第15話 4日目
4日目。金曜日。
乃亜は呆然と布団から起き上がり、スマホのアラームを止めた。ディスプレイの時計は午前7時を指している。頭を掻きながら、徐々に和室で寝た事を思い出した。
昨晩はずいぶんと寝た気がする。目を擦って部屋の中を眺めた。
和室の隅には、箪笥と、大きな鏡がついた化粧台があった。鏡には頭を掻く自分の姿が映っていた。
何事も無く、無事に朝を迎えられたようだ。しかし、ここに来てから嫌な夢ばかり見る。肩をさすりながら、朝の支度を始めた。
「すごいクマが出来てるけど、昨日夜更かししたの?」
「え?」
休み時間に小春からそう言われ、乃亜は驚いた。そんな事は無い。朝、鏡を見た時も無かったと思う。
「昨日は疲れてさ、10時前には寝たよ。いつもの倍は寝た感じ」
「うそ? 本当に大丈夫?」
小春は顔を近づけた。
「バイト入れすぎなんじゃないの? 少し休んだら?」
「そんなにハードな事はしてないよ。……それに、あと3日で終わるから」
乃亜は、指を折りながら数えた。
「でも、顔色悪いよ? 今日は早退したら?」
「心配しすぎだって。……そういえば、杏奈は休み?」
「うん。体調悪いんだって。まあでも杏奈、金曜はよくサボるから、本当かどうかわかんないけどね」
小春はそう言って笑った。
「そうだ、日曜日ヒマ? 久しぶりに一緒に買い物でも行こうよ!」
小春は目を輝かせて言った。
「え、服買うお金今無いんだけど。それに、小春の好きなお店、趣味合わないじゃん」
小春は昔から女の子らしい、柔らかい感じの服を好んでいる。乃亜は自称ボーイッシュな、平たく言えば飾り気の少ない服を来ていた。好きで着ていると言うよりは、値段が安いという理由が大きいが。
「見てるだけで楽しいじゃない! それに、ケーキでも食べよ! ケーキを食べたらきっと元気が出るよ」
「うーん……」
ケーキ代ぐらいなら、バイト代がもらえれば十分にお釣りが来る。最後の貯金が残っているし、ここらで一度英気を養うのも有効な作戦では無いだろうか。
「わかった、日曜の午後ね。夕方には帰らなきゃ行けないけど、いいよね?」
「やったー! 楽しみにしてるね!」
小春は満面の笑みを浮かべた。素直に感情を表現できるのが羨ましい。
「ところで、さ。私まだ臭い?」
「え? 気にしすぎだよ」
小春は遠慮なく花を近づけて匂いを嗅ぐ。
「え……」
小春は黙り込んだ。
「うそ、匂う?」
慌てて自分の匂いを嗅ぐが、自分ではよくわからない。
「えーと、ちょっと、ほんのちょっとだけ」
小春は困った笑顔を浮かべながら手を振った。
「でも、言われなきゃわからないレベルだよ! 日本史の古橋の香水の方が余程匂うって!」
あの部屋の匂いが残っているのだろうか? しっかり掃除したはずなのに。乃亜は、トイレの個室で制汗スプレーをヤケクソに吹きつけた。……これで匂わないかな? スプレーの匂いが強すぎて、自分の匂いがわからない。
隣の個室から「クサッ!」という声がする。申し訳ない気分になった。
洗面所で顔を洗うと、鏡にはやつれた顔が映っていた。小春が心配するのも頷ける。朝、マンションの鏡を見たときは、絶対こんなんじゃなかったのに。
金曜の夜の新宿は賑やかだ。しかし駅前の喧騒を抜け、歩いて行くと次第に人の数は減っていった。
一度マンションに着替えを置いてから夕飯を食べに行こうかな、と考えながらマンションの前の角を曲がると、いつも閑静なマンションの前に人だかりができていた。
道路には救急車が止まり、噂話が好きそうな女性達が声を潜めて何やら話していた。その中に、ゴミ捨て場で会った里中という老婆の姿が見えた。
「おばあちゃん、何かあったの?」
「あたしゃ、あんたのおばあちゃんじゃないよ!」
老婆は乃亜の姿を認めるとピシャリと言い放った。
「ごめん。で、何が……」
「どいてください! 下がって下がって!」
男の怒声がマンション内から聞こえてきた。
担架を持った救急隊員が姿を現し、素早く担架を救急車に運び込んだ。担架に乗せられた人は毛布がかけられていたが、隙間から見えた白髪や、男物の服から、高齢の男性とわかった。家族と思しき老婆が救急隊員に続き、救急車に乗り込むと、大きなサイレンを鳴らして救急車は走り去った。
乃亜は妙な胸騒ぎがした。さっきの人、どこかで会ったような気がする。
「あの、おば……里中さん? さっき運ばれたお爺ちゃん知ってる?」
「桑田の爺さんだよ。あんた知らないのかい? 同じ6階なんだから、挨拶ぐらいしてるんだろ?」
「いやあ……」
乃亜は笑って誤魔化したが、昨日6階のエレベーターホールですれ違った老人を思い出した。
……もしかしたら、あの黒い影が憑いていた老人では無いだろうか? 乃亜は背筋に冷たい物を感じた。
「まだ60代なのにねえ……」
「奥さんも可哀想に……」
ひそひそ話す声が聞こえる。
「健康には気をつけないとね」
「あの旦那さん、毎朝走ってたし、身体は気をつけていたみたいよ」
「また6階? やっぱり何かあるんじゃないの?」
乃亜はある女性の言葉に耳をすませた。
『また』? どう言うことだろう? 声の主を探と、背の低い、眼鏡をかけた女性が、隣の買物袋を持った女性と話していた。
「あの、私もここに引っ越してきて間も無いんですけど、前にも6階で何かあったんですか?」
乃亜は女性に話しかけた。
「あなた知らないの? あの事件のこと……」
「余計な事言うんじゃねえ!」
突然、女性の夫と思われる眉毛の太い中年男性が、女性の手を掴んで玄関の中に入っていった。それをきっかけに、他の住人らしき人たちも次々と帰って行く。後には、里中と乃亜が残された。
「あの……」
「ここに住むなら、余計な事は知らない方がいいよ」
里中は乃亜の言葉を遮った。
「あたしゃ、運気やら占いは信じない。そんなことを気にしてるのは、心の弱い人間だ。6階で何があったって、そんなのは偶然さ」
里中はそう言うと、自動ドアの向こうに歩いて行った。
乃亜は、今日もファミレスで夕飯を済ませた。不思議とあまり腹が減らなかったが、無理やりスタミナ盛り合わせプレートとジャンバラヤを食べ切った。更に、気持ちを盛り上げるために更にパフェを頼む。お腹が膨らむと、幸せのパワーが湧いてくるのだ。少なくとも乃亜はそう信じていた。
午後9時前のギリギリまで時間をつぶすつもりだった。乃亜は、ふと思いつくとスマホで事故物件公開サイトを開いた。




