第二章・第一話 影の予感
夜の帳が下りると、小生は蔵の扉を閉じ、膝の上に「未完の手記」を置いた。
指先に残るざらつきは、ただの古紙の感触であるはずなのに、皮膚に深く沁み入るようで落ち着かぬ。
――あの部屋で交わされた言葉。
「真実をそのままには書かないでください」
青年の声は、なお耳奥に残っていた。
小生は試みに、白紙の頁に筆を置いた。
だが墨はにじみ、文字を刻もうとするたびに黒いしみが広がって、形を結ばない。
まるで紙そのものが、何者かに拒絶されているかのように。
「記すな、というのか……?」
その刹那、蔵の中の灯りがゆらめき、影が壁を駆け抜けた。
形は人影に似て、だが異様に痩せ、鋭い輪郭をしていた。
そして、ひときわ高い笑い声が、風もないのに響いた。
――芥川、か。
名を確かめたわけではない。
だが、その声には、短い刃のような光があった。
人を切り裂くのに十分でありながら、どこか寂寞とした余韻を残す響き。
小生は咄嗟に「未完の手記」を胸に抱いた。
その瞬間、視界が歪み、再び文字の奔流に呑まれていく。
今度は、漱石の書斎ではなかった。
眼前に広がるのは、灰色の空の下、蜘蛛の糸のように細い光を落とす世界だった。
無数の影が蠢き、細い声で「救い」を求めていた。
そして、影の中央に、ひとりの男が立っていた。
冷ややかな目に宿る光は、まるで「観察者」そのもの。
彼は小生を見て、かすかに口元を歪めた。
「おや……また一人、迷い込んだのか。
それとも――君も、語り部のひとりかね?」
声が、刃物のように切り込んでくる。
小生の物語は、次なる文豪の影に触れようとしていた。