表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影の文豪  作者: 雨天
5/16

第一章・第四話 未完の手記

墨の匂いが、また鼻を衝いた。

小生の指先は震えながらも、頁を開く。

活字は次第に形を崩し、黒い川となって流れ込み――気づけば、小生は再びあの部屋にいた。


漱石は机に向かい、筆を置いたまま、遠くを見つめていた。

灯火が揺れ、その顔を明滅させる。

「人は皆、孤独を抱えて死ぬ。だが、孤独を語り得た者は少ない」

彼の声は深い井戸の底から響くように、胸の内を打った。


障子の外に、また影が立つ。

Kである。

だが先ほどとは違う。

今度の彼は、紙片を手にしていた。

それは血のように赤い印のついた封書で、小生の目には、危うい灯火のように映った。


Kは低い声で言った。

「先生……この手紙は、どうか、真実をそのままには書かないでください」


その瞬間、漱石の瞳が鋭く光った。

「文学は虚構でありながら、虚構の皮を被った真実でもある。――おまえの影は、私の言葉の中に生きる」


言葉と同時に、部屋全体が震え、畳の隙間から墨の文字が這い出した。

世界はひび割れ、書物の頁に吸い込まれるように崩壊してゆく。


小生は必死に声を張り上げた。

「K、その手紙を――!」


だが青年はただ、憂いを帯びた微笑を残し、影と共に消えた。


――暗転。


目を開けば、蔵の中。

闇の中に、確かに紙束が落ちていた。

それは古びた手記で、途中まで墨で埋められたのち、唐突に途切れていた。


最後の一行に、小生は息を呑む。


「人は誰も、他者の影に怯えながら、それを赦すために物語を紡ぐのだ――」


その先は、白紙だった。

続きを記すのは、もはや小生に委ねられているかのように。


小生は手記を胸に抱き、闇の中でただ震えていた。

物語と現実の境界は、すでに判別できぬほどに溶け合っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ