第16話
この事故物件サイトが存在することは前から知っていたが、あのマンションを調べる気にはなれなかった。
過去に何かあったとしたら。知った上で過ごすのと、何も知らずに過ごすのなら、後者の方がまだ気が楽だろうと思っていたからだ。
何も起きないのならば。
しかし、今はもう事件があったのはわかっている。さっき、マンションの住人が言っていたのも、604号室で自殺があった件だろう。
事故物件サイトで住所を入力し、検索すると、予想通りあのマンションに赤い印が付いていた。それも1つじゃない……。乃亜は溜め息をついてブラウザを閉じた。
ダウンロードした動画も見終わってしまったし、もう午後8時を回っている。そろそろマンションに戻らなければ。
時間を誤魔化そうと思ったけれど、怜司に「部屋に入った時間は記録されている」と脅されている。本当かどうかわからないが、そんな理由でバイト代を減らされてはかなわない。乃亜は伝票を持ってレジに向かった。
マンションに帰る途中、乃亜は背後に視線を感じた。
振り返ると、小太りのスーツ姿の中年男性が見える。少し先にオフィスビルがあるから不思議では無いのだが、なんだか後をつけられているような気がした。
気味が悪いので、コンビニエンスストアに寄って少し時間を潰したが、気がつくとまた後ろについてきている。周りを見回すが、近くに交番は無い。
まずいな、と思いながらマンションの近くの大通りまで来ると、歩行者信号が点滅しているのが見えた。
全力で横断歩道へ向かって走る。途中で信号が赤に変わり、信号を待っていた車にクラクションを鳴らされたが、横断歩道を渡り切った。
振り返ると、道路の反対側でさっきの男がこちらを見ていた。乃亜はそのまま走って、マンションへ戻った。
部屋に入り、玄関のドアの鍵を掛けるとそのまま座り込んだ。なんで死んだ人間だけじゃなく、生きた人間にも怖がらせられなきゃいけないのだ。乃亜はリビングまで行くと、ソファーに体を横たえた。
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暗い森の中を、白いキャミソールと薄手のロングパンツを履いた若い女が1人で歩いている。
舗装されていない道を歩くのはふさわしくないサンダルを履いていた。危うい足取りで奥へ進むと、予想通り、女は足を木の根に引っ掛けて転倒した。片足のサンダルは脱げている。女は、もう一方のサンダルも脱ぎ捨て、裸足で歩き出した。
硬い草や小石が素足を傷つけるのも構わず、女は歩き続けた。既に人が歩いた形跡のある道を外れ、獣道を森の奥に進んで行く。目印の無い森の中を、ひたすらに歩き続けた。
やがて女は歩き疲れ、大きな木の根元に座り込んだ。小さな羽虫が飛び回っているが、追い払う気にもなれない。
女は、小さなバッグからシートに入った白い錠剤を取り出し、次々に手の平に錠剤を取り出す。手の平いっぱいに乗った大量の錠剤を、ペットボトルの水で何度かに分けて飲み干した。
森の中には、鳥と虫の声が響いている。慣れない道を歩いてきたせいで足全体が痛いし、裸足の足裏は血が滲んでいた。もう一歩も歩けない。
意識が朦朧としてきた。スマホを取り出したが、圏外で電波が届かない。オフラインでも使えるメモアプリを開くと、女はひたすら同じメッセージを打ち続けた。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……。
飲んだ薬は運悪く、即座に死に至るほどは毒性が強く無かったらしい。
胸と喉を、血が出るまで掻きむしりながら、一晩中、悶絶し続けた。後悔したが、もう助けを呼ぶ事も出来なかった。
虫の声に混じり、女の呻き声が夜の森に響いた。
『……心配しなくていい』
『もうすぐ、もうすぐ楽になるよ』
『一緒に行こうよ』
『もう頑張らなくていいんだ』
『俺たちは仲間だ』
苦しむ女の耳に、何者かの声が響いた。
5人の人影が、女を見下ろしていた。
『誰……?』
影は答えなかった。しかし、奴らは明らかに笑っていた。女が苦しむのを喜ぶように。
次の日の昼、ようやく女は事切れた。
月日が経ち、女の肉体は朽ちて行った。蛆が湧き、目玉が溶け落ち、全身の肉は獣や甲虫に食い破られ、骨が剥き出しになった。
死体の周りの雑草が繁茂し、女は静かに森に溶け込んで行った。
『……オキロ』
女はある晩、何者かに呼び起こされた。ゆっくり立ち上がり、幼児のようにふらふらと歩きだす。
『アッチダ』
当てもなく彷徨っていたが、やがて女は向かうべき場所を理解した。
永遠に続くかと思われる暗黒の森の中で、小さな光が見えた。女は光に向かって歩いて行った。
空には赤い月が輝いていた。
気がつくと、女はマンションの一室にいた。玄関の廊下からリビングに入るが、誰もいない。女は、奥の部屋に向かった。
廊下のドアを開けると、若い男女がベッドで眠っていた。女は、男の腕に頭を乗せ、幸せそうに眠っている。その女を見ていると、憎しみの記憶が蘇った。あのクソ女も、今頃こんな風に、のうのうと生きているのだろうか。
目の前にいる女を殺したくなった。生前は躊躇していた感情を、今や止めるものは無かった。
憎い。裏切った男も、その男を奪った女も。女は、2人の枕元に立ち、男を睨みつけた。
もしこの男を自由に出来るなら……このだらしない顔で寝入っている女を殺してやろう。
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乃亜が目を覚ますと、時計は午前1時を指していた。また変な夢を見た。身体が重い。風呂に入るのは明日にして、布団で眠ろう。乃亜はリビングの照明を常夜灯にして、奥の部屋に向かう。
暗い廊下の奥の部屋から、男女のひそひそ話すような声が聞こえた。乃亜はリビングの扉の前で歩みを止める。男女の話す声は次第に大きくなってきた。はっきり聞き取れるほどでは無いが、言い争っているらしい。やがて女性の大きな声が聞こえると、静かになった。
隣の部屋の声か……? しかし、耳を澄ませてもそれ以上は聞こえて来ない。
気のせい気のせい、と自分に言い聞かせ、乃亜は和室のドアを開けた。
ドアを開けてまっすぐのところにある大きな姿見に、『2人分の』影が映っていた。乃亜が急いでスイッチを押し、明かりをつける。しかし、照明の下の姿見には、乃亜が1人で映っているだけだった。
見間違いだと自分に言い聞かせる。部屋着に着替えると明かりをつけたまま敷きっぱなしの布団に倒れ込み、薄手の布団を頭から被った。寝る前に目が冴えてしまったかな?と思ったが、心配するまでも無く、乃亜は眠りに落ちて行った。




