第21話
「助けてー! 変態です! ここに変態がいます!」
乃亜は叫んだが、その言葉は宙に消えた。
「良いねえ! 嫌がってくれなきゃ面白くない。もっと嫌がってちょうだいよ!」
乃亜はジリジリと男から距離をとる。
しかし、背後からヒールが近づいてくる音が聞こえてきた。この変態に絡まれている場合では無い。
どちらが危険かは意見が分かれるかもしれないが、乃亜は怪物の方が危険性が高いと判断した。
変態を振り切ってビルの正面まで行きたいが、正面に抜ける通路は狭く、男が立ちふさがり、通り抜けるのは不可能だった。
乃亜は、仕方なく中庭に引き返す。金属製のテーブルが並んでいた。怪物の姿は見えないが、目に付いたテーブルの下に姿を隠した。
明かりが無いので、見つかるまで少しは時間が稼げそうだ。少し休んで息を整えたら、怪物と変態を撒いて逃げられるかもしれない。
そう思いながら息を潜めていたが、徐々に先ほど切られた足首が痛み出した。この状態では逃げ切れるだろうか。
焦る気持ちを無理やり抑えつけて、自分を狙っている2人の様子をテーブルの隙間から伺った。
遠くに、キョロキョロと乃亜を探している変態男の姿が見えた。どうやらここに隠れている事に気付いていないらしい。
乃亜は男の動きに合わせ、テーブルの反対側に移動した。男が左側に移動すると、乃亜はテーブルの群を挟んで右側に行く。
身をかがめて隣のテーブルの素早く移るのを繰り返していると、このまま逃げられるんじゃないかという気になって来た。
だが、次のテーブルに移動したその時、目の前に立っている人影が見えた。見上げると、顔の無い怪物が無表情に立っていた。
乃亜は硬直した。悲鳴が出そうになる口を両手で押さえる。もうダメだ。ここでその鋭い爪で切り裂かれて殺されるんだ。乃亜は半ば諦めた気持ちで怪物を見上げた。
……どのぐらい時間が経ったのかわからない。怪物は動かなかった。焦らしている訳ではなさそうだ。
もしかして……。乃亜は、怪物の顔に向かってゆっくりと手を振った。次に、乃亜はゆっくり立ち上がったが、怪物は動かなかった。こいつは、目が見えていない。
「おい! どこに隠れやがった! 隠れても無駄だぞ!」
変態男は、痺れを切らしたように大声を上げた。次の瞬間、怪物は男めがけて走り出した。
「なんだ? そっちから来てくれるなんて……ぎゃあああ!」
怪物が男の目の前で、腕を振り上げる。そして血の様な、真っ赤な爪を男めがけて振り下ろした。乃亜は目をつぶって横を通り過ぎると、ビルの正面に向かって走った。
大通りに辿り着いて、ようやく乃亜は足を止めた。肩を落として呼吸を整える。通行人が不思議そうな顔をして通り過ぎるが、乃亜は1人で笑い出した。
なんとか助かった、らしい。変態男のお陰で命拾いしたようだ。全く感謝の気持ちは湧いてこないが。乃亜は、鈍く痛む足を気にしながらマンションへ向かった。
血が付いた靴下を脱いで、タオルで拭うと、リビングで鞄を投げ出し、ソファーに座り込んだ。
一体、さっきの怪物は何だったのだろう。朝、訪ねてきた女とほぼ同じ格好をしていたが……。
足が痛んで、考えを中断した。まだ完全に血が止まっておらず、傷口から血が滲んでくる。病院に行った方が良いだろうか。
その前に、怜司に連絡を入れておくべきだろう。スマホを取り出そうと、ポケットに手を突っ込む。すると、薄くて硬いものが手に触れた。一つや二つではない。なんだろう、と不審に思いながら掴み出すと、手の平には大量の真っ赤な爪が乗っていた。
「うわっ!」
思わず、床に叩きつける。女がコンビニの袋に入れていたネイルチップと同じものだ。ゴミ箱に捨てたはずなのに。
床に落ちた爪が、震え出した。地震が起きているように、小刻みに揺れながら動いている。
「なんなの!? もう!」
ソファーやテレビ台の下からも爪が出てきて、乃亜の前に集まってきた。次々と爪が集まり、蚊柱のように渦をつくる。やがてそれは、見覚えのあるつるりとした顔の人形の怪物になった。小さな唇が笑みを浮かべる。真っ赤な口の中には、小さいながら鋭い牙が並んでいた。長い爪を見せびらかす様に、腕を振った。
怪物は出口を塞ぐように立ち塞がり、長い爪を避けて他の部屋に逃げるのは不可能だ。乃亜は後ろに下がったが、すぐ部屋の隅に追い詰められた。
背中に窓ガラスがぶつかる。ここから飛び降りたら逃げられるだろうか? いや、ここは6階だ。助かる可能性は低い。怪物は、獲物を捕らえた歓喜の笑みを浮かべ、ゆっくりと近付いてくる。
ヤバい。ここで死ぬの? 嫌だ! 何とかして逃げなきゃ。頭の中がぐるぐる回る。
記憶にある風景が次々に浮かんでは切り替わった。これは走馬灯ってやつ? 怪物の動きもスローモーションに見える。ゆっくりと腕を振り上げると、鋭い爪の先が光った。
切られるの? それとも刺される? どっちも嫌だなあ、と乃亜は思った。死ぬならいっそ、痛みを感じる間も無く一瞬で死にたい。頭の中の記憶は次々移り変わる。……中学校、小学校、記憶は次々と遡って行った。
乃亜は、ずっと忘れていた記憶を思い出した。おばあちゃんの家に遊びに行った時、暗い洞窟に連れて行かれたこと。誰と行ったんだっけ? 女の人と一緒だった気がするんだけど。
あの洞窟には何があったんあろう? 洞窟の奥には、何か怖いものがあって……それから、大きな門が。 あれは一体、何だったんだろう?
『怖いものはウツロ様に飲み込んでもらえばいい』
耳元で、掠れた女の声がした。
ウツロ様、という言葉を聞いた瞬間、腹が張り裂けそうな痛みに襲われた。吐き気がする。このままじゃ……まずい。早く門を開けなければ。
乃亜は、必死で振り返ると、ガラスの窓を開けた。
生暖かい風が吹が顔を叩いた。
部屋中の空気が渦を巻き、窓に向かって吹き付ける。
乃亜は、尻餅をついて倒れた。頭の上を、風が吹き抜けていく。
怪物は驚いたように足を止めるが、徐々に窓に引き寄せられる。足を踏みとどまったが、やがて身体が浮かび上がった。
窓に吸い込まれる寸前、窓枠に爪を引っ掛けて抵抗したが、甲高い奇妙な悲鳴とともに窓の外に消えていった。直後、窓は勢い良く閉まった。
「助かった……の?」
乃亜は恐る恐る立ち上がると、窓の外をうかがった。窓の外には何もいない。普段と同じ道路の喧騒が聞こえてくるだけだ。念のため、窓の上や下も覗き込んだが、怪物の姿は影も形もなかった。




