水銀
夜が明ける前の、刻々と色が薄れゆく空に水星が煌いている。太陽に最も近いその星が見れるのは、日の出前と日没後のわずかな時間。
夜空を見上げたのはいつ以来だろう、とか考えていれば、屋根無しで寝た経験なんて小さいころのキャンプ以来だ、なんて考えも混ざり合わさって笑みがこぼれた。が、その笑みの意味を掴み損ねてしまい、あーあ、と、最後は溜息に上書きされる。
結局の所、俺はいったいなにをしているんだろう?
いや、説明するのは簡単だ。恋人と喧嘩して部屋を出た。それ以上でも以下でもない。原因も――あるにはあるんだが、なんと云っていいかわからない。今日の喧嘩の原因そのものは、確かに前回の喧嘩とは別なんだが、いつものことと云えばいつものことだし、なんというか……疲れる。
恋愛って、こんな大変なものなんだな、と、改めて思った。
昔は、よくもまあ書くネタがそんなにあるものだと思うほどに、トラブルにイベント続きの少女漫画をバカにしつつ読んでたモノだが、いざ自分で恋愛すれば、それ以上に、なんか、こう、自分と相手は別の人間であるという当たり前の部分での衝突の多さに驚いた。
正直、歩き疲れた。
独りなら楽な道で、二人なら負担が半減するような単純な算数をしていたんだが、当てが外れたっていうか、なんか、そんなの。
「服は、脱いだら裏返しのままにしないでっていってるじゃん、いつも!」
朝日の入るベランダから聞こえてきた声に、キッチンから顔を出して適当に「ごめんごめん」と、答えた。
前までは、脱いだ服の表裏なんて気にしてなかった。干すのも、乾けばいいしきる時に直せばいいや、とか、そんな感覚が抜けてない。
生返事を返しながら、ハムと卵を焼き続けていると――「ちゃんと聞いてるの? 私は、前にもいったよね?」と、引き戸が開けられて、半目で睨まれた。
釣り目がちで、勝気な彼女――まあ、そういうはっきりしたのが俺のタイプではあるんだが――だが、だからこそ、細かな衝突の際はどうしても手間が掛かる。今も、日を使っていたので聞いてる聞いてると流してたら……前回や前々回の失敗まで持ち出され、くどくど文句を言われる羽目になった。
暗い雰囲気の朝食の終わりに料理の片付けについてこっちも言い返したら、一日通しての喧嘩になり――せっかくの休日が台無しになった。
んで、いったん冷静になろうと黙ったところを、『男はすぐに黙って逃げる!』と、非難されて――気付いたら公園とか、自分のテンプレートな行動にも呆れてしまう。
……惑星の配列が変わらないように、太陽の周囲を回るそれぞれの星が重ならないように、結局は別の存在とは分かり合えないってことなんかね。
冬の終わりかけの朝は冷えるが上着のおかげで、寝ても凍死することは免れていた。藤棚の下のベンチという、立派な天蓋付きのベッドで見る夢は……どんなのだったか忘れた。
寝起きは悪くない。
あーあ、と、もう一度溜息を空に吐き捨てれば、微妙な距離の滑り台からの視線にも気付いて、三度目の溜息を吐く。
勝気なあいつだからこその、殊勝な顔は男心のやわい部分に突き刺さる。その普段とのギャップを、見るに見かねて「しゃあねえから、部屋に帰るぞ。喧嘩の続きをしっかりしてやる」と云えば、即座に「約束を守らないアンタが悪いんだからね」なんて反省のかけらもない言葉が返ってきて、コイツは……と、怒り半分呆れ半分で身を起こした。
俺を起こすために伸ばされた結衣の手は、冷え切っていた。
詰まった会話を繋げようと、目の前の空に浮かぶ光を指差して訊ねてみた。
「お前、あの星、なんだか分かる?」
「……金星」
惜しい。明けの明星が有名だから、そう思うのも仕方ない。そもそも、俺とこいつは理系と文系で専門もまったく別だ。ぐしゃぐしゃと頭を撫でたら、まだ、怒ってるんだから、さわんな、とか云われる。
この意地っ張りめ。
神々の伝令使の名を冠するこの星は、宵の水星と明けの水星を古代ギリシアにおいて別々の神を宛がわれた過去のせいか、錬金術における対を成すものが合わさった形を表し、それゆえ古代の胡散臭い連中が求めた金属でありかつ液体でもある水銀の名前の由来ともなっている。
違う存在が、同じように歩むのは難しい。でも――。
「別れてやらないんだから、そのために私は怒ってて、喧嘩してるの」
膨れっ面でそんなことを云う恋人がなんかつぼにはまってしまい、はいはい、と、繰り返しながらも、俺は自然とこみ上げる笑いを押さえ切れはしなかった。