15牙は牙に沈む
森の奥底から、白い靄が溢れはじめた。
いつもの兆候だ。狩りの時刻が来た。
私は、小高い丘の上へゆっくりと歩み出る。
眼下には、人間どもが築いた石の塊――《霧牙の砦》。
去年も一昨年も、我らの進撃を押し留め続けた忌々しい壁だ。
周囲には、私に忠誠を誓う獣たちが並び立つ。
百、二百……もっとか。
そのどれもが、牙を研ぎ、喉を鳴らし、私の号令を待っている。
(また――砦ごと踏み潰すことは叶わぬのか?)
私は苦く思う。
人の肉の味は忘れられない。あれは他と違う。
あの砦ができてから、二度と味わえていない。
だが、嗅ぎ取っていた。
砦の守りは、年々弱まっている気配がある。
今年こそ――突破できる。
私は喉奥から低く吠える。
「行くぞ。あの砦の向こうへ――狩りを再開するのだ」
群れが一斉に雄叫びを上げ、地を蹴った。
森が流れ出るように、影が走る。壮観ですらあった。
◇
だが――人間どもは油断ならぬ。
例年、砦は近づけば矢を降らせてくる。
だから私は特に言いつけておいた。
(砦には近づきすぎるな。射程に入るな)
言いつけを破る愚か者が毎年混じっていたが、
今年は繰り返し念を押した。だから犠牲は減るはずだった。
……と思っていた。
刹那。
――前方の平地に、人影。
弓を構える者たち。
中央には杖を掲げた女――魔術師か。
(なぜ、そこにいる?)
次の瞬間、炎が弾けた。
バーン!
先頭を駆けていた手下が燃え上がり、地面を転げた。
続いて四方から矢が雨のように降り注ぐ。
(砦よりも手前……! 待ち伏せか!)
一瞬だけ、群れの足並みが乱れた。
◇
だが、この程度で我らの進撃が止まるものか。
「進め! 蹴散らせ!」
私は吠え、手下たちは再び速度を上げる。
弓兵の距離が縮まり、今にも爪が届く――
その瞬間だった。
盾と剣を持つ戦士が、弓兵たちの前に飛び出した。
守るつもりか。愚かだ――そう思った次の瞬間、
見えない“壁”が発生した。
ドンッ!
手下が跳ね返される。
中心に立つ杖を持つ人間――僧侶か。何か呪文を唱えている。
(壁を張る僧侶……厄介な)
だが、人間の戦士たちは不意に身を翻し、左右へ散った。
敗走かと思いきや――
すぐ先に、また布陣が完成していた。
魔法使い。
弓兵。
そして例の僧侶。
再び火球。
再び矢の雨。
(引いては撃ち、下がっては撃つ……)
これを繰り返すつもりか。
実に鬱陶しいが――確実に我らの勢いが削がれていく。
◇
その時だ。
ドドドドド――ッ!
横方向から地響き。
歓声と怒号が混じる。
見ると――
馬に乗った兵士たちが横合いからなだれ込み、
轟音とともに手下たちの列を蹂躙していく。
先頭には、ひとりの戦士。
強い気配をまとっている。あれが大将か。
(まずい……! このままでは崩される)
私はついに決断した。
(加勢する……!)
丘から飛び降り、前線へ走った。
◇
その瞬間。
ヒュッ。
矢が飛んできた。
私は容易く避ける。
(どこから射った?)
振り向く。
そこには――いつの間にか間合いを詰めた人間の女。
短剣を逆手に構え、
迷いのない足取りで踏み込んでくる。
(速い……!)
紙一重でかわす。
女は止まらない。
次々と短剣の刃が襲う。
が、私の速度には届かない。
反撃を叩き込むと、女は地面を転がった。
受け身を取ったが、すぐには立てまい。
(所詮は人間……勝負あったな)
私は跳びかかる。
刹那。
――殺気。
刺すような鋭さ。
空気が凍り、私の四肢が反射で硬直する。
女の背後。
そこには、弓を構えたもう一人の人間の女が立っていた。
静かに。
揺るぎなく。
まるで森そのもののように。
(いつのまに……!?)
目が合った。
その瞳は――
“狩る側”のものだった。
(……怖い)
生まれて初めて、そう感じた。
獣としての本能が叫ぶ。
逃げろ――と。
同時に、
矢は、私の額へ吸い込まれるように突き刺さった。
世界が、白い靄に沈んでいく――。




