第四章・第三話
目を覚ましたとき、小生は冷たい畳の上に倒れていた。
蔵の天井が滲むように視界に広がり、喉がひりつくほどに乾いている。
――夢だったのか。
そう思いかけた。
だが、胸の奥に残る冷たさが、すぐにその考えを打ち消した。
あの黒い影の手が触れた感覚は、皮膚ではなく心臓そのものを締め付けていたのだ。
ふと周囲を見渡すと、開いたままの『文豪転生録』の頁が視界に入った。
そこには、見覚えのない詩の断片が綴られていた。
――「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」
宮沢賢治の代表的な言葉。
だが、それは教科書で読んだ文とは違い、墨のにじみのようにところどころ欠け、途中で唐突に途切れていた。
「……ここにも、影が」
小生の声は震えていた。
頁の余白には、黒い指先の痕のような染みが残っている。
それは墨でも水でもなく、もっと禍々しい何か――現実にまで侵食してきた影の証だった。
震える手で本を閉じる。
だが、心臓の鼓動は収まらない。
賢治は言った。
――「あなたは選ばれた。記録する者として」
記録? 小生に?
なぜ小生なのだ。
無名で、何の力も持たない小生が。
その答えを探そうと考えたとき、背筋をぞくりと悪寒が走った。
蔵の奥、闇の中に、何かがじっとこちらを見つめている気配があった。
灯りをかざしても、そこには古い棚と埃っぽい布しかない。
けれど、確かに感じる。
あの夢の中で出会った「影」と同じ、冷たい視線が。
小生は思わず声を荒げた。
「……小生を、狙っているのか」
返事はない。
ただ、沈黙の中で障子紙がふっと揺れた。
風は吹いていない。
胸の奥で、何かが目を覚ますような感覚がした。
恐怖か、使命感か、それとも別の何かかは分からない。
だが、確かに小生は感じたのだ。
――このままでは終わらせてはいけない。
賢治の言葉を思い出す。
「あなたは物語そのものを変えてしまう可能性を秘めている」
小生は震える指で、再び『文豪転生録』を開いた。
今度は、ページの奥に隠された何かを暴き出すように。
そして、気づいてしまった。
次の頁に、見慣れぬ名前が記されている。
――太宰治。
黒い染みが、その名を縁取るように広がっていた。
ぞっとする気配と同時に、胸の奥で熱がこみ上げる。
これが次に小生を待つ出会いなのだろうか。
恐怖と期待の入り混じる中で、小生は強く唇を噛みしめた。
「……逃げるわけには、いかない」
闇の中で、誰もいないはずの蔵に声が反響した。
その瞬間、影がわずかに揺れ、まるで笑ったかのように見えた