第10話 旅立ちの朝
前回までのあらすじ
エリク……若いな
縋るようなリリィの眼差し。
決して口を開かずとも、その表情が心の内を吐露していた。それを見たクラウスが、太い腕を組んだままゆっくりと話し出した。
「エリク、お前の想いは理解した。諸国を旅して回るのが夢なんだと前々から聞かされてきたからな。今の言葉に嘘も偽りもないことは俺にもわかる。正直に言えばお前を失うのは痛い。パーティメンバーとして手塩にかけてずっと育ててきたんだ。やっと一人前かと思った矢先にこれだからな」
「すまないクラウス。これが我儘なのは俺にもわかっている。ここまで育ててもらいながら、恩も返さないうちに出ていくのは心苦しいけれど、どうしてもこのチャンスを逃したくないんだ。やっと出会えた旅の仲間、ずっと待ち続けていた相手なんだ。それを諦めるなんて俺にはできない」
真正面から向けられる、量るようなクラウスの視線。それを受けたエリクが懇願するように口を開けば、隣からポリーナも問い掛けてくる。
「ねぇエリク。あなたはこの子になにかを感じたのかもしれないけれど、それが単なる勘違い、気の迷いである可能性はないの? できることなら、もう少し時間をかけて考えてみても遅くはないと思うけれど」
「そうそう。なにも運命の伴侶にビビッっときたわけでもないだろうし、そんなに急いで結論を出さなくていいと思うけどなぁ、あたしも」
続けてルチアも声を上げた。
経験豊富。大人の彼女たちにしてみれば、エリクの言葉は若い頃に一度はかかる熱病のようなものに聞こえたらしい。
あくまでエリクは旅の仲間としてリリィを語っているが、なんといっても相手は女性。それも滅多に見ないほどの美少女だ。
ギルド員であることを鑑みればとっくに成人年齢――15歳は過ぎているのだろうが、それでも実年齢以上に幼く見える。
ともすれば年端も行かぬ少女のような容姿で一人旅を続けているリリィ。ポリーナもルチアも、エリクに下心があるのかと邪推してしまうのも無理からぬことだった。
異を唱える女二人。リリィが人知れず胸を撫で下ろしていると、再びエリクが熱く語り出した。
「頼む、わかってくれ。俺は俺の直感を信じたいんだ。――色々と教えてくれたし世話も焼いてくれた。俺は二人に感謝してるし、恩も返したいと思っている。こんな形で飛び出すのは本当に申し訳ないと思うけれど、これは滅多にないチャンスなんだ。もう次はないかもしれない」
「うぅーん……」
「そうは言うけれど……ねぇ?」
眉間にしわを寄せ、渋面で見つめ返すポリーナとルチア。二人に向けてなおも熱くエリクが語る。
するとその背に声が掛けられた。これまで散々話に出てきた人物にもかかわらず、どこか蚊帳の外感が拭えないリリィ。
今やその顔には憤りのようなものさえ浮かんでいた。
「やめて。私の意向を無視して勝手に話を進めないで。そもそも私は、誰とも旅をするつもりはない。一人旅は危険だと言うけれど、私にはギギとブリュンヒルデがいるから。さっきからそう言っているでしょう?」
「まぁな。確かにそうかもしれん。だが、エリクのことも考えてほしい。――こいつは良い奴だ。男の俺が言うのもなんだが、この通り見てくれも悪くない。最近の若い奴には珍しく一本気で気持ちがいいし、なにより真面目だ。もちろん剣の腕も保証する」
「なんと言われようといやなものはいや。謹んでお断りする。殿方……男の人と二人きりで旅をするなんて、あまりに破廉恥すぎる」
「破廉恥? なんだそりゃ?」
「なんでもない。――とにかくもう、この話は終わり。これ以上言っても無駄、気が変わることはないから」
「そんな……頼むよリリィ! 一生のお願いだ! 俺も一緒に旅へ連れて行ってくれよ!」
「いやったらいや。とにかくいや。絶対にいや!」
そこまで嫌がらなくてもいいのではないか。そう思ってしまうほどリリィの拒絶は凄まじかった。あれだけ無表情を貫いていたにもかかわらず、今や顔には明確な拒否と嫌悪が浮かび、淡々としていた口調にも強い憤りが滲んでいた。
けれどエリクも負けてはいない。
何度も何度も熱い想いを伝え続け、頭を下げ、説き伏せようと必死になる。もはやその様は、意中の女性を振り向かせようと懸命になる男そのものだった。
そんなことが繰り返されること小一時間。
ついにリリィが折れた。と言うよりも、それはたった一言の失言を引き出しただけだったのだが。
「はぁはぁはぁ……疲れた。もういい、勝手にして」
延々と繰り返される懇願を断り続けたリリィは、もはや限界寸前だった。普段はほとんど口を開かない彼女は、喋るというたったそれだけの行為に疲れ果ててしまっていたのだ。
半ば朦朧とする意識の中で最後に放った言葉。それを聞いたエリクが、まさに言質を取ったとばかりに勢いよく立ち上がる。
「わかったよリリィ、お前の言うとおり勝手にさせてもらう! ――それで出発はいつにする? 明日か? 明後日か? それとも、もう少し路銀を稼いでからにするか? なぁ?」
「……知らない。もう疲れたから私は寝る。朝まで起こさないで」
息も絶え絶えにそう告げると、リリィは足を引きずるようにして部屋へと入っていく。それを眺めるエリク以外の三人は、なんとも言えない複雑な表情を隠そうともしなかった。
◆◆◆◆
とっくに日もまたいだ午前3時過ぎ。月明りさえ届かぬ曇天のもと、暗闇に支配された宿屋の一角に小さな影が動いた。
きょろきょろと周囲を伺いながら、誰一人として歩く者のない廊下を進む影。時折ギシギシと床が音を立てるのに細心の注意を払いながら、抜き足差し足、出口を目指す。
灰色の地味なローブを身に纏い、背に大きな背嚢を背負った小柄な人物。
それはリリィだった。
昨夜のこと。粘るエリクに根負けしたリリィは、うっかり口を滑らせてついに言質を取られてしまう。それは「勝手にして」という、言わばどうとでも取れるものではあったものの、それをエリクが独善的に捉えたのは間違いなかった。
このままでは二人旅を強要される。
そんな強迫観念にも似た何かに捕らわれたリリィは、誰もが寝静まった夜更けに一人脱出を試みた。受け取った報酬を懐中に忍ばせ、決して多くはない荷物を背に担いで滑るように出口へ向かう。その胸元には、くたっとなったままのギギが抱き締められていた。
あと10歩……あと5歩。
自由へ向けて着実に歩みを進めるリリィ。その背に突如声が掛けられた。
「よぉ、リリィ。こんな夜中にどうしたんだ?」
ぎくり。
動きを止めて顔を強張らせる。この時ばかりはさすがのリリィも無表情のままではいられなかった。まさに最悪の状況。振り向かずともその声の主が彼女にはわかった。いまさら誤魔化しようもない、覚悟するしかないだろう。
「……用を足しに。昨夜は少し飲み過ぎた」
「ふぅーん、そうか。まぁ、昨夜は随分と飲み食いしてたもんな。だけど一つ訊いていいか? お前は用を足すのに全財産を背負っていくのか? しかも外套まで着込んで。――汚れるぞ?」
「……婦女子に対して殿方が、そんなこと訊いてはだめ」
「あぁすまない。少々無神経だった。ともあれ、小便なんだろう? べつだん恥ずかしがるようなもんでもないと思うけど。――それじゃあ俺が灯りを持って厠の外で待っていてやるよ。この暗闇じゃあ足元も覚束ないしな。肥溜めに落ちたりしたら一大事だ」
「エリク……あっちへ行って。音を聞かれるのが嫌だから」
「音? そんなこと気にするなよ。遠征に出ればルチアもポリーナもその辺で用を足してるぞ、盛大に音を立ててな。そもそも俺は、そんなことに興奮するような変態じゃない。安心してくれ」
「なんと言われようと絶対にいや。音を聞かれるくらいなら、死んだ方がマシ。だから、ずっと遠くまで離れて」
「そうか、なら仕方ない。少し離れていてやるから、さっさと済ましてくれ。――ただ一つ言っておくけど、俺を出し抜こうなんて考えないでくれよ。お前は勝手にしろと言ったんだ。だから俺はお前についていくんだから」
「う……」
「クラウスたちとはもう別れを済ませてある。俺はいつでも旅立てるぜ」
「……」
これ以上は言い訳もできない。追い詰められたリリィは半ばやけくそ気味に厠へ入る。そうして時間を稼ぎながら、なんとかエリクを巻く方法を……
などと考えていたからだろうか、注意が散漫になったリリィの片足から地面の感触が失われる。
よろり、とリリィが体勢を崩す。その口から咄嗟に声が漏れた。
「あぁ……」
「どうした!?」
「あ、足が……肥溜めに……」
「えぇ!?」
こうして未だ少年の面影を残す若き冒険者と、魔術師見習いの少女の二人旅が始まる。
まだ見ぬ世界へと思いを馳せるエリクと、変わらず無表情のまま前途多難な行く末を案ずるリリィ。
果たして彼らが行き着く先はどこなのか。それはまだ誰にもわからない。