第31話
乃亜は、夢の中で森を歩いていた。舗装されていない道を、とぼとぼと足を進めている。
夜の森は暗闇に包まれていて、周りを照らすものは何も無い。しかし、何も見えないはずなのに、少し先に首を揺らしながら歩いている者の気配がした。自分は、この人の後をついて歩いているのだ、と理解した。
やがて、樹木が倒れ、空が開けた場所に出た。月の光が、微かに周囲を照らす。目の前を歩いている者の姿が目に映った。
奇妙な女だった。長い髪が、腰まで伸びている。しかし、頭が割れて頭頂部から脳漿が溢れていた。その上、首の骨が折れて頭が傾いでいる。頭から流れる血が服を濡らし、足元まで流れて落ちていた。
女の前にも人影が見える。その影の前には、さらに人影が並んでいた。
皆、何も言わず黙々と歩みを進めている。はっきりと見えるわけでは無いのだが、乃亜は、604号室で見た顔を食いちぎられた男や、学校で見た舌の長い女や、パーカーを着た骸骨も行列にいるのがわかった。
生きた人間はいない。死者の行列だ。もし、この中に生きている人間が混じっていたら、直ちに死者の仲間入りをさせられるに違いない。
やがて、前を歩く死者が立ち止まった。行列の先頭を行く者がゆっくり右手を上げ、空を指差した。
空の上には赤い満月が輝いていた。赤い光が降り注ぐと、死者達は恍惚とした表情を浮かべ、空に手を伸ばした。
薄暗い部屋に目覚まし時計が鳴り響く。
目を覚ますと、身体中に汗をかいていた。冷房がいつの間にか消えている。誤って、自動で切れるタイマーをセットしていたらしい。乃亜は冷蔵庫の麦茶を飲んで、風呂場でシャワーを浴びた。
昨日あんな目にあった上に、死体をバラバラにした現場だと知った以上、さすがにマンションの風呂には入れない。
どんなに狭くても、古いバランス釜が付いた浴槽でも、女の生首が入った風呂よりは遥かにマシだ。
「お姉ちゃん、バイト行けそうなの?」
出かける準備をしていると、沙羅が不安そうに顔をのぞかせた。
「うん。昨日あまり眠れてなかったから調子悪かったみたい。寝たらスッキリしたよ」
「そう、なんだ……」
沙羅は、少し残念そうに声を落とす。
「なに? お姉ちゃんがいなくて寂しいの? 今日で最後何だから、我慢しなよ」
「そうじゃなくて……」
沙羅は俯いた。
「何よ?」
「わ、笑わないでよ?」
沙羅は、少し躊躇ってから話し始めた。
「昨日の夜、ちょっと怖い事があって。あっちの部屋で動画見てたんだけど、トイレに行こうと思ってリビングを通ったら、窓の外に人が立ってたの……」
どくん、と心臓が鳴った。
「……見間違いじゃない? ここ、3階だよ?」
「電気を付けたら消えちゃったから、私もそうだと思ったんだけど。朝、ベランダを見たら、足跡みたいに土がついてて」
乃亜は、大きな声を出して笑った。
「な、なによ! 笑わないでって言ったじゃない」
「沙羅はまだまだ子供だなぁ。……きっと気のせいだって」
「お姉ちゃんも見てよ!」
沙羅に手を引かれてベランダへ出る。ベランダの床に、泥が付いていた。足の形に見えなくもない。しかし、乃亜はスリッパを履いたまま、その足形を踏み付けた。
「ちょっと! それじゃわかんなくなっちゃうじゃない!」
「気のせいだよ、こんなの。たまたま汚れてるだけでしょ、最近ベランダ掃除してないし」
「そうかなぁ……」
「そうだって。怖いなら、一晩中電気を付けっぱなしにしておきなよ。あ、でも戸締まりはしっかりしといて」
「うーん……」
納得していない様子の沙羅の背中を押し、部屋に入った。窓を閉める寸前に、腐肉の臭いが鼻をついた。
沙羅にも604号室の怪異の影響が出ているのかもしれない。早く家を離れた方がいいだろう。
しかし、どこへ行けばいい? 叔母さんのところ? 友達の家?
いや、駄目だ。自分はきっと呪われている、604号室に。しかも、その呪いを周囲に拡散しているらしい。
きっと、どこへ行っても災厄を振りまくだけだ。それを避けるには、マンションへ戻るしかない。……まるで、604号室に招き寄せられているようだ。
約束の7日間は今日で最後だが、バイトを辞めれば解決するのだろうか?
乃亜は、学習机の一番上の引き出しを開けた。奥に入っていた、朱色の紐を編んだ輪を取り出す。
昔、母親からもらったお守りだ。どこかのお土産と言っていた様な気がするが、詳細は思い出せない。
乃亜は、紐を左腕に巻いて目をつぶった。
母さん……私と沙羅を守って。
夕闇に包まれたマンションに到着すると、エントランスで老婆に出会った。
「あ……おばあちゃん」
「あたしゃ里中だよ!」
「ごめんごめん」
乃亜は、老婆に笑いかけた。しかし、笑顔はすぐにしぼんでしまう。
「どうしたんだい? 元気が無いねえ」
「ちょっと疲れちゃってさ。あの部屋の悪い気に当てられちゃったみたい。……なーんてね」
「やれやれ、あんたもかい」
老婆は、大きく溜め息を吐いた。
「あの部屋で何があったか、聞いたのかい?」
「まあ、大体のところは。住んでた人が何人も死んでるんでしょ? 想像以上にヤバい部屋だよね」
「……ただの偶然だよ」
老婆は優しく微笑んだ。
「幽霊が出るだの何だの……そんな事をいう輩もいるけど。あたしゃそんな事は全然信じちゃいないよ。死んだ人間より、生きている人間の方が強いんだ」
「そりゃそうかもしれないけど。私は、事故物件には住みたく無いな……」
乃亜は力無く笑った。
「何を言ってるんだい! 事故物件だなんて、昔は気にする奴はいなかったよ。戦争で人がいっぱい死んでたんだからね。そんなの気にする奴は贅沢者だよ!」
「おばあちゃん、もう時代が違うんだよ……」
里中は乃亜を睨んだ。
「あ、ごめん。でも人が死んだ直後の部屋に住みたがる人なんていないでしょ、今時」
「情け無いねえ。気の持ち様だよ。幽霊なんてのは、目の錯覚だ。『こんな縁起の悪い部屋ならきっと出る』っていう思い込みが幻を見せているのさ。私は、あんたの前の住人にも言ったよ。何かあったら逃げ出すような心持ちだから、幽霊なんかが見えるんだって。やり返してやるぐらいの根性出せ!ってね」
老婆は、なぜか誇らしげに胸を張った。
「それでも私は普通の部屋の方が良いけど。……確かに、気持ちが落ちてたら幽霊に負けちゃうね。私も元気出すよ!」
乃亜は、右手を振り上げた。
「そうそう、逃げるんじゃないよ!」
老婆はそう言うと、欠けた歯を見せて笑った。




