第2章 ゼータ、女は家
第2章 ゼータ、女は家
次の日、一志は午前10時頃という、少し遅めの時間に目を覚ました。今日は土曜日で、大学は休みである。明日の日曜日は、友達と会う約束をしているが、今日は1日家でゆっくり過ごそうと、一志は思っていた。しかし、そんな、楽しい休日の予定は頭からふっとび、一志は昨日見た、フラッシュバックのような映像が頭から離れない。昨日見たものは、本当のことなのか、それとも気のせいなのか…。
それすらも分からないまま、一志はとりあえず気分転換をしようと、近くのコンビニへ向かうことにした。
一志はアパートのドアを開けた。一志の下宿先は、それなりに見晴らしのいい所だ。ドアの外の景色は、何事もなかったかのように、静まり返り、昨日見たものがまるで嘘であるかのようである。でも、もし昨日のことが本当であったとしたら…。それでも、世界は進み続けている。一志は、昔高校の漢文の授業で習った、「国破れて山河あり」という杜甫の言葉を思い出しながら、それは少し大袈裟な例えだなと、1人で笑ってみせた。
一志はアパートの階段を下り、原付に乗って、近くのコンビニへ向かった。原付を運転している時の風は、心地よく、嫌なことも全て忘れさせてくれる。一志は将来、2輪の免許も取りたいなと思いながら、コンビニに着いた。
一志はコンビニで、朝食用にお決まりのパン、おにぎり、唐揚げを買った。特に、一志は某コンビニの唐揚げセットがお気に入りだ。
一志はそれらを買った後、急いでアパートに戻った。
アパートに戻ると、一志はとりあえず、テレビをつけ、買ったものを食べ始めた。今の時期は、やはり北京オリンピックの話題でもちきりだ。一志はそれらを見、食べ終わった後、二度寝をしようと布団にもぐりこんだ。次の瞬間、またも、フラッシュバックのような、得体の知れない映像が、一志の脳裏を駆け巡った。
「ちょっと待って、一志!」
2007年8月13日、夜。一志は兵庫県の実家にいた。ちょうどお風呂に入ろうと、風呂場へ行こうとした時、その風呂場の前で、一志は、祖母である一子に呼び止められた。一子は、典型的な田舎のおばあちゃん、という感じの人で、一志が帰省する度に、よく話をしている。
「今日は一志に、大事な話をせなあかん。その前に、一志に質問がある。一志は今まで、何を考えて生きてきた?」
「何をって…。特に将来とか考えとるわけではないけど、一応、勉強とか部活はがんばってきたかな、とは思うで。」
「まあそんなとこやろな。普通の学生やったら、そう答えると思うわ。それが、一般的なこの世界の見方や。それでな一志、唐突やけど、実はこの世界は、一志が思ってるような世界とは違うんや。今から話すことは、この世界のホンマの姿やから、よう聞かなあかんで。一志、いきなりやけど、『女は家』って聞いて、どういう印象持つ?」
一子は、地元の人らしい、播州弁を使って話しかけてくる。この世界の本当の姿なんてわけ分からんし、そんなん突然言われても分からへんわ…。と、一志は困惑しながらも、大好きな祖母の質問であるため、必死に答えを探してこう答えた。
「『女は家』か…。なんか昔の話の気がするけど…。」
「やっぱりそう思うか。でも、『女は家』っていうのは、この世界をよう表しとる言葉なんや。昔の話と違う。今の話や。まあ言うたら、大前提やな。その話は後にして、まず、X軸とY軸、Z軸について説明するわ。この概念を理解しとかな、この世界の本当の姿にたどり着かんからな。この3つの軸は数学で習ったやろ?それが、この世界を表しとるんや。紙に書いたるから、よう見いよ。」
一子は持っていた紙に、いわゆるX軸とY軸、そしてZ軸を書き始めた。これらは確か高校の数学で習ったな…と、一志は昔を思い出しながら、一子の紙を見つめ、真剣に一子の話を聞こうとした。
「まずX軸やけど、これは分かりやすいな。この軸は、いわゆる『勝ち組』と『負け組』について表しとるんや。勝ち組の人は、X軸のプラス側になる。数字が大きくなればなるほど、勝ち組の度合いが強くなるんや。例えば、普通のサラリーマンやったらプラス1、町医者やその辺の弁護士やったらプラス5、大企業の経営者とか、国会議員になるとプラス10ぐらいやな。ここまでは分かるか?」
「うん。分かるで。」
一志は一子の説明に真剣に聞き入っていた。一子の説明は続いた。
「逆に、負け組って言ったら何やけど、いわゆるヤンキーとかはマイナスや。これも数字が大きくなればなるほど、度合いが強くなっていく。例えばその辺のヤンキーとかはマイナス1、暴走族はマイナス5、暴力団になるとマイナス10ぐらいやな。ただ、これはあくまで、世間一般から見たイメージで、プラスとマイナスを決めとるんであって、必ずしも、マイナスが悪いとは限らんってことは言うとくわ。現に、ヤンキーに憧れる人はいっぱいおるしな。」
一子は説明を続けた。
「次にY軸や。これは、X軸で言うたグループの、メンバーの実力を表すんや。弁護士でも上の方の実力の人はプラス、下の方の実力の人はマイナスになる。ヤンキーでもおんなじや。どうや?X軸とY軸は分かるやろ?」
一志は頷いた。そして、この世界を、数学を使って簡潔に表した一子の説明に、十分納得した様子であった。
「次に、X軸でもY軸でもない、Z軸や。この世界には、もう1つの尺度があるんや。これは、一般的には、『ゼータ』って呼ばれとる。これは、ちょっと説明するのが難しいな…。簡単に言うと、女の子とセックスしたいっていうことや。しかも、ただのセックスと違うで。レイプって言ったら分かるか?」
「えっ、レイプ?どういうこと?」
一志は、「レイプ」という3文字の言葉が一子の口から出たことに、戸惑いを隠せない。
「どうや。驚きやろう。生まれつきゼータを持っとる人間は、みんな女の子をレイプしたいと思っとるんや。男だけやないで。女の子もそう思っとるんや。」
「『ゼータを持っとる』ってどういうこと?」
「そうやな、それも説明せなあかんけど、後にするわな。もうちょっと詳しく言うと、ただのレイプとも違う。服着たままやりたい。妊娠させたい。殺したい。これがゼータの本質や。『フリータイム』って言うんやけど、どうやって女の子をレイプするか考えとったら楽しいんや。いや、女の子っていう呼び方はふさわしくない。家畜や。ゼータを持った人間は、女を家畜やと思うとる。家畜をどう料理するか…。例えを挙げたらきりがないけど、聞きたいか?」
一志は、一子の発言にぼう然とした。レイプだけでも嫌悪感があるのに、妊娠させたい、殺したいなんて…。
「そんなん信じられんわ。でもそれが本当やったら…。例えを聞かせてくれる?」
一志は少し時間を置いた後、気を取り直し、一子に質問した。
「聞きたいか?女をフォークで串刺しにしたい!女のお尻に釘を刺したい!」
「何それ!」
一志は、あまりにも恐ろしい例に愕然とし、気づいたら手足が震えていた。
「始めはみんなびっくりするんやけど、これがこの世界の本当の姿や。もう少し説明すると、『魔女狩り』って学校の授業で習ったやろ?あれはさっき言った、ゼータが実際に使われた例なんや。」
一志は、高校の世界史で習った「魔女狩り」を思い出した。そして、震える声でこう言った。
「そんな人が本当におるなんて…。でもそんな人、ごく一部やろ?」
「それがそうでもないんや。この世界の半分ぐらいの人間は、ゼータを持っとる。あと、言ってなかったけど、おばあちゃんもその1人やで。どうや!驚いたやろう!」
一子は、ギョロッとした目を見開き、こう言った。
「おばあちゃんもその1人…。信じられん。そんな人とはしゃべりたくないわ!」
一志は、一子の告白を聞き、それと同時に激しい怒りを覚えた。また、今まで優しかったおばあちゃんはどこへ行ったのかと、少し寂しい気分にもなった。とりあえずその場から離れようとし、動きかけた所で、一子に呼び止められた。
「まあ待ち。まだ話は終わってないで。一志はこの世界について、もっと知る義務がある。」
「じゃあ、とりあえず、話だけ聞くわ。」
「聞いてくれるか。このゼータなんやけど、もちろん罪悪感はある。『シバトラ』って言うんやけどな。でも一志、これだけは言える。女は家や。フェミニストっておるやろ?女性の味方とかいう奴らやな。あんなもんは邪心や。突然やけど、一志は人生を一言で表すとしたら何やと思う?」
「そんなん突然言われても分からへんわ。」
祖母に幻滅した一志は、ぶっきらぼうに答えた。
「それもそうやな。おばあちゃんは人生を一言で表すと、『ブルース』や。いや、おばあちゃんだけやない。この世界の大多数の人が思うてることや。『1回見たら何されてもいい』これがキーワードや。要は、目的を達成するためには手段は選ばん。達成した後は何をされてもいい。『自殺する』これもキーワードや。目的を達成した後は、自殺してもいい。実際、自分だけ長生きしとっても、寂しいやろ。ちょっと暗いな。だから、ブルースや。1回見たら何されてもいい。そういう強いのがええって思わんか?それで、それをフェミニストって言えるか?女は家、女は家なんや。」
一志は、少しの間ポカンとしながら、今聞いた内容を、自分の中で何とか整理しようと試みた。しかし、そう簡単にはいかず、ただただぼう然とするばかりであった。
「今日はいろいろと話したな。またいろいろ教えたるからよう聞きや。」
次の瞬間、一志は目を覚ました。おばあちゃんの、ゼータの告白も含めて、今見た物事が本当のことなのかどうか、一志はまだ疑心暗鬼であった。気付けばテレビがつけっ離しで、北京オリンピックの特集がまだ続いていた。一志はテレビを消し、今度はぐっすり寝ようと思い、布団を被って目を閉じた。すると、またもやフラッシュバックが、一志を襲い始めた。
2007年4月10日、昼。一志は、バイト先のアパレルメーカーで、レジ打ちに勤しんでいた。バイトを始めた当初は、「アパレル業界」で働く、ということへの憧れがあり、また、名古屋駅の地下という立地条件の良さもあって、楽しんでバイトをしていた一志であったが、仕事の内容が段々キツくなり、最近はいつバイトを辞めようかと考えている毎日である。
「ちょっと水谷君、こっちに来てくれる?」
一志が、店長に呼び出された。この支店の女性店長は、30歳とまだ若く、そのせいか一志とも話が合い、それなりに気心の知れた仲になっている。ただ、ミスには厳しく、一志も今まで何度か注意を受けたことがあったので、今回も怒られるのかなと一志は思い、緊張した面持ちで、店長のいる控え室に入った。
「あの…。すみません、僕、何かやらかしたでしょうか?」
「今日は水谷君に、言いたいことがあるの。あなたが小学生の時に、なんて言ったか覚えてる?」
「小学生…。そんな昔のこと、覚えてないです。」
「覚えてないってわけね。あなたは昔、『決められた通りにやらなくていい』って言ったの。もう1度、その言葉をこの場で言ってみなさい。」
一志は、どうして突然、店長が自分の小学生の頃のことを訊くのか、またそのことをなぜ知っているのかと戸惑いながらも、店長に言われた通りの言葉をとりあえず繰り返すことにした。
「えっと…。『決められた通りにやらなくていい』ですか?」
その言葉を言った途端、店長は顔色を変え、きつい口調でこう言った。
「ふざけるな!どういうつもり?私は今まで、苦労をたくさんしてきたの。こういう頭に生まれて…。って言っても分からないか。とにかく、あなたのその言葉は、許せない!」
一志は、状況が全く飲み込めず、きょとんとした。
「あの…。一体何が気に入らないのでしょうか?僕にはさっぱり分かりません。」
「自分の胸に手を当てて、ようく考えてみなさい!」
ここで、フラッシュバックが途切れた。「決められた通りにやらなくていい」という言葉のどこがいけないのか、そしてそもそもなぜ店長が、自分も覚えていないような、小学生時代のことを知っているのか、謎は深まるばかりであった。