第23話 6日目
6日目。日曜日。
乃亜は、体に吹き付ける冷気で目を覚ました。寝る前に冷房を強くしたせいか、想像以上に体が冷えている。身体を丸めると、腕に鳥肌が立っていた。
寒い。上掛けはどこだ?
手探りで上掛けを探す。寝ている間に蹴り飛ばしたのだろう。足元に丸まった上掛けを引っ張り上げようとすると、指先が足に巻いた包帯に触れた。
昨晩、病院で診てもらったが、想像していたより傷は浅く、消毒が済むと包帯を巻いてすぐに帰された。
怪我をした理由は詳しく聞かれなかった(料理中に包丁を落とした、と怜司は言った)。おそらく、訳ありの患者が達が集まる病院なのだろう。カラフルな刺青が入った人を見たし。
包帯の上からさすってみたけれど、傷はほとんど痛まない。怜司に借りを作ったのが少し気に入らないが、これで一安心だ。
少し目を開けると、まだ部屋の中は薄暗い。もう一眠りしようと思ったが、うまく寝付くけなかった。頭の中で、もう一度昨日の事を思い出す。早朝から老婆が殴り込んできて、怪しい女がやってきて、怪物と変態に襲われて……色々あった1日だった。
いや、それよりも怪物が窓の外に飛んでいく直前。あの時聞いた女の声に聞き覚えがある。誰だったっけ? いくら考えても思い出せなかった。
寝転がっていると、鼻に異臭を感じた。……部屋の中が臭い。土と、鬱蒼とした植物の匂いが混ざった感じがする。少なくとも、都会の鉄筋コンクリートマンションの中では不釣り合いな匂いだ。
エアコンのフィルターをしばらく掃除していないのだろうか? いや、昨晩はそれほど匂わなかったはず。全然眠れる気がしない。乃亜は、二度寝を諦めて目を開いた。
奇妙な事に、部屋の真ん中の畳が盛り上がっている。
え? どういう事?
畳の合わせ目が盛り上がり、隙間が空いている。徐々に畳が浮いてくると、下の空間も大きくなった。畳の下から顔がにょっきり飛び出し、血走った目がこちらを見ていた。
乃亜は、慌てて背後の遮光カーテンを開いた。初夏の陽射しで、一瞬何も見えなくなる。明るさに目が慣れた時には、畳は元に戻っていた。
気のせいかな? 乃亜は何度も目を擦ったが、畳が盛り上がっているなどということはなく、隙間無く並んだ畳の上に陽だまりができていた。
嫌な予感がする。和室のドアを開けると、案の定と言うべきか、廊下に何か引きずったような汚れが付いていた。汚れを辿ると、書斎へ続いていた。
書斎のドアが半分開いている。そっと腕を入れて灯りをつけた。……中には誰もいない。月球儀が微かに回って、乃亜が見つめているとゆっくり止まった。
他に変わったところは無いかと部屋を見渡すと、棚の上の大きな引き出しが開いていた。そっと中を覗くと、財布や腕時計、ハンカチやリュックなどが乱雑に入っている。どれも使い込まれていて、汚れていた。
何かおかしい。普通、財布や時計と服を同じ所に入れるだろうか? 思い出の品をまとめて、しまっていたのか?
可愛らしいクマとヒヨコのキャラクターが描かれたハンカチが目に入った。乃亜が小さい頃から見慣れたキャラクターだ。そういえば、ハンカチを持ってきていない。少し借りようと思う。後で洗って返せばいい。
それにしても、この部屋は物が多い。本棚はいっぱいに詰め込まれているし、クローゼットの中にはリュックやテントが入っている。リビングの次に広い部屋なのに、もったいないと思った。
そして、和室で嗅いだのと同じような土と黴が混ざったような臭いが漂っている。乃亜はベランダの窓を開け、空気を入れ替えた。
部屋を掃除して一息ついていると、スマホが鳴った。
「よお、足の調子は大丈夫か?」
軽い調子の声が聞こえる。
「はい。今のところ問題無いです」
「そりゃ良かった。あの病院、古いし医者も愛想悪いけど、腕は確かだろ? 連れてって感謝しろよな」
「……ありがとうございました」
恩着せがましいな、と苛立ちを抑えながら言った。原因をたどれば、こいつのせいではないか。
「ところで、昨日の変な女が来た時に言ってただろ? あの件、裏が取れたぜ。うちの朝倉ってやつに調べてもらったんだが」
「えーと……このマンションで他の部屋の人が怪我したり、死んだりしてたって話ですか?」
「それそれ。この2年間で立て続けに起こってたらしい。605号室の子供が交通事故に遭い、601号室の主婦は階段から落ちて足を複雑骨折したそうだ。それから、603号室の住人が精神を病んで今も入院している。それから、お前の住んでる部屋の真下の、502号室で30代の男が心臓麻痺で死んだってさ。ああ、上の702号室でも親父が急に癌が見つかって……」
「ちょ……ちょっと待ってください! それ、本当なんですか?」
「どうも本当らしいぜ。嘘ついてもしょうがねえだろ?」
「それはそうなんですけど」
「まあ、俺もめんどくせーから全部言わねーけどよ。実際、不幸に見舞われてる住人は多いらしいぜ、このマンション。それで今も空き部屋が多い」
「それは……本当にこの部屋に人が住んでいた時に起きた事なんですか?」
「時系列がはっきりしているわけじゃねーが、何人かの証言を合わせるとそのようだな」
乃亜は言葉が出なかった。
「別に、お前のせいってわけじゃねーぜ? お前はただ、住んでるだけなんだからな?」
「そうかも、しれませんけど……」
「お前がいる604号室に何らかの関係がある可能性は高いけどな。また何かあったら知らせてくれよ」
「はい……。そういえばあの書斎、どうしてあんなに物が多いんですか?」
「書斎? あー、あの部屋? あそこだけは昔から、前の住人の物をそのまま残してるらしいんだよね」
「どうしてですか?」
意味がわからない。
「理由は知らんが、家主の意向らしい。一部屋自由に使えなくなるんだから、借りる側としては迷惑な話だろうが、その分家賃を少し安くしていたんだと。……何かあったのか?」
「幽霊を見たとかは無いんですけど。物が落ちたり、時々気になる事があって。あと、やたら古そうな物が多いなーって思ってたんですけど、聞いて納得しました」
「全部捨てちまえばいいのにな。よほど気に入った物でも置いてあるんじゃねーの?」
電話の向こう側で笑い声が聞こえた。テレビの音だろうか。
「それと。今朝起きたら部屋の中が黴臭くて。和室だけじゃなくて、リビングも。何か引き摺ったような汚れもあったし」
「黴臭いのはエアコンのせいじゃねえか?」
「私も思いましたけど。思い出してみると、3日前に掃除したばかりなんですよ」
「……『いわくのある』家やマンションってのは、湿気が多かったり、空気が澱んでたりするもんだ。そう言う場所で事件が起きたり、自殺したりする奴がいる。どっちが原因で、結果なのか知らんけど。俺たちの業界では常識だぜ?」
「つまり、気にするほどの事でも無いって事ですか? 私、学校で臭うって言われて結構凹んでるんですけど」
「気になるなら、消臭剤でも置いとけよ。そうだ、あのスプレー式の奴、除霊もできるらしいぜ?」
「……効きませんでしたよ、それ」
通話を切ると、急に静かになる。この部屋に問題があるのかと思っていたが、マンション自体が呪われているのではなかろうか?
適当に早めの昼食を済ませようと、一昨日に買った食パンをキッチンの棚から取り出す。パンには、蒼い黴がびっしりと生えていた。袋ごと、ゴミ箱を開けて放り投げる。
ゴミ箱の蓋を開けると、ゴミはほとんど入れていないのに、腐った臭いが鼻を突いた。
食べ物が腐るのが早すぎる。気にしないようにしようとしても、さっきの怜司の言葉が蘇った。やはりこのマンションには長居するべきではない。




