19 デリートついでに家に来ました。
8月11日土曜日
今日は雨が降った。
窓の外はどんよりと暗く、雨音が室内に響いている。
朝食の片づけをしながら、窓際に佇む玲乃を見遣った。彼女はいつもの定位置で、今日は外を見ていた。
しかし、そのそばの窓が開いている。あのままじゃ降り込むのではないだろうか。
「窓、閉めるぞ」
俺は歩み寄り、窓のさんに手をかける。
「やめて」
窓に触れた俺の腕に、小さな感触があった。そこを見れば、玲乃の白い手が俺の腕に触れている。
「……ごめん、わかった」
そうして、ゆっくりと腕を下ろす俺。それに従って、彼女も俺の腕から手を離した。
あえて、彼女の心中を察するのはやめておいた。
その時だった。
ピンポーン、と間延びしたインターフォンの音が建物中に響いた。
この家、インターフォンなんてあったのか……と今更なことを思いながら、俺は玄関に駆け寄る。
ちなみに、怜美さんは玄関先でインターフォンなんて使わず、叫ぶ。うん、叫ぶ。
「はーい、どちらさまですかー」
そう声を上げながら、俺は玄関へ向かった。
玄関でサンダルを突っかけて、扉に手をかける。そして、少し勢いよく開いた。
「あっ、えっと、おはようございます」
「――!」
思わず息を呑んでいた。
そこに立っていたのは、だれでもない、佐々木鈴菜だったのだ。
脳裏に浮かぶのは、昨日あの公園で玲乃をぶった姿。
しかし、そこに立つ彼女には昨日のような狂気や、悲しみ。溢れんばかりの感情はなかった。
もちろん、完全な喪失を全身に包んでいるといううわけでもなく、言うならば……彼女は普通だった。
「あの……すみません、どなたですか?」
そう遠慮がちに問う彼女は、ごく普通の女子高生だった。
まだ混乱が収まらないままに、俺は答える。
今日、初めて会った鈴菜という女の子へ。
「えっと、浅田唯と言います。今週いっぱい、この洋館を管理してるんだけど……何か用かな?」
我ながら、上手かったと思う。
本当にここで初めて会ったかのような、そんな白々しさを含んだ自己紹介。
「そうなんですね! わたし、玲乃ちゃんの友達の佐々木鈴菜と申します。いつもここに遊びに来ているんですけど……玲乃ちゃんはいますか?」
「うん、いるよ。どうぞ、上がって」
そう言って俺は扉を大きく開け彼女を招き入れる。
それに彼女は「すみません」と小さく会釈してから、何かおかしいとでもいうようにこちらをまじまじと見つめてきた。
「……なに?」
「あっ、すみません。えっと……数日前にすれ違いませんでしたか? ここの下の坂で」
あぁ、そうか、と俺はここで一つのことに気づいた。
俺は数日前、一回目の買い出しのときに鈴菜と公園で会った。違う。会うはずだったのだ。
しかし、それも『なかったことになったこの世界』では、ただ単に俺と鈴菜は道ですれ違った、という事実に置き換えられているのだろう。
「そんなこともあったような……」
変に肯定しても、否定してもおかしい。ということで、俺はとぼけてみた。
本当に? と疑いの目を向けてくる鈴菜だが、俺はそれに気づかないふりをする。
「とにかく、来てくれてありがとう。お茶とか出すから適当に座ってて」
俺は鈴菜をダイニングに招き入れる。
すると、玲乃がこちらに気づき振り向いた。
「あっ、玲乃ちゃん!遊びに来たよ」
「いらっしゃい、鈴菜」
玲乃は、笑っていた。
昨日、酷い言い争い……いや、あれはただの言葉の押し付け合いだ。それを展開した二人。なのに、彼女たちは今、朗らかに笑い合いながら話している。
「……本当に、無かったことになったんだな」
ぼそっと、気付いた時には呟いていた。
そう、あれは無かったことになったのだ。ずっと前に玲乃が吐いた、あの嘘は。
俺は昨日、『何か』に頼んでその出来事自体を消した。
しかし、それは普通の方法ではない。
普段、交換の機会とは『犠牲を支払って』『対価を得る』ものである。
だが、俺の願いはその出来事を『消す』こと。だから、俺はその出来事というのを『犠牲』にして交換を行ったのだ。
そして、交換の機会において『犠牲』と『対価』は等しくなくてはならない。
つまり、俺は、『玲乃のあの嘘を消す』という犠牲を払って、ある『対価』を得たのだ。
その対価とは。かんたんなことだ。何かを消した後に、バランスをとるにはその消した何かと同じものをそこにいれてやればいい。
そう、俺が得た対価は、『玲乃は浅田唯という人間によって傷つけられた、という事実』だ。
どういう因果関係で俺がその場所に割り込んだことになっているのかは不明だが、とにかく、玲乃や鈴菜が言っていたその時の傷は、俺が負わせたことになったらしい。
したがって、玲乃が妙な嘘をついたという事実は消え、鈴菜との関係はいまもこうして続いている、というわけだ。
なんというか、いろいろこんがらがってわかりにくいが、詰まる所、玲乃はそのとき嘘を吐かなかった、ということになったのだ。
「はい、粗茶ですが」
「えっと……お構いなく、って言えばいいんでしょうか?」
鈴菜と玲乃にお茶を出して、ちょっと初々しさの残る会話なんかをしてみる。
うわっ、なんか恥ずかしいな。
「よきにはからえ」
「お前はもうちょっと感謝してくれよ」
「感謝してるわよ?」
「じゃあ言い方何とかしろ」
よきにはからえって……どこの貴族だよ。
まぁ、そんな感じで鈴菜がきてからも洋館は平和だった。
雨の音が続いている。
不規則に響くその雨音は聞いているだけで和んだ。
ちなみに、俺はすでに昼食の準備を始めている。
「ねぇねぇ、玲乃ちゃん。あのイケメンさんはどこから引っ張ってきたの?」
――はぁ!? おい、今なんか聞いちゃいけない単語が飛んできたんだが。
「えぇと……偶然見つけたのよ、偶然」
「へぇ~、で? あの人は玲乃ちゃんとどういう関係?」
「どうって、ただの管理人だけど」
「管理人っ!? それはどういう……」
なんか、鈴菜が顔を真っ赤にして放心してる。それに対して玲乃は、ん? なにもわかってないようだ。……鈴菜、わかるぞ。普通異性で管理人とかそんな単語出てきたら……なぁ?
「へ、へぇ……玲乃ちゃん、すごいね」
「別にすごいってことはないでしょう」
なーんか、こうやって聞き耳立ててる俺が悪い奴、見たいに思えてくる。
俺、悪くないよな。偶然耳に入ってきてるだけだし。
「鈴菜……ちゃん、昼飯食べていくだろ?」
「え、あ……すみません、いただきます」
「うい」
うん、素直でよろしい。なんかこういう時は「いいんですか?」とか返されるより素直にうなずいてくれたほうが俺的には良い。楽だしな。
と、まぁこんな感じで森の洋館には優しい時間が流れていた。
本当に、昨日のことがウソのように。