第39話
午後6時に羽川がやって来た。赤いニット帽を被っている。
「……以前より禍々しい気配が増していますね」
玄関に入るなり、羽川は眉をひそめた。
「よう! 助かるよ羽川サン!」
笑顔で手を差し出す怜司の横を素通りした。
やはり仲は良くないのだろう。
「羽川さん、来てくれてありがとうございます」
空気を柔らかくするつもりで乃亜が声を掛けた。
「……先日、競馬で大負けしたもので。あまり気が向かない仕事ですが仕方なく来ました」
羽川は真剣な表情で言った。
「あ、そうなんですか……」
この人も大丈夫なのか?
「しかし、あなたも忠告を聞かない人ですね。もう後には引けない所まで来てしまっているようですが……。少しは反省してますか?」
「いいえ、後悔はしてますが反省はしてません! 私も、どうしてもお金がいるんです! ここまで来たら、絶対お金をもらって帰ります!」
羽川は溜め息を吐いた。
「コイツに何言っても無駄だって」
怜司が羽川の肩を叩いた。
「これは……稀に見るレベルの邪悪な代物ですね」
羽川は『手』を見ると、ポーカーフェイスを崩して顔をしかめた。
「猿の手に、集団自殺する直前の5人が指を切って移植したようだぜ。5人分の怨みを晴らすためにな」
「……こんな物、例え作っても素人に扱えるとは思えませんが。しかし、何故猿の手を使ったんです?」
「朝倉に調べさせたんだが、そいつらが自殺した土地には山神の伝承があったらしいんだよ、猿の。その話にちなんで、思いつきで猿の手を使ったんじゃねーか?」
「猿の神様なら、そんなことされたら怒るんじゃないんですかね……」
乃亜が口を挟んだ。
「さあ、神や妖怪と言われる存在の思考は我々の理解を超えることが往々にしてありますからねえ」
「多分、今夜やって来る奴が取りに来ると思う。覆っておいてくれ」
「……承知しました」
羽川は『手』に墨で字を書いた札を何枚も貼って覆った。それから森で拾ったというコレクションを、クローゼットにまとめてしまい込み、そこも札で封印した。
「寝室の札も剥がれかけていますが、どうしますか?」
「そっちはもういい。今日やって来る奴が問題だ」
「では、そちらに備えましょう」
羽川は玄関からリビングに続く廊下に念入りに札を貼っていく。乃亜は、感心したようにその様子を眺めていた。
「……乃亜、お前邪魔だから今のうちに飯でも買って来いや。スタミナのつく奴な。もう一人呼んだから、4人分」
「あ……はい。あの、もう1人の人ってどんな方ですか?」
「今日、一番頼りになる助っ人だよ。ようやくさっき起きたから、1時間後に来る予定だ」
「霊能者の人ですか?」
「ま、会ってからのお楽しみという事で」
怜司が乃亜に財布を握らせると、玄関から出て行った。
「さ、しっかりやってくれよ」
怜司が、しゃがみこんで札を貼り付けている羽川に声を掛ける。
「……しかし珍しいですね。四ツ辻の人間が、ただのアルバイトの為にここまでするなんて。あの娘を見捨てたって良いじゃないですか? もう、ここの霊障の原因はわかったようですし」
羽川は手を止める事なく言った。
「……別に、あいつのためにやってるわけじゃねえよ。この部屋の霊障を祓うには、今日が一番都合が良いだけだ。何たって、向こうから来てくれるんだからな」
怜司は窓の外を見ながら答えた。
「そうですか。時に柊木さん、妹さんの病状はいかがですか?」
「……関係ねえよ」
高層ビルの上に満月が輝いていた。
今日の月は赤く見える。前にこんな月を見たのはいつだっただろう。
マンションの外に出ても不穏な気配は続いていた。暗がりから亡者の目がこちらを見ている。お前を逃さない、と言っているようだ。
いつの間にか、とんでもないことに巻き込まれちゃったな、とまるで他人事のように感じる。
「でもまあ、何とかなるでしょ」
独り言を言って弁当屋に向かった。
そうだ、沙羅は叔母さんの家に行ったのだろうか?
スマホを取り出して、通話ボタンを押すと、すぐに沙羅が応答した。
「沙羅、今どこにいるの?」
「え? 家だけど」
乃亜は力が抜けた。
「馬鹿! 何で叔母さん家に行かないの!」
「叔母さんなら、今家に来てるけど……」
「え!?」
予想外の状況だ。
「今、替わるね」
「う、うん」
電話先でごそごそと音がする。
「もしもし? 乃亜ちゃん? 今何やってるの?」
「あ……叔母さん。ええと、バイト中です」
「……何か、危ないことしてない?」
何か疑われてる?
「いやいや、健全な清掃のバイトだよ! ちょっと夜遅くなることもあるけど」
乃亜は、しどろもどろになりながら言った。健全なバイト、って名目で実際に健全なものって、何一つ存在しないのではないだろうか。
「そう? 何だか姉さんが心配してるような気がして。昨日、私の夢に出て来たのよ。それでお家に来たんだけど……本当に大丈夫?」
「……今ね、バイト先でトラブっちゃってさ。投げ出すとみんなに迷惑が掛かるから、どうしても今日は帰れないんだ。明日には必ず帰るから」
乃亜の側をバスが通り過ぎていく。しばらく沈黙が流れた。
「あのね。叔母さんは、乃亜ちゃんを信用してる。悪い事をする子じゃないもの。でも、約束してね。絶対無事に帰って来るって。お姉ちゃんまでいなくなっちゃったら、沙羅ちゃんが悲しむじゃない」
「うん……約束する」
「絶対よ。何かあってもきっと姉さんが助けてくれるから」
「叔母さん、一つお願いがあるんだけど。今晩は沙羅を叔母さんの家に泊めてくれない? 寂しがるからさ」
「え……? 別に私はここでいいよ!」
奥で沙羅の声が聞こえた。
「良いじゃない、久しぶりに家にいらっしゃい。昔は良く姉さんと3人で遊びに来たでしょ。今日はゆっくりしていきなさい」
「沙羅! 言うこと聞きな!」
「わ、わかったよ。お姉ちゃんいないとちょっと怖いし……」
「決まりね。それじゃ、沙羅ちゃんは大事に預かるわ。明日は、みんな一緒に夕飯をたべましょう」
「ありがとう! バイト代出たら奢るから、楽しみにしてて!」
スマホの通話終了ボタンを押す。これで肩の荷が一つ降りた。しかし、絶対に無事に帰らなければ。
その直後、スマホに通知が届いた。怜司からのメッセージだ。
『ウコンドリンク買ってこい』




