第二章・第三話 影と物語の狭間
蔵の中、埃の匂いと墨の匂いが混ざり、胸の奥でざわつく。
小生は手記を抱き、静かに呼吸を整えながら、再びページをめくった。
その瞬間、視界が波打ち、眼前の世界は灰色の霧で満たされた。
蜘蛛の糸が天井から垂れ、微かに揺れる。光は細く、弱々しい。
地面には無数の影が蠢き、言葉を囁く――しかしその意味は、すぐには理解できない。
「君はまだ、見ぬものを恐れるのかね」
冷たく、短く、鋭利な声。振り向くと、細身の男が立っていた。
芥川龍之介――その存在は、文字そのもののように、鋭さと冷静さを帯びていた。
その眼差しは、こちらを切り裂く刃のようで、しかしどこか寂寥を湛えている。
小生は手記を胸に抱え、影のひとつを凝視した。
――K。
その姿は、先ほどまでの記憶と重なりつつ、より生々しい恐怖と切望をたたえている。
「誰も、私を……」
声はかすかに震え、途切れる。
周囲の文字が風のように舞い上がり、空気に溶け込む。
小生は息を呑み、足が震えた。
芥川は眉をひそめ、ゆっくりと歩み寄る。
「真実を知る者は少ない。だが、人は真実を求めずにはいられぬ。君も、その一人だろう」
小生は黙って頷く。
胸の奥にある、漱石の世界で感じた孤独や葛藤と同じ感覚――しかしここでは、文字が生き、影が言葉を紡ぐ。
Kの恐怖、孤独、そして誰にも見せられぬ痛みが、目の前で立ち上がる。
それはまるで、文章世界が生き物のように小生を取り囲んでいるかのようだった。
影のKがゆっくりと近づき、囁く。
「……助けてください」
その声は紙を裂くかのように小生の胸に刺さる。
芥川は淡々と、しかし確実な言葉で告げる。
「救いは物語の中にしかない。現実は、君を許さぬ」
小生の心は揺れる。
漱石の世界で感じた真実と虚構の狭間、Kの影が求める救い。
それらが一瞬にして交差し、頭の中で波となって押し寄せる。
文字の奔流は小生の身体を包み込み、息を止めるほどの圧迫感を与えた。
蜘蛛の糸が揺れ、羅生門の影が壁に落ち、地獄変の炎が微かに揺れる。
小生は手記を握りしめ、文字の奔流の中で自分がどう立つべきかを必死で探した。
目の前のKの影は、確実に現実ではない。
だが、そこにある感情――恐怖、孤独、救いの願い――は、確かに存在している。
小生は気づく。
――これは、ただの観察ではない。
小生もまた、物語の一部として、Kの影と絡まざるを得ない存在なのだ、と。
「君は、この物語の一部として存在する」
芥川の声が、まるで壁の向こうから響くように聞こえる。
その一言で、小生ははっとした。
文字は、物語は、人の心の影を映す鏡である――。
そして小生自身も、今まさにその鏡の中に映る影のひとつなのだ。
世界は再び揺れ、文字の奔流が小生を蔵へと引き戻す。
目を開けると、蔵の闇が静かに包んでいた。
だが胸の奥には、影の男の目と声、Kの切迫した叫びが、鋭く、そして儚く焼き付いていた。
小生は膝を抱え、手記を胸に抱いた。
まだ理解できないことは多い。
しかし、文字と影の世界が自分を離そうとはしていないことだけは、確かだった。
――この章の旅は、まだ終わっていない。
小生は次に何を選ぶか、自らに問い続ける。