第1話 森で拾ったもの
雨が降り続いていた。
時刻はすでに夜半過ぎ。目に入るのは深い木々の陰影と漆黒の闇ばかりで、動くものなどなに一つ見えない。
垂れ込める暗雲に隠された月は進むべき方向さえ示してくれず、足元すらも覚束ずに何度も躓きそうになる。
そんな深い森の中に、小さなぼやきが溶け込んでいった。
「うぅ、さぶっ! すっかり身体が冷えちまったなぁ。ゴブリン討伐なんてさっさと終わらせたかったのに、すっかり当てが外れちまったぜ」
ぶるり、と身を震わせながら肩をすくめる一人の男。
十代後半だろうか。目深に雨具を被っているのでよくわからないが、顔には未だ幼さが垣間見える。身に纏う革製の軽装鎧と腰に下げた安物のブロードソードが男の素性を端的に表していた。
その背に後ろから声がかけられる。
「ぼやくな、エリク。こればかりは仕方がない。なに事も予定通りにはいかないものだ。――それよりも、口を開いている暇があるなら今のうちに少し寝ておけ。場合によっては一晩中起きていることにもなるからな」
言いながら肩をすくめるもう一人の男。年齢は30歳前後。見上げるような上背に筋骨隆々の体躯は、近くで見ると相当な威圧感がある。けれど顔には、意外なほど優しげな笑みが浮かぶ。
その彼にエリクが返事を返した。
「ふぅ……了解。なぁクラウス、それにしても遅くないか? 斥候に出てから30分。ルチアにしては珍しく手こずっているみたいだけど」
「まぁな。この雨と闇だ、やむを得まい。もう30分待って戻らなければ、お前が様子を見にいけ」
「了解。――それじゃあ、それまで少し眠らせてもらうよ。ルチアが戻ったら知らせてくれ」
そう告げると、エリクはその場に腰を下ろして目を瞑る。それを横目に見ながら、今度は身軽な服装の上から雨具を被った20代半ばの女が声を上げた。
「だけど……大丈夫かしら。あの子に限ってこれほど時間がかかったことなんてなかったのに」
「ポリーナ、お前も心配しすぎだ。これまでだってルチアは一度も失敗したことがないだろう? あいつを信じて待つんだな」
「わかったわ……本当になに事もなければいいけれど」
それからおよそ30分後。時間通りに目を覚ましたエリクが無言のまま立ち上がる。二人に向けて視線だけで合図を送って歩み出そうとしたそのとき、突如前方から音が聞こえてきた。
雨中の森に響く控えめなさざめき。緊張とともに皆が武器へ手を伸ばせば、ひょいとばかりに誰かが姿を現した。
「おっと、武器を抜かないでちょうだい。あたしよ、あたし……ルチア。いま戻ったわ」
ひそひそと小さな声を上げながら、目立つように手を振る小さな影。それが木々の向こうから見えてくると、皆の顔に安堵が広がる。
どうやらルチアは無事らしい。予定よりも大幅に遅れていたが、見たところ問題なく任務を果たしてきたようだ。
変わらず雨が降り続く森の中。目深にフードを被ったルチアが近付いてくると、誰もがその姿に違和感を覚えてしまう。
彼女は一人だったはずだ。にもかかわらず頻りに背後を気にしている。時折手を差し伸べる様は、まるで誰かを引き連れているようにしか見えない。案の定、その背後からもう一つの小さな影が姿を現した。
皆が胡乱な顔をする。
ギルドの依頼によって、これから彼らはゴブリンの駆除へ行くことになっていた。そこでルチアは斥候の仕事を担っていたのだが、気付けば誰かを連れて戻ってきたのだ。
果たしてこれは如何なるものか。問うような仲間たちの視線。気付いたルチアは問われる前に自ら口を開いた。
「遅くなってごめん。予定通り、無事に偵察は終わったのだけれど……戻る途中で人を拾っちゃって」
「拾った?」
「うん、拾った。なんでも迷子らしいんだ。森の中で途方に暮れていたから連れてきた」
「迷子って……こんな森の奥深くでか? しかも夜中に? ……信用できるのか?」
「たぶん……ほら、あんたからも説明しなさいよ。そんでもって自己紹介。ちゃんと挨拶しないと誰も受け入れてくれないわよ」
ルチアが背後を振り返る。すると木陰に隠れていた者がその身を晒した。
それは少女だった。身長は150センチあるかどうか。子供のように背が低く、雨具の上からでもわかるほど身体は細い。
生憎にも詳細は闇と雨に紛れていたが、それでもそれが未だ年端もいかない少女であることだけはわかる。
射貫くような周囲の視線。けれど少女は全く怖気づくことなく淡々と答えた。
「私はリリィ。冒険者ギルドのギルド員。任務中に迷子になっていたところをルチアに助けられた」
「ギルド員……? 本当か? なんでこんなところにいた? 今夜この森で活動しているのは俺たちだけのはずだが?」
抑揚のない口調ではあるものの、まるで鈴の音のように可愛らしい少女の声。胡乱な顔のまま矢継ぎ早にクラウスが質問すると、その横からエリクも口を挟んでくる。
「そうだよ。だっておかしいじゃないか、こんな森の中に一人だなんて。――お前の仲間は? 任務中と言っていたが、一体なんの依頼だ?」
「仲間はいない。簡単な薬草採集だけだから単独で動いていた」
「はぁ? 薬草採集? なんでこんな奥まで? ――ちょっと待て、お前のランクは?」
「E」
「Eって……それじゃあ、まったくの駆け出しじゃないか。ここが『帰らずの森』ってことは、お前も知っているよな?」
「知ってる。最初は入り口付近だけで帰ろうと思っていたのだけれど、夢中になっているうちに森の奥まで踏み込んでしまって……気付いたら帰れなくなっていた」
「マジかよ……お前よく死なずに済んだな。本当に運が良かったとしか言いようがないぞ。この森で迷ったら、まず生きては戻れない。だからこそ『帰らずの森』って呼ばれてるんだし……」
リーダーのクラウスを差し置いてエリクが一人で話し続ける。
それはよく見る光景だった。クラウスは統率力、決断力に優れているが、決して饒舌とは言い難い。だから代わりにエリクが話をすることが多かった。もっとも重要な場面ではしっかりクラウスが手綱を握っていたのだが。
そのエリクがさらに話を続ける。
「それでどうするつもりだったんだ? 運よく拾われたからよかったが、こんな雨の中を朝まで彷徨うつもりだったのか? それこそ命が幾つあっても足りないぞ」
「問題ない。私にはギギがいる。ギギがいれば大抵のことはなんとかなるから」
咎めるようなエリクの言葉。対するリリィの口調と顔からは、およそ感情らしきものを読み取ることができなかった。
闇に紛れて表情が読み取れないためか、淡々とした話し方のせいなのかはわからない。しかし、いずれにしても彼女がさらっと重要なことを口にしたのは間違いなかった。
それにポリーナが疑問を呈した。
「……ギギ? 誰それ? いまあなた、仲間はいないって言ったわよね?」
「ギギは仲間じゃない、家族。だから嘘は吐いていない。暗くてわかりにくいけれど、あそこにいる」
リリィが背後を指し示す。けれど何も見えず、気配も感じられずにポリーナが訊き返した。
「えっ?」
「紹介する。――ギギ、こっちへ来て姿を見せて」
どう見ても誰かがいるとは思えない漆黒の闇。降り続く雨のせいでさらに視界が悪くなっている森の中へ突如リリィが手招きをする。
すると一拍置いてそれは聞こえてきた。
「ギギギ……」
人の声とも獣の唸り声ともつかない不可思議な響き。例えるなら、建付けの悪いドアを無理にこじ開けたときの音だろうか。
そんな生理的嫌悪感を呼び覚ます音とともに、ゆっくりそれは姿を現したのだった。