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短編

作者: 秋口峻砂

原稿用紙五枚、人生

 夕闇の道筋、男がゆっくりと歩いている。男の目には生気がなく、まるで亡霊のようだ。道の周りには緑の草木が茂り、夕日とのコントラストは幻想的で、現実との一線を曖昧にしていた。

 男は古惚けたボストンバックを一つ持ち、着ている背広には皺が寄り、ぼさぼさの髪から覗く黒縁の眼鏡には皹が入っていた。

 その姿だけで、彼が絶望していることを想像するのは安易であるが、少なくとも彼の姿から希望は感じられない。生きていくこと自体にもう何の意味合いも感じていないようにすら思える。

 彼が歩く道は真っ直ぐに続いている。先は地平線に消えてしまうほどに遠く、果てしない。その果てすら見えない道は、ある意味での絶望感を齎すのは当然なのだろうか。

 よく見れば、その男の眼は真っ直ぐに先だけを見詰めていた。もしかすると絶望しているのではなく、着実に歩む為に他の無駄を全て排しているのだろうか。

 人生には無駄がないと論じた愚か者がいたが、人生は無駄に彩られているとせせら笑った馬鹿者もいた。それは何れも間違いではない。人間には無駄が必要であり、同時にそれを悟れば排する道を選ぶこともある。

 そしてこの男は、その無駄を全て排し、ただただ、それを探求し続けているように思えてならない。

 磨り減りぼろぼろの靴は、彼がそれだけ地道に歩いてきた証拠だろう。そして彼の人生が無駄に満ちていたものであったことも、想像するに難くない。

 若々しく力に満ちた時間は既に通り過ぎた。意気揚々と歩くことが出来た若さを失った時、きっと男は無駄を過ごしたと悟ったのであろう。

 そういう邪推断定は本来、男に対する侮辱に値する。だが人の価値を決める何かとは、己自身が決めたものではなく、周囲が見て感じたことがそのまま価値なのだ。それをどうこう言うのは屑と無礼者だけだ。

 前を向き、一歩を踏み出す。男にとってその努力は、何千回、何万回繰り返しても終わりが見えない行為だ。だが、その努力は決して無駄ではない。果てが見えぬような過酷な道であれ、歩き続けることでしか頂には届かない。才など立ち入る隙のない世界が、間違いなくあるのだ。

 唐突に男は、手に持っていたボストンバッグを道に捨てた。きっと男にとってはそのボストンバッグすら、無駄になったのだろう。そして決意をし、それを排したのだ。もしかしたらあのボストンバッグには、彼なりの希望や安らぎが詰まっていたのかもしれない。だが、それすら安易な甘えに感じてしまったのだとしたら、それを捨てる行為は男にとって必然であるはずだ。

 だが、捨て去ることは決して絶望ではない。男が捨て去ったボストンバッグに、例え何が詰まっていたとしても、捨て去ったその瞬間からまた、彼は果てに希望を見たのだ。

 ただただ身を削るように歩き続ける。それが周囲の目にどう映ろうとも、男には関係がない。目指す何かがあるのだから、それを追い求める日々に何の悔いがあろうか。悔いを残すくらいならば、歩かなければいいのだ。だが彼はそれを由としなかった。

 歩く先は果てなくとも、目指す場所があるのだからただ歩く、ただそれだけなのだ。

 だが、ただそれだけというには余りにも犠牲を払う行為なのも確かなのだろう。そして犠牲を払わずして辿り着ける頂など高が知れている。

 男はまた一歩を踏み出す。その瞬間、男はよろめき、膝をついてしまった。もしかすると、歩き続ける行為に疲れてしまったのかもしれない。男は一旦座り込むと、自分の足を労わるように揉み解し始めた。それはそれでも男が歩くことを止めるつもりがないことを意味していた。

 果てはなくとも、先は見えなくとも、何かを捨てても、疲れ果てても、時に傷を負い、時に奪われ、時に奪ってでも、歩き続けることでしか成し得ない、届かない頂がある。

 男はゆっくりと立ち上がると、また歩き始めた。身体はきっとまだ疲れ切っているだろう。

 それでも、男は真っ直ぐ前を見る。

 果て無き道を、歩き続ける。

 いつか必ず、頂に辿り着くと信じて。

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