第一章・第二話:文章世界の小さな体験
小生は再び『文豪転生録』を手に取った。
昨夜の錯覚――あの夢と現実の境界が曖昧になる体験が、どうにも胸に引っかかって離れない。
もしや幻覚だったのか。いや、確かに耳元で声を聞いた。肌に風を感じた。
蔵の中は相変わらず静まり返っている。
古びた木の梁には埃が降り積もり、午後の光が細い筋を描いて差し込んでいた。
風もなく、虫の声もなく、ただ自分の心音だけが微かに響いているように思える。
ページを開く。
そこに綴られたのは、日記のような断片的な文章だった。
「今日、誰も知らぬ場所で、私は孤独を友とする」
たったそれだけの言葉が、氷のように胸の奥に沈み込み、小さな波紋を広げていく。
瞬間、小生の視界が揺らぎ始めた。
文字の黒が光を帯び、まるで墨の粒が生き物のように動き出す。
目を瞬いたときには、蔵の光景はすでに溶け去り、そこに広がっていたのは縁側のある日本家屋だった。
木の板の冷たさが足裏に伝わる。
障子越しに、午後の柔らかな光が差し込み、外には静かに揺れる庭木の影。
机の前に、背を少し丸めて座る人物――その後ろ姿に、小生は息を呑んだ。
漱石だ。
声をかけようとした瞬間、風に紛れて彼の声が聞こえた。
「孤独とは、己を映す鏡でもある」
振り向く前に、その言葉だけが確かに響いた。
小生はその世界に引き込まれていく。
歩くたびに、文字の行間から場面が立ち上がる。
原稿用紙に滲む墨の匂い、煎茶の淡い香り、外から響く鳥の声。
すべてが現実のように鮮やかで、呼吸の一つ一つさえ重なってしまう。
だが、ふと気づく。
――自分が「登場人物」として存在している。
誰かの物語の一部になってしまったのではないか。
その考えが頭をよぎった瞬間、文字がふいに途切れ、世界がほどける。
視界が反転し、小生は再び蔵の中に戻っていた。
埃の匂い。沈黙の重み。
だが胸の奥には、漱石の言葉の余韻が焼きついている。
「孤独とは、己を映す鏡でもある」
小生は本を閉じ、深く息を吐いた。
これはもうただの読書ではない。
何か大きなものへと導かれている――
その予感が、静かに心を震わせていた。