15 寝坊ついでに、日常を感じました。
8月10日金曜日
まるで、底なしの沼に浮かんでいるような、そんな不快な重さを体に感じた。
これまた重い瞼を開け、ごしごしと目をこすったところでやっと意識が覚醒し始める。
片腕で腹のブランケットを払いのけ、何とか上体を起こす。時計に目を遣ればすでに時間は11時を過ぎている。
「……はぁ? 11、時……?」
一瞬、思考が停止した。
いやいやいや、そんな馬鹿な。これじゃあ俺が寝坊でもしたみたいじゃないか。
「ははは、そんなわけないよな」
と、俺にしては珍しくさわやかな笑みでカーテンを開ける。
……気持ち悪いほど、真っ青な空が広がっていた。もちろん、太陽はかなり高いところまで上っている。
やっぱり寝坊じゃねぇか!
内心にそうつぶやいた俺はわき目もふらずに自分の部屋を出た。そして跳ねるように階段を下りて玲乃の部屋の前へ。
スーハ―、スーハ―、と息(と怒られる準備)を整えてから、扉をそーっと開く。
その隙間から中を覗けば、彼女――『自暴女』――玲乃はいつもと同じ場所で寝息を立てていた。
俺はそこで思わず胸をなでおろす。
こいつが起きていたら何を言われていたか分かったものではなかった。
「おーい、玲乃。もう朝だぞ」
一応そう声をかけてみるが、反応はない。
しかし……こいつ、きれいな顔してるな。
普段、まじまじと見ることはないので認識することはなかったが、瞼を閉じ、ベッドに横たわるその姿は童話の白雪姫と言われても信じてしまいそうな可憐さがある。
知らず知らずのうちに指が伸びていた。
ほとんど無意識のまま、動く指の先には、彼女の白い頬が。
ふにっ。
そこを突くと、まるでそんな効果音が出てきそうなほど柔らかくてすべすべだった。
うおっ、すごいなこれ。女子はみんなこんな感じなのだろうか。
そのまま夢中になってフニフニし続ける。あー、中毒性あるな、これ。
「何してるのよ」
「あ……」
気付いた時にはもう遅かった。
先ほどまで閉じられていた白雪姫……もとい、玲乃の瞼がばっちり開いていたのだ。
いや、違うな。まるでゴミを見ているかのようにジト目なので、正確には完全に瞼が開ききった状態ではない。
「これは……」
「なに? 言い訳があるの? この状況で?」
「いいえありません本当に申し訳ありませんでした」
思わず素で謝っていた。下手すれば土下座とかしちゃってたかもしれない。
はぁ……と心底呆れるように溜息を吐いてから彼女は上体を起こした。
「で? 何がおはよう、よ。今何時だと思っているの?」
「玲乃も眠っていたしノーカンってことで……」
「そんなこと許されると思うの?」
残念ながら、今回は彼女の方が正論だ。「自暴女」の異名を持つ彼女ですら、こんな普通の思考回路を持っているのだな、と感心する。
「……なんだか物凄く失礼なことを考えていない?」
「いいえ? そんなことはまったく」
ニカッとSEが付きそうな表情で笑う俺。
まぁ、内心でああは言ったが、実際この玲乃は常識人なんだよな。最初の印象がちょっとアレだっただけで。
「まぁいいわ、早く起こして。朝食にしましょう」
「その前に顔くらい洗えよ」
「洗うに決まっているでしょう? ……というか、唯が連れて行ってくれないと洗えないのだけれど」
そう言う彼女の目は、少し伏し目がちだった。
多分、その目線の先にあるのは彼女自身の脚。自由を奪われた、その脚だ。
昨日の朝は、自分で歩けるほど調子が良かった。だけれど、今日は歩くどころか立つことも難しいのだろう。昨日はできていたことが、今日はまるで当たりまえのようにできなくなる――その悲しみは、俺には計りきれない。
「……んじゃ、行くか」
ほんの少しの痛みを胸に感じながら、一日は始まった。
この管理人生活も、もう既に5日目である。
***
朝昼兼用、という素晴らしい言葉がこの世の中にはある。
昼近くまで惰眠を貪り、さらに朝と昼の食事を一緒に摂る。俺はこれ以上に自堕落な生活スタイルはないのではないかと思う。
しかし……まぁ、独り暮らしを始めてわかったことなのだが、食事の支度を一食分しなくていいだけで本当に楽なのだ。なので、夏休みに入ってからはこの朝昼兼用を家では多用していたのである。
閑話休題。
なんやかんや言ったが、つまり俺たちは朝とも昼ともつかない時間に起きてしまったので、朝昼兼用の食事を摂ったのだ。
で、その後は俺は掃除、洗濯。今日は得に風呂場の掃除を頑張った。
玲乃は本を読んだり、窓から外を眺めたり……あと、ついさっき俺と一緒に家庭菜園に生きる植物たちへ水を遣った。ついでに、彼女お気に入りの花にも。
「んっと、終了。仕事は……これで全部か」
一番最後の食器を拭きあげてからちょっとわざとらしくそう声に出す。
その俺の声に何か違和感を感じたのか、玲乃が読んでいた本から視線を上げる。
「お疲れ様」
「おう。……あ、そうだった。そろそろ買い出しに行かないとな」
これまたわざとらしすぎたな、と自分でも思う。しかし、そのくらいしないと彼女は反応してくれないだろう。
「そ。いってらっしゃい」
「あー、えっと……よかったら、玲乃も来ないか? 買い物」
俺は頭をぼりぼりと掻きながら少し具合が悪いように言う。
まさか、俺がかつてのいじめっ子と引きあわせようとしている、なんて気づいているわけではないだろうが、やはりなにかおかしい、とでも言うように彼女の目は怪訝に細められていた。
「……何を企んでいるの?」
「た、企みなんてあるはずないだろ。とにかく行こう。日が暮れる前に買い物は終わらせておきたいし」
少々ひきつってしまった笑みとともに俺は彼女を誘う。その奇妙な笑みが功を奏した――とは到底思えないが、彼女は大きくため息を吐くと「わかったわ」と言った。
第一段階、玲乃を家から連れ出すに成功。あとは、約束の時間まで町で暇をつぶし、彼女と、引き合わせるだけだ。
玲乃を車いすのまま外に運び出すと、俺たちはゆっくりと坂を下り始めた。
「体は大丈夫なのか?」
「自分が無理やり連れだしておいてよくそんなこと言えるわね……。全く、呆れる」
「あー、すまん」
「……まぁ、いいわ。あなたの無神経さは今日に始まったことじゃないし」
彼女のその言葉はどこか、他意がこもっているように感じた。
しかし、彼女は俺に尋ねる隙など与えず、「体の調子はいいわ」とこちらを振り向かないまま言った。
自分ひとり、自転車で下ったときにはそこまで距離を感じなかったこの坂道だが、車いすを押しつつのろのろ進んでいくにはなかなか長い。
昨日は、玲乃も自分で歩いていたので、この道を車いすとともに歩くのは初めてだ。
緑に包まれた小路に涼し気な風が吹き抜ける。
「なぁ、玲乃。訊いていいか?」
「何?」
車いすの彼女がこちらを振り向く。
そこで気が付いた。俺が目的もなしにそう彼女へ言っていたことを。
「……ごめん、なんでもない」
「なによ、それ」
眉を不機嫌そうに顰めると彼女は再び進行方向へ向き直った。
そのまま、車いすが勝手に進んでいかないよう少しだけ力を入れつつ坂を下っていく。
俺が何を尋ねようとしていたのかはわからない。
だけど、俺が知らないなにかが、この後わかるような気がした。