春にはクッキーを。
うるさい教室を、私は逃げるように廊下を走って体育館の裏へと向かった。あの何とも言えない喋り声の塊は建築現場の働いているような不快さで、私にとっては苦痛でしかなかった。耐えられなくなって耳を押さえたあの日でも、誰も見向きもせずに好きな人と喋り続けていたのを覚えている。
ようやく辿り着いた体育館の裏側は、山が隣接してるおかげか鳥のさえずりが心地よく木々のさざ波が眠気を誘う。そんな独りの私を、私は、心の声の自分と会話を毎日楽しんだ。趣味が同じなのにモノに対する接し方が違ったり、同じものを観てるのに捉え方が違ったりと、まるで他人と話しているがごとく、私の心との会話は途切れなかった…。
いつもと変わらないとした日、私は見えていなかったハンカチにつまずいて転んでしまった。幸いケガは無かったものの、ハンカチだけは私の靴で汚れてしまった。とりあえず誰のものだろうと拾い上げようとしたとき、背後から変な罵声がとどろいた。
「クセモノっ!!」
男子の生々しい低い声が私の胸に刺し、拾おうとしたハンカチを滑り落とした。一瞬、私のことだと思い涙が込み上げたが、まずハンカチだと思いしゃがもうとした。とした時、鼻をすすりながらこちらに向かってくる人陰が落ちたハンカチをするりと拾いあげて、すぐ右の階段を上がって消えていった。あの可愛らしいハンカチを想うと、理由が何であろうと罵声を浴びさせた男子に、私は苛立ちを隠せないでいた。
辿り着いた体育館の裏側でも、頭から離れられずにいた。ハンカチの子を捜して慰めてあげたいが、一体どんな子か、どんな顔をしているかも判らない自分に何か出来るということは無理だった…。
朝から大雨でも、私は傘を持って体育館の裏側に行くことは欠かさなかった。水溜まりに落ちた雨粒は、泥水に混ざって仲良くしているように思えた。そうでなければ自ら降ってきた空に対して、写し出せる訳がないと考えてた。だけど、雨音に混じって聴こえてきた泣き声は、何とも溶け込めてなかった。
山も紅く染まるように、私達もまた赤く染め上がっていた。私がいつも階段を降りようと曲がる度に、その声は聴こえた。我慢がならなくてようやく振り返っても私が観るのは、皆で騒いでいるグループの更なる塊。一体誰がその子にしているのか、当事者が誰のか判らずにいた。こんな私に出来る事があるなら…と想いつつも、私はあのうるささにまず耳を抑え、ひとりになって考えなければ行動が出来なかった…。
とうとう月日は達の葉が散り始めたとき、何かぶたれた音が聴こえた。それと同時に、聴いてはならぬものを聴いてしまった。
「この病原菌っ!!」
その時、私はハッと気がついた。震災の影響で被災した子が、今年の春から転校してきていたのだ。その子は、津波で家を無くし原発事故を目の当たりした直の子だった。だからこそ先生は仲良くするように呼び掛け、その想いを忘れないように授業の中にも組み込まれていた。あれだけニュースで他人事に思えずにテレビにかじり付いていたというのに、垂れ流しにしてたのと何も代わらなかった。私は後悔をした。そして囲まれた人達を掻き分け、その子を捜して、一緒に立ち上がろうとした。
……遅かった。
私は今まで何をしていたのだろう…。私は自然を愛してると云いながら、自然のひとつでもある人間社会から逃げていた。誰だって何かしら関わる人間社会を、私は自己欲のままに体育館の裏側に逃げて、独りのうのうと生きてきた。それなのにあの子は、真っ向から自分の運命と立ち向かい前だけを向いて歩いてきた。もしかしたら私に助けを求めていたのかもしれない。じゃなければ、私が階段を降りようとしたときに限って聴こえるはずがないのだ。どんな理由があろうと私は、私に出来ることは他にも沢山あったのだ。その気になれば、この団体の上をいくグループだって作れたはずなんだ。そう、私は逃げていた…。
そう、本来あるべき自然の姿を、私は見棄てていた……
「マスクしたって、一緒だろ!菌、お前はもう犯されてるに間違えないし、学校来るなや!迷惑だっちゅうの!」
私から見えないグループの背後から、そんなヤジが響いた。ここぞとばかりに、周りも眼を輝かせて息をするかのように毒を付いてくる。私は、震える彼女を抱きかかえ込みながら『大丈夫、大丈夫っ!』と支え続けた。とにかく圧巻されて脚がすくんでる私に今出来ることは、彼女をガードするしか他になかった……。
「お前らっ、何をやってる!!」
そこに、ようやく事態が職員室まで届いたのか私たちは保護された。彼女は酷く貧弱し、保健室で眠っていた。私もその横で横たわっていたが、泪で何も見えなかった。唯一感じられたのは、窓から見える校木【メイゲツカエデ】が、彼女の頬をはたいた自分の手のように思え、散る姿に想いが隠せなかった。
爆弾低気圧が列島を襲ったため、この日は暗く、もう吹雪だった。
彼女とはあれから会っていなかったが、私の不登校も聞き付け話がしたいと、先生から連絡先を教えて貰って電話をくれた。彼女いわく、被爆をしていたらしくあの時も必死に隠して登校していたと聴いた。
あれから学校行かずに治療に専念していたらしいが、声に張りを感じられずにいた。私は良からぬ心配をしながらも、ようやく覚えた母から伝授のクッキーを持参して、待ち合わせの公園へと向かった。この時とばかりに神様は天気を晴れにしてくれて、私は何度も謝罪をしながら彼女と話をしていった。
彼女はクッキーを頬張りながら、眼を潤しながらガッツポーズした。そして彼女は『来年の春こそ、華は咲く!』と云いながら、辺り一面の雪景色に足跡を付けていった。でも永くは続かなかった。
私が立ち上がった時には彼女は、言うべきでもないだろう……
それから私は、春を迎えたらクッキーをもう一度焼こうと思い、製菓専門店で花形のクッキー型をあちこちであつめ、出来るだけ飽きないようにするために色んな種類のレシピを印刷して味見していった。
待っていてね…
とびきりの春を迎えさせてあげるからね…
そうしてまた、私はクッキー作りに励みだした。
とどけ、彼女に。