第6話 一難去ってまた一難
前回までのあらすじ
リリィ強し。さすがはギギの親分。
それはまさに地獄絵図だった。
次々にホブゴブリンたちを飲み込んでいく炎の塊。手足は吹き飛び、着衣には炎が燃え移り、次第に彼らを消し炭へと変えていく。
肌を溶かすような一千度を上回る炎には、さしものゴブリンたちも抗うことができない。ただひたすらに逃げ惑うばかりで、直前までの鬼気迫る様はもはや見られなかった。
その前には無言のまま炎を放ち続ける無表情のリリィ。突き出された両手から絶え間なく放たれる炎は、まさに弾幕としか言いようがない。
燃え盛る炎に浄化され、今や物言わぬ肉塊と化したホブゴブリンだったもの。それをしばらく眺めていたエリクがやっと我に返った。
「お、お前……リリィ……マジかよ……」
「リリィ……お前はいったい……」
信じられないと言わんばかりにエリクとクラウスが言葉を漏らす。無表情のまま二人を見つめ返すと、リリィは前方に佇む大きな化け物へ視線を移した。
「安心するのはまだ早い、もう一体残っている。さすがにあいつは一筋縄ではいかない」
「えっ……あ、あぁそうだな。次はあのデカぶつをなんとかしないと……」
「そ、そうだ、それは? その火の玉は? あいつには効かないのか?」
「たぶん効かない。見て、あれはトロル。トロルはゴブリンのような亜人じゃない。魔獣のようにも見えるけど、その正体は精霊の一種。だから魔法はあまり役に立たないと思った方がいい」
聞き捨てならない言葉。思わずクラウスが訊き返した。
「なに? ってことは、これまで通り肉弾戦ってことか?」
「そう、そのとおり。だけどあいつの回復力は半端じゃないから、剣で斬った程度では倒せない」
「そ、そうなのか……くそ! なら、どうする? どうすれば倒せる?」
「簡単。再生できなくなるまで身体を細切れにして、燃やしてしまえばいい」
変わらず無表情にリリィが語る。するとエリクが絶望的な顔で顎をしゃくった。
「細切れにするって……あれをか?」
見上げるような巨大な体躯に、正視し難いほどの醜い容姿。
見た目通りに知能も低く、精霊族でありながら物質界の住人――人間や亜人を食らうトロルは、その生態から他の精霊種に疎まれてついに精霊界を追放された。
とは言え、腐っても精霊族である。物理攻撃に対する耐性は、たとえ身体が切り離されても僅かな時間で元通りになるほど高かった。
そんな相手を細切れにしろと言うのだ。どう考えたってできるわけがない。
今やエリクとクラウスは、誤魔化しようのない絶望に打ちのめされていた。
ホブゴブリンが全滅した。それを見届けたトロルが、巨大な棍棒を振り上げてのしのしと歩き始める。
距離およそ30メートル。もはや戦闘は不可避。エリクが茫然としていると、事も無げにリリィが告げた。
「はっきり言う。あれはクラウスにもエリクにも無理。どう足掻いたところで倒せるとは思えない」
「くそっ、言ってくれるな! じゃあ一体どうすればいいんだ? あいつを倒さなければ、ここから逃げることもできないんだぞ!」
「確かにな。しかし幸いなことに動きは鈍そうだ。ならば足を集中的に狙って転ばせるか?」
「だが……懐が深すぎる。こちらの攻撃が当たる前に薙ぎ払われそうだ」
「うむ……」
じりじりと後退するエリクとクラウス。トロルを倒す算段を今さらながらに考え始めたものの、特に妙案も浮かばない。
もっともそれは二人ともわかっていた。無駄だとわかっていてもそうせざるを得なかったのは、そうしなければエリクもクラウスも恐怖に負けてしまいそうだったからだ。
口では平静を装いながら、決して身体の震えを止めることができない。
そんな二人に向かってリリィが言う。
「トロルに正面から挑むのは馬鹿のすること。自殺行為。やめた方がいい」
「じゃあ、どうすんだよ! このまま全滅したくなければ戦うしかないだろう!? たとえ勝ち目がなくてもな!」
この期に及んで、なおも淡々と告げるリリィに向けて思わずエリクが感情的になる。さすがの彼も場違いなほどの冷静さに神経を逆なでされたらしい。
とは言え、勝ち目がないのも事実。リリィの言葉を真に受けるならば、剣で切り掛かるしか手のないエリクとクラウスには、およそ倒す方法などなかったからだ。
するとリリィが続けて言った。
「だから、私が倒す。――下がって」
刹那、リリィの顔に感情が浮かぶ。
これまでずっと無表情を貫いてきたにもかかわず、目を細めて睨みつける様は、彼女のイメージを大きく変えるものだった。
大きな黒縁眼鏡に彩られた、実年齢よりも幼く見える小さな顔。長い髪に半ば隠されたそれは、よく見れば美しく、そして凛々しかった。
リリィの言葉がエリクには理解できない。
彼女はトロルを倒すと言っている。確かに意味はわかるし理解できるのだが、肝心の意図がわからなかった。
トロルには魔法が効かないと、自分でそう言ったのではなかったか。
エリクの顔に胡乱な表情が浮かび上がると、気付いたリリィが再び無表情に戻って告げた。
「おかしな顔をしないで。なにも私自らが戦うとは言っていない。トロルに魔法は効かないし、あなたたちも細切れにできないのなら、代わりにできる者を呼ぶまでのこと」
「呼ぶ? それはどういう意味だ? 今さら助っ人を呼びに行く余裕なんて――」
「任せて。その代わり、ほんの少しだけあいつの足を止めてほしい。できる?」
言いながらリリィがトロルを指差す。訳も分からずエリクが頷いた。
「わ、わかった! 俺とクラウスでなんとかあいつの相手をしてやるよ! だからお前はさっさと助けを呼んでくれ!」
根拠もなく、闇雲にリリィを信じようとするエリクに対して、クラウスが疑うような視線を向ける。
まるで意味がわからない。
彼の顔にはそう書いてあった。
「お、おい、ちょっと待て! お前正気か!? 助けを呼ぶって言ったって、一体誰を? どうやってだ!? そもそもこの状況で――」
「ガタガタ煩い。いいからトロルの足を止めて。30秒だけ持ちこたえてくれればいい」
「お、お前――」
「Σφл∽μФ∈πёΧʅ( ՞ਊ՞)ʃ〜τκЭΔαЁωψζ~~」
クラウスの返事を待つまでもなく、突如リリィが歌い始める。甲高くも美しいその声音は、弦楽器の調べにも似て耳に心地よかった。
いや、正確に言えばそれは歌ではなく呪文の詠唱だったのだが、間近で魔法を見たことのないクラウスたちには歌唱しているようにしか見えなかった。
それを尻目にエリクが動き始める。リリィとの約束を守ろうと律儀にもトロルの前に立ちはだかると、その横にクラウスが並んだ。そして叫ぶ。
「お前一人に任せられるか! リリィを信じるお前の侠気、俺も乗らせてもらう! ――いいか、俺は右の膝を狙う、お前は左だ!」
「わかった!」
己に向けて剣を突き付けてくる小さな姿。それを認めたトロルが歩みを止める。百キロはありそうな巨大な棍棒を振り上げながら醜い顔で様子を窺った。
知性の欠片も窺えない醜い顔には、しかし食欲だけは見て取れる。目の前に現れた小さな人間を捕食しようと早速その腕を振り下ろした。
触れただけで粉々になりそうな重量級の打ち下ろし。地面にめり込む打撃は足元を揺らすほどの衝撃だった。
それにも驚いたが、見た目に似合わぬその俊敏さには思わずエリクの瞳が見開かれる。
駆け出しを卒業したばかりとは言え、彼も幾多の修羅場を潜り抜けてきた冒険者なのだ。大抵のことには怖気づかない自信はあったが、さすがに身体は正直だった。
がくがくと震え始める左右の膝。それを必死にエリクが宥めていると、その背をクラウスが怒鳴りつけた。
「エリク! なにやってる、さっさと距離を取れ! そのままだと潰されるぞ!」
「あ……あぁ……」
「ちっ……! おい、デカぶつ! 相手は俺だ! ぶっ殺してやるから、かかってきやがれ!!」
「ウォォォォ!!」
トロルが吠えた。クラウスの挑発に乗るように身を翻すと、同時に重量級の棍棒を振り下ろす。
わかっていたこととは言え、その速度は予想の範囲を超えていた。しかしそれも仕方がない。まるで細身のブロードソードのように百キロ越えの棍棒を振り回すなど、一体誰が予想できただろうか。
咄嗟に剣を掲げたものの、もろともクラウスが潰されるのは間違いなかった。
周囲に響く女たちの悲鳴とエリクの叫び声。その刹那、鋭い金属音がこだました。
「キーンッ!!」
果たしてどこから現れたのか。
見ればそこには、真紅の戦乙女が佇んでいたのだった。