第22話 不覚にも萌えてしまいましたな
逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ。
そんなことばかりが頭を廻る。だが、体はまるで言うことを聞いてはくれなかった。
一度それを認識してしまえば、意識を逸らすことができず、ただ恐怖にさらされ続ける。
それは袋小路だった。
全ての運命の行き着く先であり、そこから先には何もない。全ての終わりがそこで人の形を取っていた。
それは終焉であるからこそ、最後まで立っている者だ。何者もそれより先に行くことなどできはしない。
そんな者を相手に、運命だの、筋書きだの戯れ言にもならない。それは戦おうと考えることすら馬鹿らしい存在だ。
それが殺したいと考えただけで、相手が死ぬという。
最初に聞いた時は、何を馬鹿なことをと考えた。それはあまりの実力差から、そう見えただけのことだろうと思ったのだ。
その能力には何か絡繰りがあるのだろうと。解析し分析すれば、対策を立てることができ、アオイの能力を駆使すればどうにでもなるだろうと考えた。
甘かった。何もかもが甘かった。
見ればわかる。
それが望んだなら、何者だろうと死ぬだろう。それが否定するならば、どんな物も現象も存在することを許されないだろう。対策などありはしない。それはそういう存在なのだ。
そして、ふと思い至る。
女神の攻撃が、まったく夜霧の方へは向いていなかったことを。
女神は正気を失ってはいたが、本能的に恐れていたのだ。それを攻撃すれば、無事ではいられないとわかっていた。
――シオン……お前は、いったい何を呼び寄せた!
そんな存在はありえなかった。
それは名状しがたい、災厄や呪いといった現象だ。それが人格を持ち、人間のふりをしているなどあってはならなかった。
そして、こんな者がどこかにいるのだとしても、シオンごときに呼び出せるはずがなかったのだ。
最悪だった。
シオンは、賢者どもは無邪気すぎたのだ。
なぜ、常に自分たちよりも弱いものしか、御しきれる存在しか召喚されないと思い込んでいるのか。なせ、これまでそうだったからといって、これから先もそうだと言い切れるのか。
アオイは吐瀉物まみれの床を見ていた。
そこから顔を上げることすらもうできる気がしなかった。
だが、このままでは夜霧が何かせずとも、自分は正気ではいられなくなるだろう。
それだけならまだいい。アオイが真に恐れているのは、正気を失った自分が何をしでかすかわからないということだ。万が一にも夜霧に襲いかかるようなことがあれば、その時アオイには真の死が訪れるだろう。魂の存在に確信を持っていることが、この時ばかりは恨めしかった。
どうにかする必要がある。まずは冷静になることだ。恐怖に竦んでいては逃げ出そうにも逃げられないし、自殺することもできはしない。
「ぐふふっ! 拙者、ボクっ娘などには興味がなかったのですが、その、ゲロ吐いて、おしっこ漏らして、普段の冷静さをかなぐり捨てているような姿を見てしまうと、その、不覚にも萌えてしまいましたな!」
冷静になろうと必死になっていると、花川の声が聞こえてきた。
先ほどから何かを言っていると思えば、凄まじいまでにくだらないことで、アオイはその馬鹿馬鹿しさに少しばかり落ち着きを取り戻した。
そして、落ち着いてくれば、何も絶望することはないのだと悟る。
まだ、自分は夜霧と敵対はしていないのだ。
夜霧からすれば、アオイはいきなりしゃがみ込こんで嘔吐したわけのわからない女に過ぎないのだから。
まだなんとかなるのかもしれない。
アオイはわずかな希望にすがり、ゆっくりと顔を上げた。
*****
「え? 花川くん?」
「本当だ」
知千佳たちが気付くと、花川は即座に土下座をした。
「拙者、来たくて来たのではないのでござるぅ! このアオイ殿に無理矢理つれてこられて、ってアオイ殿!?」
なぜこんな所にいるのかを問いただそうとした知千佳だったが、一緒にいた少女がいきなり跪くようにしゃがみ込み、両手をついて吐きだしたので、それどころではなくなってしまった。
「え、何? 大丈夫?」
見たところ人間のようだし、こんな所で吐いているぐらいだから魔神の眷属ということはないだろう。
「拙者は大丈夫でござるが?」
「ごめん、花川くんのことは欠片も心配してない」
「そういや、絶対に逆らえなくなる奴隷の首輪を付けて森に行ったと思うんだけど」
花川は首輪を付けていなかった。
それは身に着けて最初に見た者に服従するという首輪のことで、花川は自らそれを付けて知千佳に見られたのだ。
気持ち悪いと思った知千佳は主人の権利を夜霧に移譲し、夜霧は花川に魔獣の森で待機しろと命令した。
その命令が守られているなら、花川がこんな所にやってくるはずがなかった。
「あ、それはその……」
「やっぱり嘘だったのか」
「嘘ではないのでござる! 確かにあの瞬間はそうだったのでござるよぉ! ただ、その効果がいつまでも続くとは言ってないのでござる。そのことをどうか思い出していただきたい!」
「ま、そんなことだろうと思ってたけどね」
確かに夜霧は、花川の話を聞いた時に効果の永続性に疑問を持っていた。
「で、何がどうなってるの? その人は?」
「その、拙者はこの方につれてこられただけでござる! アオイ殿というのですが、理由などはアオイ殿に聞いていただいた方が……」
花川は土下座状態のまま、ちらりと隣で苦しそうにしている少女を見た。
「ぐふふっ! 拙者、ボクっ娘などには興味がなかったのですが、その、ゲロ吐いて、おしっこ漏らして、普段の冷静さをかなぐり捨てているような姿を見てしまうと、その、不覚にも萌えてしまいましたな! なんかもう、別に拙者がえらくなったわけでもなんでもないのに、上から目線で見られるこの気持ちはなんでござろう! これからはアオイたんと呼ばせてもらってもいいのではなかろうか!」
「うわ……キモ……」
知千佳は思わず一歩下がった。
「花川はどうでもいいけど、そっちの人はずいぶん調子悪そうだね」
夜霧が少女を気遣い、近づいていく。知千佳も一緒についていこうとしたが、そこで少女が顔を上げた。
「だ、大丈夫です!」
少女は片手を前に伸ばし、夜霧を静止した。
「そう? 背中をなでるぐらいならできるけど」
「汚れますから! そんなことをさせるわけにはいきませんから! こんなゲロまみれの女に近づくなんてもってのほかです!」
「初っぱなからずいぶんと卑屈だね……」
「大丈夫なんです。ちょっと内臓がねじきれそうになってて、ストレスで脳が焼き切れそうですけどおおむね快適です! ご心配をおかけするほどではございません!」
「全然大丈夫そうじゃないよ!?」
「本当に大丈夫なんです! だから近づかないでください、ごめんなさい。なんだったら、ゲロ食べてもいいですから!」
「あ、いや、そこまで言われたらさすがに近づかないけどさ」
知千佳はあまりに必死な様子にちょっと引いたが、本人の意思を尊重することにした。
少女の顔色はあまりにも悪く、見ているだけで不安になってくるほどだが、よほど近づかれるのが嫌なのだろう。
「大丈夫。大丈夫なんです。ちょっと休んでたら大丈夫なんです」
「わ、わかったからさ。落ち着いて。ね?」
「はい、落ち着いています。ここに来たのはですね、このブタくんをお届けにあがったのです。ご学友とのことですので!」
「ん? アオイたん、それは初耳なのですが?」
「ふふっ。ぶち殺すよ、ブタ野郎。君は、クラスメイトと別れて一人で森をさまよっているところをボクに拾われて、仲間と合流したいとボクにすがりついたんだ。そうだっただろう?」
「あ、はい。そうだった気がするでござる。そこはかとなく」
少女が鬼気迫る表情を見せ、花川は瞬時に折れた。そういうことになったらしい。
「そういうことですので、これはお引き渡しいたしますね」
「え、いらないんだけど」
夜霧があっさりと断った。
「あ、わかりました。ではこちらで処分させていただきますね!」
「古本屋で値段がつかなかった本のような扱いはやめていただけないでござるか!」
「で、では私はこれで!」
少女が這いずるようにして離れていく。
心配ではあるが、本人が頑なに介抱を拒否するのであれば仕方がない。
離れていくにつれ調子がよくなったのか、立ち上がって歩きだし、最終的には森の方へと駆けていった。
「あ、その、拙者はどうすれば……」
花川が途方に暮れた様子で言う。
「じゃあ、また森で待機」
夜霧は淡々と言い放つ。
「またでござるか! もう勘弁してほしいのですが!」
花川が嘆いていると、リックたちがこちらにやってきた。
*****
リック、聖王、ライニール、フレデリカ。
夜霧たち以外で生き残っているのはそれだけのようだった。
聖王の騎士になったばかりの者たちは女神による攻撃で死に絶えたのだろう。
「いろいろと聞きたいことはあるのですが、まずはそちらの方です」
リックが強ばった表情でテオディジアを見つめていた。
リックからすれば、いきなり剣聖を害した女だ。警戒はして当たり前だろう。
「仇を討ったまでで、それは剣聖と私の事情だ。あなた方には関係がないと思うが」
「そうは言われましても、今は私が剣聖です。無関係とも言いがたい」
「今、剣聖になったのなら、無関係だな。それとも、前代の剣聖の悪行を引き継ぐつもりなのか?」
二人が剣呑な雰囲気になる。このままではまずいと夜霧は間に入った。
「リックさんは地下を見てきた方がいい。それでも前代の仇を討つってのなら、心情的に俺はテオディジアさんの味方だから、俺が相手になるよ」
リックが剣聖になったというなら、テオディジアでは勝てないだろう。だが、殺されるのを見過ごす気にもなれなかった。
「高遠さん。言っては悪いが、今の私は剣聖です。聖王の騎士になったとはいえ、もともとたいした力のないあなたでは――」
「失礼な真似はよせ」
すると聖王がリックを止めた。
「しかし、剣聖を討った者を放置するわけにもまいりません」
「剣聖になったからと思い上がるな。お前ではこの方には勝てぬ。何しろ、魔神を屠るほどの方だ」
「な!?」
リックが驚きに固まる。
「眷属が死に絶えているのもそうだ。全てこの方がやったのだ」
聖王は確信を持っているようなので、ごまかすことはできないのだろう。夜霧は渋々ながら認めることにした。
「それは、本当に悪かったと思ってるんだよ。殺す気はなかったんだ」
夜霧は反省していた。
千年にわたる因縁は余人が関わることではないはずで、それらはこの世界に住む人たちが、自分たちの手で収拾をつけるはずのことだったのだ。
「いや、感謝している。結局、封印しつづけるにも限界はあったのだ。そのひずみがそちらの御仁の仇討ちに繋がったのだろう」
リックはあらためて周囲を見回した。
全ての元凶であり、過去に世界を滅亡寸前にまで追いやった魔神。
その魔神をあがめ奉る、歪な姿をした眷属たち。
それら全てが倒れ伏している現状を認識したのだろう。その表情はさらに硬いものとなった。
「高遠さん、あなたはいったい何者なんですか?」
「賢者に召喚されてやってきた、ただの高校生だよ」
「そこまで無意味なただの高校生ってセリフ、初めて聞いたよ!」
思うところがあるのか知千佳が文句を言ってくる。だが夜霧は、自分のことを少々変わった力を持つ高校生だと思いたかった。
「わかりました。前代の剣聖の件については一旦保留といたしましょう。では、次に考えなければいけないのはこの後どうするかなのですが」
「俺たちは王都に向かう途中だったから、王都に向かうよ」
「ああ、それでしたら私も同じですね。ここでできることはもうないでしょうし、王都へ帰ることにしましょう。ライニールさんや、フレデリカさんも同じはずですね」
リックは王都の出身らしいし、ライニールとフレデリカもそのようだった。
「私も情報を集めるために王都へ向かうのがいいと思っていた」
テオディジアは妹捜しを続行するのだろう。その件について知千佳は気になることがあった。
「テオディジアさん、妹さんのお名前をもう一度聞かせてもらっていいですか?」
「エウフェミアですが、心当たりでもあるのでしょうか」
「どこかで聞いたような気がするんだよね……高遠くんは何か覚えてない?」
「確かに聞いたような気はするんだけど……覚えようと思ったこと以外は忘れちゃうからな」
「いや。それだけでも助かる。高遠殿は王都から来られたのではないのだから、これまでに立ち寄った街のどこかで聞いたことになるはずだ」
知千佳は、平原からここまでの道筋をテオディジアに説明した。
テオディジアはまず、ハナブサに向かうことにしたようだ。
「私も王都へ行こう。千年が経っているとのことだ。係累は途絶えているかもしれないが、まずは神殿に向かうべきだろう」
聖王が言う。
大半は王都へ向かうようだった。
「じゃあ、道を教えてよ。だいたいわかってるけど詳しい地図なんかがあると助かる」
「地図ですか? 少し離れた所で私の連れてきた一団がキャンプを張っていますので、戻ればあるとは思いますが、それよりは我々と同行すればいいのでは?」
「そ、そうでござるよ! 普通、ここは仲間大量にゲットだぜ! ってことで、和気藹々(あいあい)と王都に向かって出発だ! というシーンでござろうが!」
いつの間にか仲間面で話し合いに加わっている花川が叫んだ。
「やだよ。俺は壇ノ浦さんと二人旅をするんだから」
夜霧は臆面もなくそう言った。
「お、おう」
知千佳が言葉に詰まっていた。
*****
夜霧は本当に同行を断り、知千佳と二人で装甲車へと戻ってきた。
女神の光線があたりを壊しまくってはいたが、装甲車自体は無事なようだ。
「ねえ。多分、ついていった方が楽だと思うんだけど」
「人が多いのは苦手なんだ。めんどくさいし」
「ま、だったらいいけどさ」
知千佳としてもそれほど同行を願っていたわけでもない。二人がいいと言うなら、それでいいかと思っていた。
「そういや、ドラゴンの女の子は? アティラって言ったっけ。案内してもらうんじゃなかったの」
「道はわかったしもういいよ。それに剣聖が死んでるのに顔を合わせづらいだろ」
「まあ、そうかな」
それに案内をしてもらうということは、同行するということだ。それは夜霧の望む二人きりではないのだろう。
――つーか、なんなんだこの状況! そりゃ今までも二人で来たんだけどさ、はっきり言われると、その。
戸惑ってしまう知千佳だった。
そして、夜霧はいつものごとくさっさと助手席に座ってしまう。
知千佳も夜霧に運転させる気はないので、素直に運転席に座った。
「じゃあ、今度こそ王都に向けて出発! ってどっちに行けばいいの?」
『我がだいたい把握しておる』
「あ、もこもこさんいたんだ。最近見なかったからてっきり成仏したのかと」
『あのな……いや、確かにあの状況では我はたいして役に立ちはしなかったのだが』
「ま、頼りにしてるよ。案内お願いね。じゃあ今度こそ出発!」
「おー」
夜霧が力なく手を上げる。ゲームをしていないだけましだが、ずいぶんと眠そうだ。
知千佳がアクセルを踏むと、装甲車はゆっくりと動きはじめた。




