第26話
「そうだお姉ちゃん! あの漫画の続き無いの?」
話を逸らすように沙羅は言った。
「ん……昨日借りてきたのが一番新しいのだったよ? それに明日でバイト終わりだから、もう諦めな」
「えー!? 続き気になるんだけど。最後まで読めないなら、最初から読まなきゃ良かったよ……」
「そう言うネガティブな所、良く無いよ。そこまで読めて良かったと思いな」
「しょうがないじゃん、私、山羊座だし」
「星座関係ないだろ……」
「え、山羊座の性格知らないの? ま、良いけど。そう言えばさ、あの漫画、すごい汚れてる巻が混ざってたんだけど」
「そういえば、そんなのもあったような……。でも、気にするほど?」
「うん、かなり汚れてたよ。臭かったし、よれよれで泥みたいなの付いてた」
「ふーん。まあ良いじゃん、読めればさ」
「お姉ちゃんは色々気にしなさ過ぎるよ」
「うるさいな……とにかく、読み終わったなら、もう返してくるから」
電車を降り、新宿駅を出たところで漫画を家に忘れたことを思い出した。
「ま、いいか」
日曜日の夜のオフィス街を、周囲を気にしながら足早に歩いて行く。
あのファミレスで時間を潰すのは止めにした。また変態に目をつけられては堪らないし、怪物に出くわすのはもっとごめんだ。
順調にマンションの前まで辿り着くことができた。ここに来るまでに、暗がりで老婆の霊と、首の長い犬の霊を見た。1日でこんなに霊を見たのは初めてだ。向こうから近付いて来ているように思えてならない。
神社での一件を思い出す。乃亜に『穢れ』が付いているのだとしたら、間違いなくこのマンションが原因だ。ここに長くいたら、もっと危険な目に遭うかもしれない。
横断歩道を渡ろうとすると、バイクが猛スピードで目の前を走り抜けて行った。乃亜は、小春から貰った交通安全のお守りを握り締めて横断歩道を渡った。
マンションのエントランスで、ぐったりした男の子を抱えた父親と、母親と思われる家族とすれ違った。目を逸らし、すぐにエレベーターに乗り込んで閉じるボタンを押した。
604号室に入ると、また腐った様な臭いが強くなっていた。ゴミは捨てたばかりなのに……。
「あと1日! あと1日なんだから!」
乃亜は大声を出しながら窓を開け、換気扇を回した。アルコールで床を拭き、消臭剤が空になるまで噴射した。
「これで大丈夫でしょ!」
一息ついて窓の外を見ると、ビルの上に月が輝いていた。もうすぐ満月だ。
窓を閉め、テレビを付けて大音量で動画を流した。このまま、今日はずっと起きていようかな。そう思いながらスナック菓子を口に運ぶ。しかし、自分の意思とは裏腹に、次第に瞼が重くなっていった。
ピンポーン。
唐突なチャイムの音で目を覚ます。……今何時だっけ?
時計を見ると、11時を過ぎた所だ。昼ではない。
だとしたら……こんな時間に訪ねてくるなんて、一体誰が、何の用事で? ここはスルーした方が良いだろうか。
ピンポーン。迷っていると、もう一度チャイムが鳴った。またあのおばさんだったら嫌だなあ。その娘(だったのかどうかも怪しいが)でも嫌だけど。
しかし、どうやら集合玄関から呼び出しているようだ。あのおばさんなら、きっと玄関先までやって来るに違いない。
宅配にしては遅過ぎるし、もちろん頼んだ覚えもない。出前の配達員が部屋番号を間違ったのか?
考えても埒が明かない。知らない人なら開けなければ良いだけだ。乃亜は、インターホンの通話ボタンを押した。
集合玄関のガラスのドアが映っている。誰かが呼び出しているなら、その姿が映るはずなのだが。ドアの向こうは、闇に包まれている。しかし、人の姿は見えない。
強い風が吹いているような音が聞こえる。スピーカーの調子が悪いのだろうか。
『ザザ、ザ……ザザザ……ザ……ザザザザザ……あ……』
人の声の様なものが混じっている様な気がする。そのうち、画面の右端に黒い影の様なものが映った。
『あアぁ……あ……あぁぁああ』
気味が悪い。絶対に開けるべきではないだろう。しかし、乃亜は映像から目が離せなかった。影が徐々に右側から滲むように広がり、やがて画面をほぼ全て埋め尽くした。
映像が荒いせいもあり、何が映っているかよくわからない。乃亜は目を凝らす。じっと見ていると……何故かドアを開けたい気分になって来た。
いやいやいや。そんな馬鹿な。そんなはずはない。冷静なもう1人の自分が制止する。
少しずつ画面が明るくなり、影が小さくなり始めた。そして、画面の色が赤くなり始める。
何かが大きく映し出されているようだ。
やがてそれは、粘液に濡れた、ぶよぶよした肉塊に変わった。
……これは、舌だ。口から飛び出した舌が画面に大きく映っている。
ということは、顔面をカメラに押し付けんばかりに近づけているということだろう。その顔は、徐々に後ろに下がっている。並びの悪い、黄色い歯が見えてきた。
口の中には小さな甲虫が這い回り、羽虫が飛んでいる。
見ていてはダメだ。この人間の目を見たら、正気を保てないかもしれない。しかし……目が離せない。その上、ドアを開けたい衝動に駆られる。土色の唇が微かに動いている。駄目だ……駄目だ……。
『あ……あぁ……あ……ああ……』
ノイズ混じりの声が聞こえる。耳を澄ましていると、
「開ぁけえてぇ!!!」
突然、耳元で声が聞こえた。
「うわあ!!」
後ろを振り返ると、そこには何もいなかった。
恐る恐るインターホンの画面を見ると、暗い玄関が映っているだけだった。
「今の、なに……?」
怜司にメッセージを入れたが、既読はつかなかった。
思い出してみると、前にもチャイムが鳴った気がする。まさか、あの時に来ていたのも……。
乃亜は、もう一度玄関の鍵がかかっている事を確認した。
リビングに戻ると、テレビの音が止まっていた。寝ている間に動画の再生が止まったのだろう。テレビには、緑の景色が映っていた。どこかの森の中だろうか。鬱蒼とした緑の木々が写っている。
しばらく画面を見ていなかったから、スクリーンセーバーが起動したのか? 完全に静止した画像が映っているわけでもなく、時折、木の枝が風で揺れていた。




