誑
※「推理」のタグが付いてますがおよそ推理小説と呼べるものではありません。ご了承ください。
大丈夫かと問われると大丈夫、と答える傾向が少なくとも僕の経験した限りでは人間にはあるように思える。しかしほとんどの場合そう訊かれる時というのは『大丈夫』ではなくて、寧ろ心中では『こんな有様で大丈夫な訳がないだろう』と憤怒しているのだけれど、それでも自分を気遣う相手方に逆に気を遣ってしまうばかりに、決まって裏腹な返事をするのだ、『大丈夫』と――
だから不用意に他人に対して「大丈夫か」などと聞いてしまうのは失言とみて間違いないくらいに、やってはいけないことなのである。
だのにその時僕は、はっきりと口にしてしまった、「大丈夫?」と。大丈夫でないことは既に分かりきっているのに。
「大丈夫って……お前にはこれがそんな風に見えるのか……?」
僕に対して発せられた言葉はそんな風な内容だった、ような気がする。よく覚えていない……でもどんなに記憶が曖昧になったとしてもその時僕が眼前に見た光景は一生僕の網膜に焼き付いて消えないことだろう、いや、消えていないけれど。いやいやいや、消えてなかったら相当まずいのだけれど。
とにかく、僕の隣の席に座っている蜷川法人は、おろおろと狼狽しながら、そう言ったのだ。僕は法人の言った『これ』を見てぎょっとした、驚いた、びっくりした。
法人の右手のひらには縦に傷が伸びていて、血がだくだくと流れ出していた。というか湧き出していた、それほどの勢いで法人は流血していたのだ。そりゃそんな青ざめた顔にもなるわな、と僕は一人で納得してふむふむと頷きもするが、途端に僕の中の常識が内側から訴えかけてくる。
『お前それでもいいのか!? こんな異常事態でもそれを看過して平常心保ってる変哲な奴でいいのか!?』
と。
そうだ、僕がそこまでとち狂った人間だったはずがない。たとえそれが冷静沈着という美点であったとしても正常な感覚だけは忘れてはいけないのだ。
だから僕はその感覚に従って、考え得る最も理想的な行動に移ったのだった。
「うぎゃああああっ!! 何だこれっ!! 何が何して何したらこんなことになるんだ~っ!」
そんな訳の分からない台詞を、授業中に手から流血しているクラスメイトを指さして、精一杯の努力で演じ切ってみせようとしたのだった、僕は。
その台詞を言い放った時にちょうど教室中が騒がしくなり始めて、いよいよある生徒が先生にそれを報告しようとした直前に――
「うっ……先生、チョットボク、気分が悪いので保健室にイッテモイイデスカ……」
と僕は先生に保健室に行くことを物凄くあざとい演技で申請する。子供はそういう変な演者になってみせることが時々あって先生はそれをよく知っていたのだろう、幸いにも二つ返事で許可してくれた。
席をゆらゆらと立ちあがっていかにも不調そうな感じを醸し出す。教室の扉をガラガラと開けて、僕は教室からの脱出を見事に完遂してみせた。あとは一階の保健室へ直行である。
言葉とは裏腹に、気分がいいから保健室へ行くのだ。
――そして今、僕は保健室のベッドでくつろいでいる。
『いやはや全くここは天国のようなところですなァ』
『そうですねェ私もかれこれ二十年近くここで暮らしていますがねェ、ここ以上に心地の良いところは知りませんよ』
『私もここに住んでもよろしいですかな?』
『どうぞどうぞ、空き部屋もとい空きベッドはいくらでも用意できます故』
と、そこで僕は突然我に返って阿呆らしく感じたので茶番を中断する。バサッ、と二体のぬいぐるみは僕の手でベッドの脇に放り出されて。そこからはもう何も喋らなくなっていた――部屋に一つしかない寝台の上で、本来の位置へ戻された形である。
「小四にもなって茶番繰り広げてるようじゃあ、いつまでも大人になれないぞー……」
自分に言い聞かせるように僕は言うけれど、やはり独りだと台詞は勝手に空回りするだけだった。
ううむ。なんだか行動までも空回りしているようだ……否、実際空回りしているのか
何てったって、保健室を僕一人にしたのは、他ならぬ僕――宇奈月薫なんだから。
僕は保健室につくなり「先生……軽く眩暈がしているだけの僕のことはいいので……四年二組の蜷川法人君のところへ、早く行っていってあげて下さい……彼の手のひらからの流血を止められるのは、先生、あなた一人ですっ……! 僕はそこのベッドで安静にしているので……うっ、早く行ってくださいっ! 蜷川君の生死はあなたにかかっているといっても過言ではない……っ!」とか何とか、芝居のかかった台詞を吐いて、ベッド及び保健室を独占したのがついさっきのことだ。これは僕の世迷言を信じてしまった(信じてよかったのだが)先生も馬鹿だが、僕も相当に馬鹿だ。
いや確かに僕はこの保健室を占領したいがために必死の演技を先生に披露したのだけれど、しかし単純に、怪我をしている法人を敬遠するような台詞を吐いてしまった罪悪感に起因してもいる。
今から思えば、よくあんな失礼なことを平気で言えたものだと過去の自分に軽く恐怖してしまった。
……否、平気ではなくて、あれは半端な演技だったのだ。それはつまり役に入りきれていないということであり、僕は『クラスメイトの盛大な流血大サービスを目撃して気分を悪くした小学四年生』を半ば俯瞰しながらその場をやり過ごしていたことになる。本心と演技が渾然と混じりあっていたのだから、自然な反応より性質が悪い……。いっそ全て演技であればよかったのに――
まあそこら辺に僕の浅はかさが表れているのだろう。反省の必要アリだ。
ここで僕は、自分にもまだそんな良心の呵責やら自責の念やらが残留していることに歓喜したりはしない。ただ、そんな気が働きかけたことを自覚するだけだ。
――と、その時。
カーテンに囲まれたベッドの上からでも分かる。いつのまにやら、保健室に誰かがいた。僕以外の誰かが。
はぁはぁと荒い息遣いが。薄い布一枚隔てて聞こえてくる。
誰だ?
「……う、ううぅっ……痛い、痛いよぉっ……」
それは紛れもなくかの蜷川法人が発した肉声だった。悲痛な声を振り絞って保健の先生に治療を乞うているのだろうが……哀れ! 残念ながら先生は現在いらっしゃいません!
「だっ誰か助けてくれよぉぉ……! もン凄く痛いんだよぉ……」
彼を僕は助けるべきなのだろう、そして彼は僕に助けられるはずなのだろう。でも僕はすぐにはそうしない。深層心理の底に溜まっている意地悪い澱が僕の動きを鈍くする。邪気と良心が相克する僕の精神は混沌じみていて、自分で言うのもなんだが気持ち悪かった。
ので、結局は彼を介抱でもしてやろうかという意志が芽生え始めたところで、逡巡する。このままいきなりカーテンを開け放ってもなんだか現実味がないな、と。いや、現実味と言ってももちろん、僕の演じている仮初の行動の方だが。
さっき演じた役では確か、僕は眩暈を起こし具合を悪くしている少年のはず……となればベッドに横たわる僕はすやすやと眠りに就いているのが当然という現実になる。
「手っ……手から血が止まらないんだっ!――って、あれ? なんで本当に保志野先生がいないんだ!?……」
遺憾ながら保志野先生は四年二組の教室へ向かってしまい結果君は見事入れ違いを成功させたのだよ法人君。
しかし成功というのはやや酷か、彼にとっては悲劇でしかないんだろうし。因みに保志野先生というのが先刻僕が四年二組に送り込んだ保健の先生である。ん? じゃあ法人はなんで保健室にまで来てるんだ? 教室には今頃保志野先生が着いているはずじゃあ……。
あぁ……そういうことか。恐らく彼は自分の血が止まらないのを気に掛けて、気になりすぎて、わざわざ自分から先だって保健室に行こうとしたのだ。否……だとするとよもや彼はここまで止血もせずに歩いてやって来たのではあるまいな?
「あ、あぁ、そうか……そ、そこにいるんでしょぅ……先生ェ、勿体ぶってないで、早く、出てきて下さいよぉ……!!」
消え入るような声をなんとか声帯から絞り出し、言っては悪いけれど彼はゾンビの如く僕が眠っているようで眠っていないベッドの方にふらりと近づいてくる。
それでも僕は状況を察してベッドからタイミングよく起きるなんてことはせずに布団を被って眠っている振りをする。
法人は多分カーテンを開けてやってくるだろうが、僕は依然として目を醒ますことはしない。布団にくるまって沈黙を貫き通すのだ。
でも法人は血で濡らした右手を庇いながら、左手であっさりカーテンを開け放つ。
「ん……だ、誰だ?……あ、あぁ、薫かよ……おい、この手見ろよ、ぱっくり傷が開いちゃってるだろぅ? 今すぐ起きて手当てしてくれよぉ……」
と法人は僕だと分かった途端に傷の応急処置を求めてくる。確かにクラスメイトがそんな酷いことになっているのだし、そりゃあ手当てするのも吝かじゃあないけれど……いや待てよ、このまま僕を起こそうと法人がその血に塗れた右手で僕の肩を揺らしに来でもしたら――僕の服が汚れてしまう! いくらクラスメイトとはいえ血で私服を汚されるのはまっぴらごめんだ!
となればここはもう自分から不自然過ぎない程度に自然に覚醒する(ように見せる)のが得策だ、と瞬時に判断した僕はおもむろに上体を起こし眠そうな顔でついでに欠伸もしてみせる。そう、してみせるのだ、あくまでも。
「……ふぁ~ぁあ……あれ、何だお前、いたのか」
僕はそう言って法人の右手に触れないようにベッドから抜け出す。カーテンを押しのけて保健室に出るけれど、僕はそこで重要なことに気付く。
どうやって法人はこの保健室まで来たんだ……?
……僕はこの保健室に来てまず現場にいた保志野先生を誑かし、4―2の教室へ向かわせた――そして僕がこの保健室を独占して満悦とも懊悩ともつかぬ感情を抱いていた直後に、今眼前にいる蜷川法人が唐突にここへ現れた訳だが……。
これは明らかに不自然な現象だ――というのも、僕の登校しているこの学校には、階段が一つしかないのである。正確に言うならば、上下階間を繋留している移動手段は各階の廊下途中にある階段のみ、ということである。
もちろん非常階段はあるのだが、しかしそれも屋上に続く扉とともに施錠されているはずだ。利用することは不可能――となれば、自然とこんな疑問が湧いてくる。
何故蜷川法人がここまで来られているのか、という疑問が。
保志野先生が一階にある保健室から四階にある四年二組に出向くということは必然、階段の途中では彼女と法人が鉢合わせになっているはずで、となれば、四階から何故か一人で階段を下りてきた法人は彼女に治療をその場でしてもらえるはずで――。
怠惰に徹している僕なんかに手当てを乞うような事態には、発展しないのが普通だ。
普遍だ。
でも彼は来た。ここまで相応の血を流しながら来た。
――まるで理解が追いつかない……今は、どういう状況なんだ?
「おいおいっ! この俺の血ィ見てくれよぉっ、す、凄ェ量じゃぁねえかっ……」
「そんなの見りゃ分かるわっ」
僕は突っ慳貪な態度で法人にそう言い放って、保健室を出る。無情にも非情にも薄情にも、僕は歩みを止めない。
廊下に出ると、左側に血の跡がだらだらと続いている。どうやら奥の階段へも続いているようだから、僕は血の跡を追っていく。
階段を上る。上る。上る。
すると――眼前には、数分前授業を受けていた四年二組が。そして道程は、寄り道なしの最短距離だった。血痕は僕にそれを克明に示してくれる。
教室の扉は固く閉ざされていて、いや、固く閉ざされているような気がしただけなのか――恰も扉が僕に拒否反応を示しているかのようだった。
否、僕がこの教室に入りたくないというだけなのか……とにかく、何か、嫌な予感がする……まるで教室に入った瞬間に、すべてが終わってしまうような――
でもそんな結末は待っていなかった。僕はまた一つ大きなことに気がついたのだ。保志野先生は4―2にはいないな、と。簡単なことだ、法人は4―2から生存する上で貴重な血を垂れ流してまで保健室にきたのだ。血痕がしっかりと残っていてしかも乾き始めてさえいるのだから保志野先生がそれを見過ごすはずがない、見過ごせるはずがない。
だとすると彼女は何処へ行ったんだろう?
法人がどこにも寄らずに最短距離で保健室まで向かったのだとすれば、逆にあの保志野先生こそが学校のどこかへ途中で寄り道してしまったということになる。
イッタイゼンタイ彼女は何処に行ったんだ…………?
四階から一階までの二ヵ所――つまるところその二つが抜け穴なのだろう……と想定してはみるけれどもしかし安易とも安直とも言えるその仮説には説得力というか現実性がなかった。そもそも彼女は行方知れずなのだから、抜け穴も何もあったもんじゃあないのだろう。それに何処に行ったかよりも、何処にいるかのほうが重要だ。僕は、今まさにそれを知ろうとしている。
知ろうと思って知れるものではないけれど。
「あっ、そういえば法人……法人のことを忘れてたな……」
振り向けば辺りには誰もいない。置いてけぼりにされてしまったようだ、法人は。
それにしても静かすぎる。この四年二組の教室だって、今も授業をやっている訳だ……なのにまるで先生の声も生徒の声も聞こえないぞ……?
意識した途端、校舎中が静寂に包まれる。まだ白昼だというのに、雰囲気は深夜の気味悪さに似たものを孕んでいる、ような……。なんとも筆舌に尽くしがたい状況だ。いや僕自身正確な状況が飲み込めているわけではないのだが。
まるで僕以外、誰も学校にいないような――だからといって休日であることを知らずに学校に登校してきてしまった時のような、ある種自虐的な呆れなどはないのだけれど、しかし自分の存在が場違いな、埒外な何かであるが如き疎外感を、確かに僕は感じていた。
何ともなしに、帰りたくなってきた。生まれてこの方十年にも満たない年月を過ごしてきたワケだけれど、ここまで不気味な学校は、見たことが無い。正直なところ、気持ちが悪い。
「さて……これからどうするか……」
法人は多分保健室で怪我の手当てを待っている――否、失血で気絶でもしているかもしれない。あれほどの出血量だと流石に法人でも気を失ってしまうだろう。下手をすれば死に至る……本当に洒落にならない。
とりあえず僕は保志野先生を探すのを諦めて、保健室で蹲っているであろう(蹲っていないかもしれない。倒れ伏して死んでいるかもしれない)法人を介抱しに(最期を看取ることになるかもしれない、いや既に死んでいるかもしれない)行った。
四階から一階まで一気に駆け下りる。グルグルと少し目が回って、途中三階と二階への出口が見えて。
一階の保健室までとりあえず走る。階段からは短い距離ではあるが、しかし短距離だからこそ走るのだ。僕は法人に少しの憐憫も持ち合わせていなくて、だけれど精神の底に少しばかり残留している思いやりとか人情とかはその実在を短時間でも証明したいと疼いているから――。
保健室の扉は半開きになっていて、僕は躊躇いなくそこに入っていく。
……………………。
唐突ではあるが、そこで僕の両目に何が映ったかは描写するまでもなく、描写する必要がない。
詳細は逐一説明するものではないし、また、されるものでもない……。
状況から観察するものなのだ――
状況から察するに、観察するに、保志野先生は僕が4―2へ行ってしまうのを待っていたようだった。そして直後に保健室に向かい怪我人の法人を介抱した、といったところか。
「あ、宇奈月くん遅かったじゃない、何処へ行ってたのかちょっと心配したんだよ~?」
そんな白々しいことを平気で言ってのける保志野先生。まあこの人にはそれくらいの太さの神経は普通にあるのか。
「いえいえ、別にどこへ行ってたって訳でもありませんよ。ただ、法人君が大量に血を流してたのを思い出して、一緒に保健室に連れていってあげようと思ったんですよ、今更のことでしたけどね」
保志野先生に合わせて僕も白々しいことを言う。本当に自分で言うのもなんだが、こういう意志の伴わない演技をさせられるのは全くもって不愉快だ。とはいえ世の中には不愉快なことを奉仕でもするかのように進んでやらなければならない時もある、その時が今だ。
眼前には包帯かテープか何かで手当てを受けた法人がいた。傷は右手のひらから手首の側面にまで及んでいて、斜めに切れていたようだ。傷が動脈にまで達していたから、あんなにも多量の血液が放出されたということなのか……。
ん……ってことは待てよ、法人はつまり、自傷行為をしたってことなのか……? いや、他にどうやったらあんな状況を作り出すことができる? 気付いたら右手から血が噴き出している、なんて状況は再現可能だとしても相当にファンタジーな手法でしか作り出せないだろう。物語の中でしかありえない、空想の、妄想の産物だ。
……と、それはともかく、現時点までで何が起こったのか整理しよう。
最初、僕は保志野先生を誑かして四年二組の教室へ行かせ、その直後に法人が満身創痍の体でやってきた。この時点で保志野先生は二階か三階のどちらかに潜伏していたと考えられる――次に僕は法人を一人保健室に残して校舎に付けられた血痕を確かめに行ったのだ。そして現在、保健室まで戻ってきてみれば、驚くべきことに保志野先生がいるではないか! これはどうしたことだ、大変な事実だ! 彼女を問い質さねば!
「それより先生の方こそ何処へ行ってたんですか? 僕はそれが気になって気になって仕方なくて……保健室まで戻ってきたのはそれが知りたかったからでもあるんですよ」
僕はわざわざ矛盾した理由をつけて、直截的な詰問になるのを避けた。生憎保志野先生には何が矛盾なのかも分からないだろうから、所詮これは僕の自己完結的な企図に終わるのかも知れないが。
「わたし? わたしなら宇奈月くんに言われた通りぃ、4―2の教室に行ったわよ? そこで蜷川くんの怪我の手当てを一応完了させたんだけど、本人がまだ気分が悪そうだったから、保健室まで連れていったのー」
嘘だ。どうみても今ちょうど手当てを終わらせたって感じだ。
それに気分が悪いというならベッドにでも寝かせるのが妥当な対応なんじゃあないか? 法人は真っ白な灰になったボクサーの如く床の上に崩れ落ちるようにして、保志野先生に躰を預けていた。背を向けているので顔は見えないけれど、死んだように眠っている。意識があった中で、失血によって気を失ってしまっただけなのかもしれないけれど。
――とにかく彼女は信用ならない。態度からして嘘を言っているつもりはないのだろうが、それでも発言と行動に齟齬があるのは明らかだ。
「ははは、ははははは――冗談なしで話し合いましょうよ、先生。僕は確か四年二組の教室の目の前まで行ったんですけれどね。先生とはすれ違いもしなかった。否、出逢いもしなかったというべきですか……、すれ違っちゃあ決してない。あれは入れ違いです。しかも保志野先生、あなたの作意で引き起こされた」
僕がそうやって饒舌にまくし立てると保志野先生はまさにきょとんとした顔になっていて、鈍感ながらも一生懸命内容を理解しようとしているようだった。
「え……? 何を言ってるの宇奈月くん……わたしはここと4―2を行き来しただけなのよ? 作為とかそんな、ワザとらしいことしないわ先生」
なんとか難しい顔をして受け答えられているようだが、恐らく彼女の脳内は、そのシナプスで接続された電気回路がショートしてしまいかねないくらい、大変なことになっているに違いない。今は頑張って抑えているようだが、いつ何時頭蓋が内側から爆ぜてもおかしくない――要は僕にそんな想像をさせてしまうくらいに、彼女は難しい面相を呈していたということだ。
「……いい加減、しらばっくれるのは止めてもらえませんかね――僕は確信してるんですよ……保志野先生、あなたが法人君や僕を回避するために二階に逃げ込んだ、ってことを」
法人が教室から保健室へ移動していた時、彼女は焦っていたに違いない。何故かは分からないけれど、法人との遭遇を意図的に避けていたのだから。そうとなれば自然、近場の二階へ退避することは明白だ。
「…………う~ん、やっぱり先生、宇奈月くんの言ってることよく分からないわぁ」
どんなに時間が経ってもこの人は恰も記憶喪失の人間のようにお惚けたお道化た態度しかとらないつもりらしい。
…………。
否……本当は惚けてもお道化てもいないのかもしれない、ただ真実、記憶を喪失っているだけなのかも…………。
つまり彼女は僕に言われるがままに4―2へ行った――と見せかけてに階に逃げ込んだ、ことさえ憶えていないのか……? 彼女の中では二階から一階のこの保健室に向かう時点でようやく記憶が復活した、ということなのか……?
否っ、否否否っ! その時点でもう矛盾が生じている! 彼女が法人を介抱してかつ保健室まで連れていったという行為は事実上可能性皆無なのだ。となるとこれは記憶喪失なんてものじゃなく、記憶の改竄が起こっているのか……彼女の心の内で。
「すいません先生……あんな詐欺みたいな方法で、4―2の教室へ行かせてしまって――あの時にはもう保健室に法人君は来てたんですよ……」
僕はもうここまで来たら謝罪するしかないだろうと思って、誠実に謝ることにした。自己のために保志野先生を誑かしたことは紛れもない事実だ。
だがしかし。
後の数瞬にて聞こえた保志野先生の発言は、僕を十分に混乱させてくれるものだった。
以下同文。
「え~? おかしいわねェ~、先生が4―2の教室に行った時にはもう、蜷川くん気を失っていたんだよ? ってことはー、保健室に行けるはずがー、ないのよねぇ~」
…………はァ?
あぁ?
青天の霹靂。
こんな慣用句を使う機会なんて人生に一度あるかないかくらいだと思っていたけれど……。
だって人間が本当に驚嘆というか驚愕した時は、言葉なんて発することができなくなるから。
あ、いや、心中では発言できるのか。使えるのか。納得した。
ということで自己完結。
「……えっ…………っと」
僕は確かに驚きはしたが、しかし先生が未だにトボけて、というかボケているのに驚いたのではない。その態勢はとっくに認識している。
彼女は『蜷川くん』が『気を失っていた』、と言ったのだ――即ち、先生の言う理屈が正しいと仮定するならば……ならば……ならば。
だから僕はそこで、一つの仮説を思いついたのだ。
仮の話ではあるけれど……もし、僕の推測が間違っているとして思考してみると――
「宇奈月くんのイッテル話だとぉ、その保健室に来た『法人君』っていう人は果たして誰なのかァ、って思っちゃうのよね」
おっとりとした声音で先生は僕に説明してくれる。僕の思いついた仮説は即ち、保志野先生の思考内容と酷似している。否、一致している。
「さっきわたしが急いで教室に向かったらぁ、扉の前で血を垂れ流した蜷川くんが倒れていたのー、それで持ってきた救急箱で手早く手当てを済ませてぇ。蜷川くん意識なし所在なげなワケで、そのまま放ったらかしにもできなかったワケで、ベッドに寝かせるために保健室まで彼の運搬作業をしていたのよ。ここまではわたしには余裕綽々で、すぐに終わったんだけど――そのあとキミが唐突に現れて、それが今までの顚末経緯ぅ―」
――そう、蜷川法人は意識がなかった……そして彼は教室の前で、息絶え絶えに右手から血を流し続けていたのではなかろうか。
いや……まだ真実と、現実と決まった訳じゃあないんだけれど。保志野先生が嘘をついている可能性だってある……。
「だから本当にぃ、宇奈月くんの見た『法人君』ってェ誰なのかしらね~。あ、これは蜷川くんと法人くんを別人だと思ってるとかぁ、そういうことじゃないわよ? ふるねーむなら最初に宇奈月くんから聞いてるんだしぃ」
「そ、そうですよ、僕は保健室で、法人君にちゃんと会っているじゃあないですか……!」
「でもぉ。このわたしが顔を見て確認したんだからァ、本人としか思えないのよねぇ……」
「顔を見てって、先生、法人君のこと知らないんじゃ、――あっ……」
「先生? 知らないわよぅ? ただ服とかに名前が書いてあるだろうからぁ、本人確認のために多少まさぐりはしたけどねぇ~」
保志野先生の素行を咎めるのも忘れ、僕は必死に考え直していた――今までの自分の認識を。
そして先程突然言葉に詰まったのは、僕があることに気付いてしまったからだ……。
先生は確かに法人に面識はなかったけれども――奇妙なことに、僕も『法人君』の顔を見てはいない、見たことがない――ということに。
思わず無言で前言撤回する。確かにあの時、僕はベッドで寝ている振りをしていた所為で『法人くん』の顔など見もしていなかった……ベッドから出た後も、目も合わせずに教室へ急いだから、『あれ』が誰なのかも今となっては分からない。僕はどうやら、自身の聴覚を過信していたようだ……。
すると僕は、夢でもみていたのか?
「で、今一番気になってるんだけどぉ……宇奈月くんってさぁ、ホントはどこ行ってたのかなァ?」
ついに保志野先生が核心を突く発言を僕に容赦なくしてきた。いやこの人には容赦も何もありゃあしないのか。
「さっき言ってた通りですよ、4―2の教室へ行ってたんです」
短く端的に答えるが、先生は納得いかなかったようで、
「いえねぇ、もしもそうだとしたら、何かおかしなことになるんじゃないかしら~?」
と言った。僕も同感だ。なんだか今日の学校は、皆おかしい。不自然というより、自然な不自然だから、奇怪なのだ。一見してそれと判らない、そんな絶妙な奇妙さが、この校舎内には漂っている。
「だってぇー、わたしと法人くんは教室から保健室に直行しててぇ、宇奈月くんの方も保健室から教室へ向かってたんでしょ~? だったら階段の途中のー、どこかで会っちゃうはずなのよね~」
そう……それこそがこの仮説の問題点。僕の推測の蓋然性を上げる、唯一の仮説の欠点だ。
「――あっ、でもでもでもでもォ、それはあり得ないことでもないのかもしれないわぁ」
「……えっ……?」
「だってウチの学校には、保健室が二部屋あるんだから」
突如として、僕の内側から、何かが爆ぜた。
無意識の内に、僕は保健室を飛び出して――
左手には奥に二階へ続く階段がある。即座に周りを見渡すと、そこには、
文字通りの保健室があった。
「忘れてたけどぉ、そうそう、ウチの保健室は二部屋に別れててねぇ、保健室Aと保健室Bがあるの」
後方からはのんびりとした声が聞こえていたけれど、それどころではなかった。僕は眼前に確認した事実に、戦慄していた。
――『保健室は二部屋あったっ!』
そんな漫画みたいな現実を突きつけられる……。
「保健室の隣にもう一つ保健室があるのよねっ!」
振り返った僕に大きく見開いた双眸で保志野先生がみつめてくる。僕は言い知れぬ恐怖をその身に感じていた……その自明の真実は、僕の心を打ち砕くのに十分なものだったから……。
いやそうじゃない、そんな瑣末なことじゃない。この学校がおかしいのだ。舞台からして想定外、配役からして論理外。道理の通じない物語――
「あっ、今思い出したわぁ。多分入れ違いになったんじゃないかしらわたしたち? 言い忘れてたけどぉ、わたしと法人くんは保健室Aじゃなくて、その右隣にある保健室に入ったのよねェ」
右手には確かにそれがあって、「保健室B」と表札に書かれている。ということは――
「保志野先生は保健室Bに入って……、僕は保健室Aから4―2に……。いや、その前に流血した『誰か』が保健室Aの方に入室したはず……!」
僕はその際にできた血痕を頼りに彼の道程を特定したのだ、それを見逃す保志野先生でもあるまい……!
「それはたぶん~、その『誰か』さんが来る前にわたしが来たってことだと思うよぉ。先生が保健室Aにいたのはぁ、法人くんをベッドに寝かせてあげてから、廊下に付いてた血痕に気付いたからだもん」
「え……じゃあ、この血痕は、先生が来てから付着したものだってことですか……」
絶妙のタイミングだ。
僕はそのあと保健室を出て、見事に入れ違いを成功させたってわけなのか宇奈月君……。
……ちょっと待て……先生の言ってることが正しい、真実だと仮定すると、法人は今、保健室Bにいるのか!?……だったら、保志野先生が今介抱しているのは……
「先生……、まさかそいつは、法人君じゃあないんじゃないですか……?」
僕は保志野先生に向かって言う。介抱されている彼の顔は、依然として見えていない。
「そうよぉ? 法人くんはこの男子じゃなくてぇ、隣のベッドで小康状態ぃ~」
そうか……! 彼女は保健室へ『連れていった』と言っただけで、『連れてきた』とは一言も言っていなかった……あれはだから、法人と一緒に保健室Bへ向かったということを示していた……!
「それはともかくとしてェ、わたしがここに来た時には、もう床も血だらけで、わたしなりに急いで手当てしたのよねぇ」
つまり僕が保健室を出て教室に向かった後に丁度、保健室BからAへ、保志野先生が移動したということか……?
「いや、そもそも何故保志野先生は、保健室Bに入ったんですか……? 保健室Aの方が階段からは近いのは明らかでしょう……」
「えぇ~?――あぁ、その時の先生はぁ、ここに宇奈月くんがいると思ってたからぁ。まさに入れ違いになるべくしてなっちゃったって感じねぇ」
ハッ、と我に返る。こんなことは思考するまでもなく判然と歴然としたタダの現実だ。
――ここにはベッドが一台しかなかった。よって僕が眠っているはずの保健室Aに保志野先生が入室するわけもなかった、それだけの、単純な事柄だったんだ。
これで理は通る。
現象として理解でき、受け容れることができる。
でも――だとすると、目の前にいる『彼』は誰なんだ……?
さっきまで話していた彼は、いったい何者なんだ……?
僕には分からない……。
……いや、分からないというなら、今日この日この時間この場所が分からない――保健室が何故か二部屋あるし、これだけの事件が起こっても誰の気配もしない……大体、この小学校に「四階」なんて、あっただろうか……?
「ねぇねぇ宇奈月くん、さっきからぁ、何だか顔色が悪いわよぅ? 本当に生きてる? 大丈夫?」
考え込んだ僕の顔が何色に染まっていたのかは分からない。全てがよく分からない。それでも、彼女の主観なのか何なのか、とにかく具合が悪そうに見えたということだけは分かった。
唯一それだけが認知できた。
かくして僕は答えようとする。
回答は模範通りの模範解答。
最初から、言うべき言の葉は決まっていた。
しかしその言葉を言うべきか言わざるべきか、僕は十二分に迷って――でも言わないと、僕が法人に対して犯した罪を自認できない気がして、僕は言う――
「大丈夫です」
(了)
どうでしたでしょうか。最悪だったでしょうか。最低だったでしょうか。どちらにしても、オチは毎度のごとく曖昧模糊な感じになってしまいましたが……。良ければ感想・評価お願いします。




