第一章 濃艶「紅魔館」へ
【1】
規則的な振動に応じて、天上から宙ぶらりんのランプも揺れる。
白濁と煙った窓硝子に目を向け、博麗霊夢は感心したように鼻を鳴らした。
「そこら一年足らずで、こうも森の生態系が狂ってしまうものなのね」
ワゴン型荷馬車の乗車スペースに取付けられた小窓が映す樹林の風景は、霊夢が“とある一件”にて近隣を訪れた際に鳥瞰したそれと、がらりと勝手が変わっていた。
かつてこの土地は血のように真っ赤な濃霧が蔓延し、全域に渡って視界が不明瞭になったと云う実例をもつ――と云っても、件の紅い霧は霊夢がこの地を去るまでに綺麗に霧散したのではあるが――。しかし今現在、前輪と後輪の回転する重々しい音と連動するかのように次から次へと窓硝子に映え、そして左から右へと流されていく外界の模様すべてが、生クリームさながらねっとりとした暗い白色に着色されていた。
それだけじゃない。幼い草木が遠慮がちに茂っていたあの頃とは対照的に、霞掛かった白妙の奥では、立ち木らしき背高のっぼの陰影がどこまでも並び立っているから驚きだ。
侘しかっただけの草原は、季節の一回りもしないうちに立派な山林へと変化を遂げていた。
霊夢が続けて云う。
「“お嬢様”の嗜好は、てっきり紅いモノに限られているとばかり。それともなに、この白霧は自然発生?」
その問いを訊き、彼女の後部座席に腰掛けていた小悪魔は柔らかな声で、
「いいえ。我々が作為的に発生させている次第です」
と、応えた。
「紅魔館の修復を河城様に依頼した折り、先方から商談を持ちかけられたのです。そっちがその気なら、霧煙の製造機を安値で設置してやるぞと。で、私と、メイド頭の十六夜とで相談したうえ、それじゃあお願いしますと返事をしまして」
「随分したたかな奴ねえ。カワシロ? 誰、それ」
「種族は河童。フルネームは河城にとり。建築から機械に亘って幅広いエンジニアの知識を有されています」
「ふうん。そりゃあ凄いわ」
聞き覚えのない名前に、霊夢はそう無難な感想を呈した。
「そうなんですよ。実際、腕は確かで、あれだけの被害を受けた紅魔館の大部分を既に修理なされています。看板に偽りなしです。まあ最近になって、建築費の上限アップ、それも安価とは程遠い金額をせびられましたけど」
小窓から外へと目を馳せている霊夢から小悪魔の表情は窺えないが、大層な内容のわりに、あまり立腹しているふうでもなさそうである。根がお人好しなのか、或いは楽観的なのか。どっちとも取れそうだ。
「なあなあ。それってやっぱり、陽の光を考慮しての対策なのか?」
私を仲間外れにするなと云わんばかりに、云わずと知れる周知の事実をあえて質問したのは、博麗霊夢の坐した木造の長椅子へ同じく腰を据えた霧雨魔理沙である。トレードマークの鍔が大きく広がった魔女帽子は、膝にきちんと置いてある。
「はい。ご存知の通り、レミリアお嬢様も、フランお嬢様も日光が肌に合わない体質でいらっしゃいます。ですので、気分転換に館をお出でになられた際、濃度の高い靄や大樹から伸びた枝葉があると、日傘の代理がそれらで務まるわけです」
「こう云っちゃなんだが、吸血鬼ってそこんところ、ほんっと不便だな」
「かくいう私も、それほど太陽が好きではないので助かってます。まあ、レミリアお嬢様に比べれば、その有難味は雲泥の差ってものでしょうが」
「だろうな。あっちは命が懸かってんだもんな」
「ちょっと、笑い事じゃありませんよ」
小悪魔のやんわりとした注意に、魔理沙は「すまねえ、すまねえ」と歯を見せた笑顔で誤魔化した。
「――と云うことは」
と、口を挟んだのは、首だけを背後の小悪魔へと捻った霊夢だ。
「そのお、吸血鬼のお嬢様……妹の方、確か名前は」
「フランドール・スカーレットお嬢様で有られます」
「――ああ、そうだったわね」
(フランドール・スカーレット……)
その名前を耳にした途端、霊夢の脳裏に蘇る強烈な(……凶悪な)映像。倒壊する無数の塔、大音響の木魂する暗がり、鼓膜を啄みかねない甲高く、鋭く研ぎ澄まされた(……邪悪な)笑い声。
(ううっ……)
完治したはずの左腕に感電めいた痛みが走り、霊夢はその箇所を右手で強く押さえた。彼女の身に着けている衣服は、目立った汚れが一つもない清潔感のある巫女服である。両脇が裸な点を除けば至ってノーマルな造りで、生業に適当な服装だと捉えられなくもないが――。
胸が苦しい。胸が“ナニカ”に締め付けられている。いや、これは……。
胸を“ダレカ”に捕まれている……? 心臓がぎゅうぎゅうと膨張する。びりびりと脳味噌が痺れる。今にも凄まじい血煙を巻き起こして破裂しそうだ。それほど掴んだ“ダレカ”の握力は強靭で、どこか邪悪で(……どこか無邪気で?)これに抗う術はないとさえ無条件に思えてしまう。
鋭痛の根源である左腕を見た。と――。
一瞬間。その二の腕辺りが焼き焦げ、茶色の入り混じった服の隙間からは醜悪なまでに爛れた皮膚が剥き出しになる。それはとても、正視に耐え難い変わり果てた肉の塊で……。
「――どうした、霊夢?」
はっと霊夢が我に返ったのは、魔理沙に肩を揺すられてから幾秒後かであった。それを合図に身体の激痛は嘘みたいに止んだ。同時に、思わず想起してしまった“あの一件”に関連する記憶も掻き消された。
心配そうに顔を覗き込む友人の手を払うと、霊夢は足元を睨めつけながらかぶりを振った。
「ごめんなさい、少し眩暈が……。もう大丈夫よ、それで、なんの話だったかしら」
冷静な自分を取り繕うと、乱れた呼吸を噛み殺し、再び景色を眺めて云う。
「その、フランお嬢様の事を気に掛けていらっしゃったようでしたが……」
突として霊夢が沈黙したのは自分の所為だと誤解したのか、小悪魔は悄然として口を開いた。
「そう、そうだったわね」
霊夢はこめかみをぐりぐりと親指で刺激しながら続けた。
「あの“不安定なお嬢様”が紅魔館の外に出るなんて、失礼だけど、私にはとても信じられなくって。イメージが湧かないわ。それに危険でもある。彼女自身にとっても、私たち幻想郷の住人にとっても」
「それは……」
小悪魔はしばらく返しあぐねた末、
「実はその……。なんと申しましょうか、私どもとしては、是非ともフランお嬢様には外出なさって欲しいんですけど、今日に至るまで、残念ながらそのような試しは一度も……」
「一度も?」
「はい。と云うのも、先に述べました通り、この森と霧はレミリアお嬢様とフランお嬢様の体調をおもんぱかって発注したものです。それだけに成果もあります。レミリアお嬢様からは好評のお言葉を頂きました。ですが……」
「フランドールは、それでも決して自宅から離れようとはしないと」
と小悪魔の台詞を遮って魔理沙がまとめる。小悪魔はそれに肯首すると、声のトーンを幾らか上げて、
「もっとも、以前のお嬢様は地下牢での生活が習わしでしたので、正直、未だ言動に相応の癖は見られますが、それでも屋敷中を徘徊されるまでに成長なさっているんですよ」
「へえぇ。まあ、それもそうか。“誕生日パーティー”だっつうのに、主役が不在じゃ華やがねえってもんだ」
今回のレミリア・スカーレット主催“特別企画”の招待を賜ったメンバーは、屋根が紅く塗られた馬車に同席する博麗霊夢、霧雨魔理沙を足した合計八人。後続には同系統の馬車が二台つき、特例の一名を除外する残りの面子がそれぞれ割り振られていた。
招待状に明記された集合場所に現れたのは初見参の顔ぶれが大方で、魔理沙が居てくれて本当にほっとした。“一年前の事変”で顔を合わせた青い髪の小柄な妖精宜しく――名は何と云ったか?――、送迎馬車が到着するまでの間中暇を持て余さずにすんだ。
参加者一覧には『森近霖之助』と、霊夢の知り合いが載っていた。だが、集合場所に彼は現れなかった。それについて紅魔館への案内係だと名乗った、無地のシャツに黒褐色のベストを重ね着した小悪魔に尋ねてみると、どうやら霖之助は別途で仕事に追われているらしく、霊夢らに先立って目的の屋敷へと足を運んだとのこと。仕事の仔細までは追究せず、霊夢はその場「ふぅん」と軽く流しておいた。
進むにつれて徐々に山霧は薄くなっていた。当初ゴトンゴトンと音を立てていた車輪も、耳障りにならない位には落ち着いている。メイド妖精によって手が入れられた山道に差し掛かったのだろう。
「到着まで、あと二十分程です」
窓縁に肘掛け、握った拳を頬に当てながら霊夢は目を閉じた。
またぞろ、墨が半紙を浸すようにじわりじわりと“一年前”の映像が断片的に思い起こされる。邪悪な、どこか無邪気な、尖った笑い声、引き攣った笑い顔……。
此度の回想はフランドール・スカーレットに限定した内容ではない。紅魔館にたむろする、風変りした嗜癖を孕む住居人を思い浮かべていたのだ。
真っ先に浮かんだのは、面妖な館を牛耳るこれまた妖しい女主人。その燃えるように紅い瞳には、長時間注視し続けられない不確かな圧がある。その有無を云わせぬ眼光こそ、彼女が誇り高き吸血鬼であり、数多の妖怪、妖精を従がい得る所以なのだろうか。
次いでそこに仕える常時慇懃、常に微笑を讃えたメイド頭。差し向って会話したのは数える回数分しかないが、彼女の挙措全てに意味があるのではないかと勘繰ってしまう。そんな、油断ならない雰囲気を醸した寡黙な女が浮かんだ。
「ところでさあ」
闇の世界に似つかわしくない、魔理沙の愉快気な声がした。
「アイツは元気かな? ほらあの、魔道書ばっか読んでる、魔法使いの……」
「勿論です。――パチュリー様ですよね」
「おう。私、アイツから本を借りる約束してたんだ。まさか病褥に臥してます、なので本の貸し出しはご遠慮下さいってオチだけは勘弁してくれよ」
「ご健在ですとも。なにせ、この小悪魔が健康管理を任じておりますので」
「ふうん、頼もしいなあ」
そう云って魔理沙は快活に笑った。
微かな揺れが手伝って軽度の睡魔にとろんとしていた霊夢は友人が口に出した氏名(……パチュリー?)を反芻してみるも、深く考える前に諦めた。それより仮眠を優先したかった。
十七時を上回った時合である。不規則な生活習慣がたたって、どうやら彼女に巣食う眠気は昼夜の概念があやふやになっているらしい。
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※“とある一件”“一年前の事変”と作者が意図して濁した分を補完されたい読者諸氏は、大変お手数ですが、同人サークル『上海アリス幻樂団』が制作した作品『東方Project』シリーズの第六弾である『東方紅魔郷』を参照されたし。