第二章・第四話 影の真実
文字の奔流に再び飲み込まれた小生は、灰色の光と影に囲まれた世界の中心に立っていた。
蜘蛛の糸は揺れ、地面にはひび割れた羅生門の影が伸びる。
空気は湿り、微かに硫黄の匂いが漂う。
そして、すべての影の奥に、ひとりの青年――Kが立っていた。
その瞳には、生の終わりを決意した者の絶望ではなく、切迫した助けを求める訴えが宿っていた。
小生は手記を抱きしめ、声を震わせながら呼ぶ。
「K……君は、何を望んでいるんだ?」
青年はわずかに首を振る。
「私は……真実を知られたくないのです。だが、語らねばならぬ。誰かが、私を赦す形で書き残してくれなければ」
背後から芥川の声が響く。
「救いは物語の中にある。現実は、君を許さぬ」
小生は理解する。
Kは、ただ現実の暴力や絶望から逃げたいのではない。
物語の力で、自分の存在を美しく、あるいは赦された形に留めたいのだ――。
影のKが手記に触れた瞬間、文字が光を帯びて波打った。
言葉が、想いが、過去と現在を繋ぎ、漱石や芥川の世界を揺らす。
小生は息を呑む。
――ここで、文学と現実が交わる瞬間を、私は目撃している。
「君もまた……物語の一部なのだ」
芥川の声が、壁にも床にも天井にも反響する。
小生は手記を握りしめ、文字の奔流の中で、初めて自分が観察者だけではないことに気づく。
自分もまた、この物語世界に足を踏み入れ、影と対峙せねばならぬ存在なのだ。
影のKは微笑むように見えた。
「あなた……誰ですか」
小生は言葉を探す。
「私は……ただ、この物語を見つめてきた者です。だが、私もまた――」
世界が一瞬白く光り、文字と影が絡み合う。
その瞬間、小生は確信した。
――私も、文豪たちの世界に触れ、彼らの物語の一部となる。
観察者であり、書き手であり、影の中に生きる者。
気がつくと、蔵の中だった。
手記は膝の上にあり、墨の匂いがまだ指先に残る。
胸の奥には、Kの影と芥川の鋭い眼差し、そして自分自身の存在の意味が、静かに、しかし確かに刻まれていた。
――第二章は、ここで終わる。
小生の旅は、まだ続く。
次なる作家の影が、すでに扉の向こうで待っているかのように。