第一章・第四話 未完の手記
墨の匂いが、また鼻を衝いた。
小生の指先は震えながらも、頁を開く。
活字は次第に形を崩し、黒い川となって流れ込み――気づけば、小生は再びあの部屋にいた。
漱石は机に向かい、筆を置いたまま、遠くを見つめていた。
灯火が揺れ、その顔を明滅させる。
「人は皆、孤独を抱えて死ぬ。だが、孤独を語り得た者は少ない」
彼の声は深い井戸の底から響くように、胸の内を打った。
障子の外に、また影が立つ。
Kである。
だが先ほどとは違う。
今度の彼は、紙片を手にしていた。
それは血のように赤い印のついた封書で、小生の目には、危うい灯火のように映った。
Kは低い声で言った。
「先生……この手紙は、どうか、真実をそのままには書かないでください」
その瞬間、漱石の瞳が鋭く光った。
「文学は虚構でありながら、虚構の皮を被った真実でもある。――おまえの影は、私の言葉の中に生きる」
言葉と同時に、部屋全体が震え、畳の隙間から墨の文字が這い出した。
世界はひび割れ、書物の頁に吸い込まれるように崩壊してゆく。
小生は必死に声を張り上げた。
「K、その手紙を――!」
だが青年はただ、憂いを帯びた微笑を残し、影と共に消えた。
――暗転。
目を開けば、蔵の中。
闇の中に、確かに紙束が落ちていた。
それは古びた手記で、途中まで墨で埋められたのち、唐突に途切れていた。
最後の一行に、小生は息を呑む。
「人は誰も、他者の影に怯えながら、それを赦すために物語を紡ぐのだ――」
その先は、白紙だった。
続きを記すのは、もはや小生に委ねられているかのように。
小生は手記を胸に抱き、闇の中でただ震えていた。
物語と現実の境界は、すでに判別できぬほどに溶け合っていた。