其の二
【2】
馬車馬の嘶く甲高い鳴き声が、目的地への到着を報せてくれるようだった。それを聞きつけ、下ろした目蓋を指先でぐいと揉みほぐすと、霊夢は、唇を結んだまま呻いた。
「おはよう、霊夢。目ぇ覚めたか」
と、彼女の傍らで腕を組んでいた魔理沙に継いで、後列の小悪魔が、招客へと慎んで指示を出す。
「長旅、お疲れ様でした。お近くの開口部を開錠して頂き、係りの者が誘導するまで、立ち上がらずにお待ちください」
云われた通り、扉へ面した側に着席していた魔理沙は中腰の態勢で、天上に頭をぶつけるなんて阿呆はせず、受金へと落とし金を倒すタイプの鍵を開けた。すぐさま、木製の扉は外向きに開け放たれる。後ろから「足元にお気をつけて」との心配りを貰った。
濃霧が晴れた外の世界は、 橙色の盛んな夕闇であった。馬を操っていた妖精とは別の妖精が設えた足台を利用して、魔理沙から順に地面へ降り立つ。
純白のエプロンで、濃紺色をしたワンピースの腰元をきゅっと締めたメイド服。中肉中背の童顔。毛先をふんわり巻いた髪をレースつきのカチューシャで飾ったこの妖精は、紅魔館に籍を置く数多い奉公精の一匹なのだろう。
昨年、似通った姿形をした召使と交戦したことがあった。もとより一人、二人ではない。規模が格段に異なる。奉公精はめいめい、“横暴な侵入者”として紅魔館の敷居を跨いだ霊夢と魔理沙を、何十、何百と脹れあがった総動員で迎え撃ち、入乱れたもので、ことさら際限のない殺傷弾――それはもう“弾幕”と称するに惜し気ない射撃を繰り出してきた。単体では恐るるに足らない脆弱な妖精であっても、編隊を組んだとなればなかなか隙が生じにくい。すこぶる手を焼かされたものである。
用済みになった台座を脇に抱え礼をする奉公精――妖精の雌雄を分別する基準は不明だが、胸は自分よりありそうだしスカートを穿いているし、恐らく“彼女”で差し支えはないはずだ――を一瞥して、腹の中で彼女はどう感じているのだろうと、霊夢は無性に気になった。
とうにレミリアとは和解こそすれど、奉公精の粗方が大なり小なり傷を負ったのだ、軽傷の域を超えた妖精がいたのかも分からない――。
その節に、当たり前だが恨まれたとしよう。おいそれと、それら加害者に傾いだ遺恨を断ち切れるものだろうか。……いや、不可能だろう。少なくとも霊夢にとっては。半永久的に、同僚を痛めつけた敵勢を恨み続けることだろう。それもまた、無理からぬ感情の動向だろうから詮方ない。
変妙な距離感を意識した霊夢は、奉公精を直視するのにかなりの抵抗を催した。ので、知らん顔を決め込む。
「お勤めご苦労様です!」
今ばかりは、相変わらずの舞い上がった抑揚で奉公精へ道化る魔理沙のさっぱりとした性格、ないし図太い神経が羨ましかった。メイド服姿の妖精はしかし、身動ぎせず、どこかしら怒ったようにこうべを垂らしているわけなのだが。
「ほら、魔理沙。こっち」
馬車から小石が敷き詰められた砂利道を幾らか歩いた地点で、霊夢が手招きした。
白く濁った煙霧は離散している。それに打って変わり、あれだけ暈やけていた道脇の林木や森の状景が鮮やかに視覚できる。
箱馬車で運ばれた一行を両端から挟み込むように切り立った雑木林は淡い翠緑色で、空の夕焼け模様がそこへ何かしんみりとした影を差している。霊夢の立つ先、緩やかな上り坂になっている斜面は徐々にその道幅を収縮した具合に延びていた。そして枝葉の生茂った樹林に間もなく突き当たると、ほぼ直角のコースを描いて霊夢から見て右方向へと坂道は沿い上がっている。
斯様の道なり、なるほど馬の脚では進入に困難である。ここからは徒歩か。
小悪魔が慎重な足取りで地面に降りると、乗客を失った紅い入母屋造りの馬車は脇道に逸れて走り去った。そちらの道も多分に洩れず夕陽の滲んだ山林である。馬駐めへ走ったと踏んで結構だろう。
「天然の美景に恵まれた、空気の美味しい土地ですこと」
周囲へぐるりと目を配りながら、霊夢はしれっと嘯いた。
「皮肉?」
と、片眉を折った魔理沙にゆるゆると平手を泳ぎ、彼女はえがらい顔つきで「本心から」と断った。――ものの。実のところ、云ってしまえば皮肉である。
山麓か、或いはよほど高い山巓に自分は立脚しているのかは決めつけあぐねるが、それにつけても霊夢は身体が重かった。息苦しいとまではいかないが、倦怠感にも似た、気疲れのような症状である。高度に進めば進むだけ酸素は薄くなる原理だ。さいわい耳鳴りには襲われなかったものの、油断すれば自然と猫背になってしまう。
「博霊神社に籠ってばかりの毎日だもの、たまの遠出は気力回復に抜群の薬ね」
「それも嫌味だろう、どうせ。お前には似合わない台詞だぜ」
「あら、随分と心外な見解を下してくれるのね。気分が最高潮に良好なのは本当なのに」
「嘘つけえ。しかも見え透いた嘘を」
魔理沙は先端の尖った靴で小石を蹴り飛ばすと、
「ま、なにを隠そう、私こそ気分が悪いんで……。こう、吐き気の前兆みてえな」
黒を基調としたドレス――まさしく魔女の服――の胸元に手を添えて背中を丸め、嘔吐の姿勢を真似して云った。
「馬車に揺られ過ぎたのかなあ……。わざわざ、ご丁寧に紅魔館への足を用意してくれなくとも、絶対、空飛んだ方が早く着くに決まってるっつうに」
「くれぐれもここで戻さないでよ」
「へぇい、最善を尽くしましょう」
「――少々よろしいでしょうか」
立ち話をする二人へ、そこにシックな傘を差した小悪魔が歩み寄ってきた。手傘は日除けの役割を果たしているのだろう。
「次の馬車が停車しますので、もう少しそちらまで後退下さい」
二台目の箱馬車も、霊夢らの乗車したタイプと大差ない外装が施されている。四つ脚の筋肉を撓らせた丈夫そうな二頭の馬の額と突き出た口先に縄を括り、その綱を運転手である妖精が操り、客の乗る大きな木箱を引いて動く塩梅。
明らかに一台目のそれと異なる点は、これは三台目にも云えることで、乗客を訪問先へと届けるその大箱に施された油彩画にあった。
テーブルクロスと思しき布地の敷かれた上に、ラベルの巻かれていない未開封のワインボトルと、一口分だけ液体の注がれたワイングラスがセットで佇んだ、そう云った寂しい晩餐を匂わせる絵画が全体的にくすんだ“紅”で描かれていたのが先頭号車で、片やこの二号車では、下地の真中に、反時計回りに整った花弁の枚数から全長まで上下左右対称に揃う薔薇の花が、幾本かの茨を、さも取り巻き、奴隷かのように散りばめて、権力を我が物顔で振るう王妃を彷彿とさせる凛とした存在感を放っていた。これもまた仄暗い“紅”一色で表現されている。そのせいか、凛とした王妃と云うよりも、好からぬ腹積もりを企んだ魔術師とも見て取れそうな作風である。更に深読みするならば、グラスに注がれた液体も(……毒々しい)その色調からどろりとした濃淡な(紅い……)血に見えなくもない。
(――まんま吸血鬼の趣味ね)
霊夢は天を仰ぎ、ぼうっとする頭を小突いた。夕陽影はさほど強くないように思えた。
馬車馬がブルルルッと低く鳴いて、薔薇の塗られた二台目が停止する。無愛想な例の奉公精が扉の把手を手前に開くと、
「おう、かたじけない」
そう云って足場を作る奉公精に会釈した女は、腰まで到達しそうな長髪を耳元で掻き上げながら降り立った。上品な青のロングスカートに同色の表着、その襟元を赤いリボンで飾っている。
「あら」
女は、睫毛がつんと上向く二重瞼で霊夢と魔理沙の姿を認め、うねる白銀の長髪をまたぞろ耳元で掻き上げる。
「あらあら、こんにちは――って間柄でもないでしょうか」
「はぁ……」
もたつく霊夢の返しに耳を傾けるわけでもなく、女は、目を細めて和やかに微笑み、
「ふふ。年ですかな、乗り物は如何せん身体が受けつけないもので、さっそく、疲労の色が顔を覗かせています。あぁ、参っちゃいますよ」
そこで、言葉をぷっつり切った。それから物珍しげな品を鑑定するように、夕陽の相成った森へと流し目を送る。
彼女が我が身を自評するほど、年は食っていないだろうに。皺の皆無な顔面や、露出した腕の木目細かな肌模様から、霊夢は推測した。語りには慣れている余裕があったし、わりだか社交的な“妖怪”と窺える。
――幻想郷にて栄華を謳う妖怪は枚挙に遑がない。妖怪は、霊夢、魔理沙のような“人間”と類似した肉体を持つが、その内に宿らせた力は人間のそれと格段に異なる。当然、人間ならば年を食うと比例して衰える肉体の機能も、妖怪となればその進行速度はまちまちだ。『年は食っていないだろうに』と霊夢が推したのも、あくまで女を“妖怪”として判断した基盤のもとであり、実際問題、彼女がどれほどの年月を生体としてあり続けたのか勘定しようにもそれは骨が折れるので、みずから志願して探ろうとは思わない。――と、このような蛇足。幻想郷の常識とも云える人間、妖怪の生態を莫迦丁寧に噛み砕く行為のなんて無粋なことか――。
その妖怪のたたずまい、さながら劇場の舞台に立ち、スポットライトに照らされるかのよう……。今にも野鳥を手懐け、技巧を凝らした独楽にも引けを取らない美しい円盤を、ロングスカートの衣裾でくるくると具現しそうな――。優美で知的な、そんな印象。
それだけに霊夢は意表を突かれた。聖女の同伴者とあれば、まずそれと釣り合う振舞い、もしくは趣の肉薄した情緒を漂わせて然るべきだと漠に断定していたのだから。
袴の類であろう捨て売りされていそうな見窄らしいもんぺにカッターシャツを入れ、サスペンダーで吊った風采。古いもんぺの両ポケットへと両手を突っ込み、気持ち身を反らして肩で風を切る歩行法。身の丈は立派なもので、霊夢と魔理沙を優に勝る。眉間を狭めた厳つい表情。針金のようにぎらぎらとしたロングヘアは、つついただけで人差し指の第一関節から上部を切断しかねない近寄り難さがある。
極めつけは、そしてポケットから取り出した巾着袋。これがどうやら彼女の煙草入れらしく、抜き取った一本を口に銜えると、追加で取り出したジッポライターで素早く火を点けた。
「くぅ」
深呼吸するみたいに深々と吸息し、女は臙脂色の輪っかを身震いしながら吹き落とした。
と、霊夢と魔理沙の未成熟なコンビを視野に収めるや、
「あいや、悪いね」
男性的な女は回れ右をする。女の肩越しに煙がくゆる……。
「――こら」
その高い場所にある後頭部を、白髪の靡く妖怪が平手で打った。
「受動喫煙の被害。いつも云ってるでしょう」
妖怪の窘めるような云い方に、女はばつが悪そうに樹林へ目線を遊ばせる。何か歯痒そうに、自然の風景から霊夢、魔理沙、最後には知り合い――なのだろう――の憮然とする顔を見直して、
「だって、馬車を降りてから吸えって云ったのはそっちじゃないか」
と、反論した。
「それは常識だからです。密室で脂を量産する人がありますか」
「それにしたって……ここは密室じゃない。雄大なる大地だ」
「子供達も後から来るんですよ? 貴方に、あの子達の肺を害させる権利などあるわけがないでしょう」
「だから、こうやって隅っこで吹かすんだって」
「駄目です」
にべもない禁止令に女は分かり易く落胆し、名残惜しそうに一度吸っただけの煙草を、新しく取り出した携帯灰皿でにじり消す。
「ふん。可愛くねえ」
女はまなじりを細め、にやりと笑いながら云った。
「そんな莫迦みてえなカタブツじゃあ、そらぁ嫁の貰い手なんぞ見つからねえわな、この先ずっと」
「………」
「あ、すまん」
頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向く連れを笑い飛ばし、
「おいおい、冗談だって、そう拗ねるなよ。――ああん! もう、可愛いなぁおい」
男性的な女は、嬉々として背面へ抱き着いた。その拘束から脱しようと白髪の女は暴れるが、いよいよ観念したのか開き直ったのか、それか鬱陶しい相方は居ないものと割り切ったのだろう、つんと取り澄ます。その戯れぶりに霊夢は合点尽き、ぽかんと大口を開ける魔理沙へそっと耳打ちした。
「お似合いの返様カップルですこと」
「――それ皮肉?」
霊夢は憎らしい面持ちで、
「大正解」
と小声で云った。