97.異形の猿の魔物
現れた猿の魔物は、見る者の本能に警鐘を鳴らすような異形だった。体長は三メートルを優に超え、四肢は異様に長く、まるで意図的に引き伸ばされたかのように不自然だった。
全身は干からびたように痩せ細り、皮膚は土気色でひび割れており、骨の形が浮き彫りになっている。動くたびに関節がぎこちなく鳴り、ギリギリと骨と骨が擦れる音が不気味に響く。
顔は猿のそれに近いが、どこか人のような歪みがあった。口元が異様に裂けており、そこから覗く牙は鋭く、血で染まっているように見えた。ぎょろりと飛び出した赤黒い目が、こちらを見据え、ゾッとするほど静かに笑う。
「ケケッ、ケェッ!」
異形の猿が喚き声を上げる中、スウェンは薄く笑いながら呟いた。
「お前たちには――こいつらで十分でしょう」
挑発めいた言葉に、クロネが険しい表情を向ける。
「自分では戦わないのか。……舐めているな」
そう吐き捨て、背中から双剣を抜いて構える。その瞳は、スウェンを鋭く射抜いていた。
「……そうやって、魔物を操っていたんだな。前の町でも」
「ふふ、まさか。それに気づく者が現れるとは思いもしませんでしたよ。折角、町ごと王女様を始末できる絶好の機会だったというのに」
「……なっ、エリシアを狙っていたの!?」
「ええ。上からの命令でしてね。『機会があれば、王女を殺せ』と」
ぞっとするような言葉だった。あの町を襲った万を超える魔物の軍勢。それが、エリシア一人を仕留めるためだったなんて。
理解が追いつかないまま、クロネが一歩前に出る。表情は怒りに染まり、獣のように目を細めて睨みつける。
「エリシアを殺すつもりで、町をっ! 絶対に許さない!」
その声には、怒りと憎悪が滲んでいた。牙を剥き出しにして、今にも飛びかからんばかりの気迫がある。
だが、スウェンは鼻で笑い、意外にも同じ熱量で応じた。
「それは私の台詞ですとも。あなたたちは、カリューネ教の計画を台無しにしてくれましたからね」
歪んだ笑み。静かに燃える殺意。そして、その奥に潜む、さらなる企みの気配がする。
「あなたたちは、ここで死になさい」
スウェンの低く冷ややかな声が静寂を切り裂いた。
「ケェェェェッ!!」
猿の異形が甲高い咆哮を上げる。骨ばった長い四肢を伸ばしながら、信じられない速さでこちらに跳躍してきた。
「来る……!」
一瞬の呼吸も許されない緊張感。クロネが足を蹴り出し、相手に向かって突進する。しかし、その距離がまだ詰まりきる前――異形の猿の腕が異様なほどに伸びた。
ゴギギギッと骨が軋むような音とともに、その爪が真っ直ぐクロネの喉元を狙ってくる。
「――っ!」
咄嗟にクロネが身を捻り、ギリギリのところで爪を回避。だが、鋭い爪先が肩口をかすめ、鋭い痛みとともに血が飛び散った。
「くっ……速い、だけじゃない。伸びる……だと……!?」
地を蹴って後退しながら、クロネが苦い顔で睨みつける。その目の奥に宿る警戒は、相手の強さを正確に理解した証だった。
猿の異形は笑っていた。口元を裂けるほどに広げ、赤黒い眼でこちらを品定めしている。まるで――獲物がどれから喰らうかを楽しんでいるかのように。
「クロネ!」
私が叫ぶのとほぼ同時、異形が再び地を蹴った。不気味に舞い上がり、影が跳ねる。そして、中距離から腕を伸ばして、クロネの急所を突こうと爪を突き立てていく。
「くっ!」
クロネは襲いかかる異形の猿の腕を、ギリギリで双剣の一振りで弾いた。火花が散る。しかし――重い。一撃ごとに腕に伝わる衝撃が深く、ズルリと後退していく。
「チッ……!」
歯噛みしながら体勢を立て直す。けれど、猿の動きは止まらない。長い腕をムチのように振り回し、立て続けに襲いかかってくる。
――速い!
クロネは地を蹴った。次の瞬間、彼女の姿が一瞬だけかき消えたかのように視界から消えた。
「はっ!」
闇を裂いて飛び出したクロネは、異形の猿の懐へと一気に踏み込んだ。そして、双剣を交差させるように振り下ろす。
ガキィンッ!
鋼と鋼がぶつかるような甲高い音。だが、その音の直後、クロネの顔が歪んだ。
「な……!?」
異形の猿がその攻撃を爪で真正面から受け止めていた。しかも、その目――クロネの動きを、確かに追っている。
「くそっ! あたしの動きが見切られてる!?」
信じられないという表情で、クロネはすぐに距離を取る。しかし、追撃が来る。異形の猿の手が伸び、風を裂いた。
このままじゃ、押し切られる!
私は空中に無数の火の矢を展開した。一つ一つが熱を帯び、周囲の空気を歪めている。さらにその火矢すべてに風魔法を纏わせ、嵐のごとく射出する。
空を裂く音と共に、火の矢が唸りを上げて飛んでいく。一直線に、異形の猿を貫かんと突き進んだ。
だが――。
「……っ!」
異形の猿が鋭く体をくねらせた。まるで重力すら無視するような動きで、火矢の嵐をするりと躱す。鋭く反り返った背筋、四肢のしなやかさ――それはただの魔物ではない。
だけど、それで終わりじゃない。
避けられたはずの火矢が、空中で軌道を変えた。風を操る魔法の力が、放たれた矢を再び猿の背中へと導いていく。
「ケェッ!?」
思わぬ追撃に、異形の猿が驚きの声を漏らす。だが、もう遅い。
ズドォン! ドガァン! ドォォン!
次々と火矢が直撃し、爆炎が弾け飛ぶ。連続する衝撃音が辺りの空気を震わせ、視界を炎が覆った。爆風が吹き荒れる中、その中心に猿の影が揺れていた。
「クロネ!」
私の叫びに、クロネが鋭く頷く。その瞬間――彼女の気配が一変した。空気が張り詰め、全身から放たれる殺気が周囲を震わせる。
「あぁ!」
次の瞬間、クロネの姿がフッと掻き消えた。風すらも置き去りにする速さ。
「《迅雷双刃》――ッ!」
声と同時に、クロネが異形の猿の眼前に現れた。時間が止まったかのような刹那、クロネの双剣が雷光のように閃き、正面から斬りつける。
鈍く裂ける音とともに、異形の猿の胸部が大きく抉られた。濁った血が噴き出し、辺りに飛び散る。異形の猿は目を見開き、理解が追いつかないまま、その場に膝をついた。
ドサリ、と重たい音を立てて崩れ落ちる。戦場に、しばしの静寂が訪れた。
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