第10話
『たぁあ……む……が……』
唸り声を出しているだけと思っていたが、何か意味のある言葉を話そうとしているのか? しかし、途切れ途切れの言葉は意味をなさない。喉が正常な状態では無いのだろうか。いや、今の状況が十分、異常ではあるのだが。
乃亜のすぐ目の前で足が止まった。黒いズボンを履いて、ところどころが破けている。伸びた足の爪と、足の指に生えた毛に嫌悪感を覚えた。乃亜の頭に、吐息を感じた。生ゴミと吐瀉物を混ぜたような、酷い匂いがする。
どこかで嗅いだような……そうだ、この部屋に入った時に残っていた匂いはこれか、と妙に納得した。
消臭剤にはやはり除霊効果は無かったようだ。誰だそんな嘘を教えたのは。そんな事を考えながら乃亜は、自動でページを捲る機械になったつもりで、ひたすらページを捲り続けた。
早くいなくなってください、早くいなくなってください……。乃亜はひたすら祈った。
どれだけ時間が経っただろう。突然、目の前の気配が消えた。ヘッドホンからも女性グループの歌声が流れている。
乃亜はおそるおそる視線を上げ、何もいないことを確認するとゆっくり顔を上げて部屋を見回した。
誰もいない。さっきのは夢だったのではないかと思ったが、床には足跡が残り、周囲に酷い匂いが漂っていた。
乃亜は大きく息を吐く。助かった、のかな? ……しかし、この床をどうしよう。掃除しても、さっきの奴にまた汚されてしまうんじゃないか。乃亜はうんざりした。そうは言っても、これを放置したまま部屋で過ごすのも嫌だ。
「負けてられるか!」
乃亜は気合を入れると、掃除用のペーパーで床を拭き取り、消臭スプレーをかけまくった。除霊はできなくても、匂いが取れれば十分だ。
気がつくと、汗をかきながら部屋全体を掃除していた。消臭剤を撒きまくったせいで匂いも消えたような気がする。乃亜は顔の汗を手の甲で拭い、風呂場に向かった。シャワーを浴びればきっとスッキリするだろう。
磨りガラスのドアを開けて風呂場に入ると、乃亜のアパートより倍は広そうな浴槽があった。お湯を張って入ったら気持ちいいだろうなと思いつつも、さっきの出来事の後で、とてもそんなリラックスした気分になれない。
風呂をキャンセルしようかと考えたが、友達に臭いと言われたばかりで、風呂に入らず翌日登校するのはさすがにどうかと思う。悩んだ結果、折衷案として今日もシャワーで済ませることにした。
41度の熱いシャワーを頭から浴びる。シャンプーを多めに手に取り、勢いよく頭を洗った。しかし、目をつぶっていると嫌な想像が浮かんだ。
よく考えてみると、風呂場で頭を洗っている時ほど無防備な状況もなかなか無いのではないか。何も見えないし、裸だから防御力はゼロだ。隠れる場所もない。こんなところで幽霊が出たら嫌だな、と考えていると、本当に脱衣所からごそごそという音が聞こえてきた。
「ウソ!? やめて!」
慌てて髪についた泡を洗い流す。しかし、その時髪を洗う手の指に違和感を感じた。やたらと髪の毛が絡みつく。抜け毛が増えた? まだ16歳なのに?
泡を洗い流して目を開けると、手のひらには大量の髪の毛が絡みついていた。明らかに乃亜の髪より長い。ひっ、と短い悲鳴をあげてシャワーヘッドを見ると、シャワーの穴から、髪の毛が大量に湧き出していた。
細長い虫がうねるように次々と溢れて来る。
急いで手を振り払うと、ドン! と背後のドアから聞こえた。振り向いた瞬間、風呂場の明かりが消えた。
暗い浴室にシャワーの音が響く。何者かがドアを叩いている。乃亜は、パニックになりそうな自分を必死に落ち着けた。
浴室のドアは一つしかない。しかし、今はまだ音しか聞こえない。ドアを開けて一気に走り抜ければ、もしかしたら……。そう考えて、壁に手を当てて一歩ドアに近づく。
不意に明かりがついた。
目の前のドアのすぐ向こう側に、首が折れた男の顔が見えた。
大きく大きく見開いた目と、赤黒い口が磨りガラス越しにぼやけて映る。ボサボサの髪の毛が広がって揺れ動いていた。男は、両手でドアを叩いていた。何度も、何度も……。
気がつくと、浴室の壁に背中をつけて座り込んでいた。短い間だが、気を失っていたらしい。
流れるシャワーを浴び続けていたのか、右半身が熱い。
ドアの向こうの人影は消えていた。乃亜はよろめきながらシャワーを止め、浴室を出るとリビングへ戻った。
リビングで急いで着替えて、スマホでLINEを開く。怜司の名前を探して、通話ボタンを押した。呼び出し音が鳴る。
早く出ろ、と祈るような気持ちで待ったが、怜司は出なかった。あいつ、すぐに出ると言ってたくせに。仕方なく、男の幽霊が出た事と、すぐ返信するようメッセージを送った。
返事は、1時間経っても返ってこなかった。時間は既に午前0時を回っている。駄目だ、あいつは当てにならない。仕事も胡散臭いし、信用してはいけない類の人間なのだろう。
そして確信する。怜司ははっきり言わなかったが、ここは間違いなく幽霊が出るマンションだ。またさっきの幽霊が出たらどうする? 逃げるのが一番だが……今逃げる訳には行かない。
今投げ出したら、この2日間の苦労は水の泡だ。それに、今から他のバイトを探しても、来月までお金が持たない。もうすでに貯金全部引き出しちゃったし。
それに20万円あったら何ができる? 焼き肉を食べて、回転しない寿司を食べて、おしゃれな服を買いまくって、ディズニーランドにも行ける。USJだって楽勝だ。家賃や食費は別にして。
いや、あの男は『何かあったら』プラス20万円出すと言っていたではないか。これは明らかに『何かあった』事案だ。何があってもバイト代を払ってもらう!
冷静に考えると、あの幽霊は驚かせるような登場はするものの、現時点で気絶する程度の被害しかない。幽霊が出る可能性は、怜司にこの話を誘われた時点で予想がついていたではないか。臭いぐらいは我慢すれば何とかなるし、床が多少汚れたところで何度でも掃除してやるさ!乃亜は、自分の頬を手のひらで叩いた。
「よし、寝るぞ!」
乃亜はファイティングポーズを取って、寝室へ向かった。気持ちが昂っていたが、ベッドに入るとやがて眠気が襲ってきた。




