33航海序幕(こうかいじょまく)
翌朝。
俺たちは大型客船〈蒼鯨の翼〉号に乗り込むべく、
朝靄の残る船着き場へ向かった。
潮風が強く、帆布のはためく低い音が、静まり返った港に響いている。
遠くでは船員たちが掛け声を上げ、出航準備を急いでいた。
「わぁ……大きい……!」
アヤメが甲板を見上げ、目を輝かせる。
俺たちが乗る船は、三本マストの巨船。
船首には蒼い鯨の彫像が刻まれ、海風を切り裂くように前方を睨んでいた。
そんな巨大な船を前にして――
思いがけない人物が、腕を組んで待ち構えていた。
「……レグナス殿?」
そこに立っていたのは、聖堂騎士団団長レグナス・バルシオン。
昨日と同じ、よく日に焼けた巨体。
その腕組みだけで、周囲の空気が一段重くなるようだ。
「アレクス殿」
レグナスは大股で近づき、真剣な面持ちで言った。
「〈グラン=メナス〉まで、私も同行させてもらえないだろうか?
今一度、フィーナの消息を確かめたい。
しばらくの間、不在になる旨、神殿には許可を取った。」
勢いのあまり、最後は一歩前へ出るほどだった。
横でオルフィナがひそひそと耳打ちしてくる。
「……健気だな、あの団長。完全に惚れているじゃないか」
俺も苦笑を飲み込みつつ、レグナスに向き直る。
「事情は理解しました。同行は構いません。歓迎しましょう」
「恩に着る!」
レグナスの顔がぱっと明るくなった。
まるで騎士団長ではなく、恋に落ちた青年のようだ。
しかし次の瞬間、彼は胸を張って堂々と言い放った。
「君たちは護衛として乗るのだろう。
もしよければ、私も力を貸したい。
聖堂騎士団の団長として、多少なりとも役に立てるはずだ。」
――この男、少し勘違いしている。
俺は咳払いしながら事実を告げた。
「レグナス殿。俺たちは護衛ではなく……
船内スタッフとして、乗船するのだが」
「……船内スタッフ??」
レグナスの表情が固まる。
誇り高き団長が、口をぱくぱくさせている。
こうして――
船の雑務スタッフが一人増えた。
蒼鯨の翼号は、間もなく出航する。
◇
「あなたには、船内食堂《碧潮の灯》で働いてもらいます」
そう告げたのは、食堂の女チーフ──マリナだった。
20代中頃に見えるが、背が高く、どこか凛とした空気をまとっている。
紺のスーツ姿がよく似合い、食堂全体を一人で仕切れるだけの風格があった。
《碧潮の灯》は、船内とは思えないほど広く、百人は入れそうな大食堂だ。
ランチやディナーの時間になると、船客と船員が一気になだれ込み、
食堂が大混雑するらしい。
レグナス、オルフィナ、アヤメの三人は給仕係、
俺とエリオットは厨房担当となった。
◇ ◇ ◇
早速、制服に着替える。
給仕係の制服は白いシャツに紺のエプロンという、簡素だが清潔なものだ。
下は黒のスラックス、女性はスカートが支給されていた。
レグナスの制服姿は、予想外に様になっていた。
背筋の伸びた姿勢と穏やかな所作が、給仕服に不思議と映えている。
さすがは団長というべきか、人前に立つことに慣れた男は違う。
アヤメはというと、制服が妙に似合っていた。
白いシャツに袖を通すだけで場がぱっと明るくなるし、
紺色のエプロンを結ぶ初々しい仕草も絵になる。
後ろでひとつにまとめた髪も、給仕として自然すぎて、
「ずっとこの船で働いてました」と言われたら信じてしまいそうだ。
一方のオルフィナは、同じ制服とは思えないほど別の風格を纏っていた。
白いシャツを着ただけで、高級店の給仕長かと思うほどの品が漂う。
無駄のない動き、伸びた背筋、エプロンの結び目一つで絵になる。
「アレクス様。ちょっとだけ、かっこよく見えませんか?」
「ふむ……悪くないな。こういう服も、案外しっくりくるものだ」
二人とも、思った以上に制服を楽しんでいるようだった。
そして俺とエリオットは、厨房班ということで白いコック服を渡された。
着てみると、普段の装備とは勝手が違い、
妙に清潔すぎて落ち着かない。
胸元のボタンに紺のエプロン、そしてコック帽。
(どう見ても“料理人”だな……)
隣を見ると、エリオットは意外なほど似合っていた。
「これはこれで悪くないな」
と、本人も満更でもない様子だ。
(……まあいい。これも修行のうち、だな)
◇ ◇ ◇
そして、ランチタイムが始まった。
ひとことで言うと、戦場だ。
あっという間に席は満席になり、順番待ちの長い列ができる。
総勢十数名のスタッフが全力で動き回り、食堂はてんてこまいだ。
次々と入るオーダー。
厨房では、料理長の号令のもと、ベテランのコックたちが
まるで鍛え抜かれた冒険者のような手際で鍋を振るい、
次々と料理が仕上がっていく。
俺は簡単な調理補助を任された。
日頃アヤメと一緒にイノシシを解体しているおかげで、
包丁そのものにはすぐ馴染んだ。
だが、山と厨房はまったく別物だ。
切る、盛る、運ぶ――そのすべてが、息つく間もなく押し寄せてくる。
料理長の「三番卓、魚のソテー追加!」「肉はあと二皿だ、急げ!」という声が
矢のように飛んでくるたび、頭の中で作業の順番を組み替え、
次の瞬間にはもう手が動いていなければならない。
フライパンの音、鍋の沸騰、漂う香り、背中をかすめるスタッフの足音――
すべてが混じり合い、まるで戦闘中の索敵のような集中力が必要だった。
(くそ……調理場って、こんなに忙しいのか!?)
額に汗が滲み、腕がじんと熱くなる。
それでも料理は待ってくれない。
俺は頭と体をフル回転させ、ひたすら次の作業へと飛び込んでいった。
一方、エリオットは皿洗いを担当していた。
次々と積まれていく皿の山を前に、普通なら心が折れそうだが──
「《浄化》」
「《浄化》」
「《浄化》」
油汚れが一瞬で消え、皿がみるみるうちに輝きを取り戻す。
(……速い)
周囲のスタッフが呆然とするほどの処理能力。
もしかすると、これはやつの天職なのかもしれない。
エリオットは袖をまくり、妙に楽しそうに皿を浄化していた。
……正直、あいつの背中をここまで頼もしいと思ったのは初めだ。




