は奴ら色々考えてるから、ネットで変なサイトをみたとか、年金がらみとか次から次に金儲けの種を考えてくるみたいだよ」

「なるほど、闇金っていうのは?」

「適当に金を貸してから、後から法外な利子を請求したり、薬付けにしてから、さらに金を貸したり、色々だよ。あいつらはその儲けに応じて金をもらうみたいだよ」

「そうですか」

「あとね。リストがあるって聞いたことがある。地域ごとに金づるになりそうな家庭をリストアップしているんだって。詐欺にかかりやすい人っているだろ、あとは断り切れないような人ね。そういう人を選んでるらしいよ」

「そうなんですか」

「そういうのはヘチ側でやってるらしいよ」

「なるほど、頭がいい人が居るんですね」

「そうらしいよ。これも噂だけど幹部は中国人って話だよ。なんか、顔を見た人はいないみたいだけど」

 もうひとりの茶髪が眠そうな顔をしている。そろそろ終わりの時間か。

「おっさん、こんなところでいいかな」二人が腰を上げる。

「そうですか。はい、色々、ありがとうございました。あなたのお店に行ったらもっと話が聞けますか?」

「おっさん、キャバクラ来るの?きゃははは、いいよ。ほら名刺」

 名刺をもらう。名刺には來未とある。

「指名してね」

 二人は眠そうな顔で帰っていく。この近所に住んでいるのだろうか。

 如月は自宅に戻ろうとする。途中でみゆきたちがチャッピーと遊んでいるのに出くわした。

「おじさん」みゆきが駆け寄ってくる。「大丈夫だった?」

「うん、大丈夫だよ。借金取りについて調べてたんだ」

「そう」

 男の子も寄ってきて話す。「あいつら、よくみゆきちゃんをいじめるんだよ。金返せって。」

 如月はぎょっとする。まさか子供にまで脅しをかけてるのか。

「みゆきちゃんにも言うんだ」

「うん、なんか怖いよ」

「そうだね。これからも今みたいにすぐ逃げた方がいいな」

「うん、そうする」

「あいつらはどこに住んでるの?」

「近くだよ。行ってみる」

「うん、いいかい?」

「いいよ。おじさんが一緒だと心強いから」

 男の子が言う。このじいさんのどこが心強いのかわからないが。チャッピーを連れて散歩しながら、田代のアパートに行く。アパート近くの駐車場に先ほどの黒のランサーが停めてあった。あそこが駐車場か。

「おじさん、ここだよ。あいつの家は」

 普通の木造モルタルアパートである。1階の102号室が田代の部屋のようだ。掃除もしないのか、アパート前は空いた缶ビールやその他のゴミが散乱している。

「普通のアパートだな」これじゃあ、車の維持費のほうが高く付きそうだな。

公園が空いたので子供たちはチャッピーを連れて公園に行った。


 如月は自宅に戻り、ヘチについて調べてみた。しかしながら、ネット情報ではヘチについてはほとんどわからなかった。多摩地区に半グレとして存在していることは確かなようだが、構成員や活動内容などはほとんど見えてこない。ただ、相当な勢力である点や、周辺の暴力団をしのぐスケールで活動しているようだった。

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