黒光りの韋駄天
一瞬、心臓が冷えた。
分かっている、これは古代より植え付けられた人類の、ヤツへの恐怖だ。
幾度となく経験した黒光りの韋駄天は、私の部屋のどこかに潜んでいるだろう。
「しまった、叫ばなければ……見失わなかったかも」
今年から導入した対虫用ウェポン――蚊取り線香。これはヤツにもある程度効き、侵入を防ぐという。だが、私はこの日、焚かなかった。
「そんな日に限って、侵入を許すなんてね。私も老いたものね」
玄関に置いている殺虫剤を取りに行くべきだろうか。部屋の隅、家具の隙間に目を動かし、耳に集中する。フローリングの床はヤツの足音を私に届けてくれるだろう。
頬に垂れる汗を拭き取るのも忘れ、目と耳をそばだてた。
乾いたあの恐ろしい足音は聞こえない。
――取りに、行くか。
部屋のドアを開け、そっと玄関に向かう。
「……あった。これで、やっと寝れる」
午後十一時。就寝前の招かれざるお客さんに永遠の別れを。冷たい缶を握りしめ、件の部屋に足を踏み入れた。
気づいていなかったが、部屋は蚊取り線香の伽羅のかおりが充満している。今どきの蚊取り線香は高級な香りで人間を癒してくれるのだ。
部屋の四隅、オーケー。家具の隙間、クリア。耳を研ぎ澄ませろ、足音は聞こえるか? オールクリア。まだ、どこかに潜んでいる、はず。
殺虫剤の長いノズルを家具の隙間に入れ、ホロコーストの始まりだ。ツンと鼻につく殺虫剤のにおいに思わず咳き込む。
煙は隙間からあふれ、ヤツを炙り出そうとくゆる。
「逃げられないぞ、弱ったところを仕留めてやる」
ローキャビネット、テレビの裏にはいないようだ。となると、額縁か。
三千ピースの海と空のパズルの額縁。震える手を抑え、隙間にかませてスイッチ、オン。――クリア。
なるほど、ここにもいないか。時刻は午後十一時半。静寂をそれたらしめる時計の秒針の音。――ヤツは、どこだ? まさか……。
振り返り、ベッドを見る。確かにここは隠れるにはもってこいの場所だろう。でも――。
「……まさか、そんなとこに隠れてはいないよね?」
しかしヤツを仕留めず、一緒にこの部屋で寝るなんて……。考えただけでもおぞましい。ヤツと一緒に同衾の奇跡、なんて恐怖でしかない。
「念の為、念の為だから……」
ベッド脇を殺虫剤の煙で満たし、しばらく待機する。
――カササッ!
掛け布団の上に這い出てきたヤツは苦しそうにひっくり返り、もがき、苦しんでいた。
「――――!」
声にならない声を上げ、最終兵器スリッパを懐から出し、振りかぶる。何度も、何度も。
泣きじゃくり、スリッパ片手に布団を叩くさまは、人には見られたくない。だが、緊急事態だ。私はヤツに向かって的確な殺意をスリッパに込めていた。
やがてヤツは抵抗をやめ、体液を布団につけ、旅立った。
「やったか?」
布団を叩き、生死を確認する。ミッションクリアだ!
「終わった、これでやっと寝れ……」
――ません。こいつの処理と、さっきまでヤツがいたという事実は消えない。
ティッシュを五枚取り、念の為に箱も持ってベッドに向かう。ヤツの葬式会場だ。
折りたたみ、十層にもなったティッシュで包み、ヤツをへし折る。潰れて残りの体液が爆ぜた。ヤツを〝処理〟する時はいつも不快な心地だ。口に力を入れ、くるくると丸め、明日出すゴミ袋に葬った。
布団に染みた体液をこそぎとっても、落ちない。これから洗濯機を回すのは近所迷惑だろう。朝一に洗濯しよう。
午前零時。
恐怖で疲れた精神をほぐすように首や肩を回す。机に置いてあったペットボトルの水を勢いよく流し込み、喉を鳴らした。
「これからあのベッドで寝るのかぁ……」
嫌すぎる。今寝たら、ヤツの幽霊と添い寝することにならないか? ならないと言われても、私は精神衛生上、嫌だと答える。掛け布団にはヤツの体液つきだぞ? 無理だろ、ああ私には無理だね。
「しかたない、ここで寝よう」
机の前に突っ伏し、ブランケットを肩までかけて私はまどろみの中に飛び込んだ。
その日の夢はアイツやヤツや耳元で鳴くアレが出てきて、寝た気がしなかった。
やおら起き、午前七時の洗濯。こんな時、乾燥機でもあればいいのにと思ったけど、さすがに布団一枚は無理だろうなと唸る白物家電を撫でた。
ふと、上を見ると――ヤツがいた。
「――――!」
私はまた声にならない声を上げ、ヤツとのかくれんぼを開始するのだった。