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影の文豪  作者: 雨天
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第四章・第二話

 光は、まるで押し寄せる波のように小生を飲み込んだ。

 視界は白一色に溶け、耳には風とも水ともつかぬ音が響きつづける。

 やがて、世界は少しずつ輪郭を取り戻していった。


 そこは、見たこともない田畑だった。

 麦が黄金に輝き、遠くには青紫の山々が連なり、空にはどこまでも澄みきった雲が流れている。

 だが、その美しさの裏には、どこか張りつめた緊張があった。

 風に運ばれてくる土と草の匂いは懐かしいのに、胸の奥でざらりとした違和感をかき立てる。


「……ここは」


 言葉が自然に漏れた。

 だが答えはなく、代わりに背後から柔らかな声が響いた。


「見えますか、あなたにも」


 振り返った瞬間、小生の胸は高鳴った。

 そこに立っていたのは、ひとりの青年。

 背は高くなく、質素な外套に身を包み、顔立ちはどこか優しげで、それでいて眼差しには鋭い光が宿っていた。

 ――宮沢賢治。


 小生は息を呑む。

 文学の教科書で、詩や童話で知っていた名だ。だが目の前の人物は血肉を持ち、まるでその魂が現実に現れたかのようだった。


「ここは、私が夢に見る世界。いや、夢そのものなのかもしれません」

 賢治は微笑みながら、麦畑に視線を注いだ。

「けれど、夢の中でさえ影が忍び寄るのです。あなたにも見えるのなら、もう言わねばなりませんね」


 その声音には、静かな決意と不安が入り混じっていた。


「影……?」


 小生の問いに、賢治は頷いた。

「ええ。影の文豪たち。彼らは我々の“もうひとつの人生”に干渉し、物語をねじ曲げようとしている。あなたはすでに漱石先生や芥川さんと接触したはずです。違いますか?」


 心臓が跳ね上がる。

 ――見抜かれている。

 小生が体験したこと、文字の中に引きずり込まれた錯覚、漱石の声、芥川の影。

 すべて、賢治は知っているのだ。


「でも……なぜ小生が」


「あなたは選ばれたのです。記録する者として」

 賢治は空を仰ぎ、どこか遠くを見ているように言った。

「けれど、ただ記録するのではない。あなたは物語そのものを変えてしまう可能性を秘めている」


 その言葉は胸に深く突き刺さった。

 小生が――物語を変える?


「誤解しないでください」

 賢治は穏やかに微笑む。

「私は“変えること”を望んでいるのではありません。けれど、もしも影が強くなりすぎたとき、あなたしかその均衡を保てないのです」


 その瞬間、麦畑を渡る風が一変した。

 温かな風が冷気を帯び、どこからともなく黒い靄が流れ込んでくる。

 麦の穂がざわめき、空を裂くような低い音が大地を震わせた。


 視界の端に、黒い人影が立っていた。

 輪郭が定まらず、しかし確かにこちらを見ている。

 その存在は――影の文豪。


 小生の背筋を冷たいものが這った。

 言葉を発することもできずに立ち尽くすと、賢治が一歩前に出た。


「来ましたか。やはり、あなたを狙って」


 賢治の声は落ち着いていたが、両の瞳は鋭い光を放っていた。

「恐れることはありません。ここは私の夢の中。私の詩が守ってくれるはずです」


 彼が胸の内で何かを唱えた瞬間、空に星のような光が瞬きはじめた。

 それは言葉の結晶のようにきらめき、闇を押し返していく。


 小生はその光景に圧倒された。

 まるで宮沢賢治の詩そのものが、彼を護る武器になっているかのようだった。


 だが、影は退くことなく、むしろ一層濃くなって迫ってきた。

 そして次の瞬間――その黒い手が、小生の胸に触れようと伸びてきた。


 冷気が心臓を締め上げる。

 小生は声にならぬ叫びを上げた。


 賢治が振り返る。

「まだ早すぎます! あなたが呑まれてはならない!」


 その声が轟いた瞬間、世界がふたたび光に飲み込まれた。

 小生の意識は、急速に遠のいていった――。

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