94.状況把握と後悔と
商会長の屋敷を抜け出した私たちは、人目を避けて静かな宿屋に身を潜めた。ようやく辿り着いた部屋の扉を閉めると、ホッと息をつく。
「ここなら……少しは落ち着けそうだな」
クロネの声も、どこか安堵に満ちている。私たちは並んでベッドの端に腰を下ろし、重くなった肩の力をそっと抜いた。
そして、考えるのは今までの事。この町では、何かがおかしい――そう確信するだけの材料は、すでに揃っていた。
まず、町の人たちがみんな、まるで心を縛られたようにカリューネ教を崇拝していた。まるで自分の意思が存在していないみたいに、どこか虚ろで、感情の起伏がない。
ランカの態度も、不自然だった。私たちとあんなに話していたのに知らないだなんて、ぜったいにおかしい。だけど、その原因は薬と魔法だと言っていた。
これらの状況を作ったのが誰かは、もはや疑う余地もない。スウェン――あの男は、きっと深く関わっている。
「聞いた話だと、この町は薬と魔法で町の人たちを操っているみたいなの。それでカリューネ教の信仰を集めているみたい」
「じゃあ……町の人たちはランカみたいに?」
「多分、そうだと思う。それを教会が主導しているみたい」
「くそっ! カリューネ教め! 好き勝手にして!」
これまでの話を整理すると、カリューネ教は信仰を集めるために、薬と魔法を使って町の人々を操っているらしい。そして、その裏で動いているのがスウェンである可能性が高い。
さらに厄介なことに商会までもが、そのカリューネ教の悪事に加担していた。これはとても大きくて、根深い問題に感じる。
「もしかして……他の町でも同じことが起きてるの?」
「じゃあ、カリューネ教に変わった町って……あたしが住んでた中央地方も!?」
「……その可能性は高い。商会長の話だと、中央地方はすでにカリューネ教に改宗されたって言ってた。だから、この町と同じように、薬と魔法で人々を操っているかもしれない」
「そんな……領民たちが……!」
他の町でも同じ状況が広がっているかもしれない。そう伝えると、クロネは明らかに動揺していた。
中央地方でも、信仰を集めるために薬と魔法が蔓延している可能性がある。しかも、その地方を治めているのは、教皇と手を組んでいるとされる騎士団長。もしそうなら、中央地方全体がすでにカリューネ教の支配下にあると見て間違いない。
クロネは悔しそうに手を握りしめた。今まで守ってきた国が、カリューネ教の影響によって人々の生活を脅かされていると知り、黙ってはいられなくなったのだろう。
「とにかく、今はこの町をどうにかすることを考えようよ。この町を放っておくことはできない。クロネを元に戻したみたいに、この町の人たちも、きっと元に戻せるはずだから」
「……あぁ」
その言葉にクロネは頷いたものの、どこか目に見えて沈んだような反応を見せた。
「中央地方のことが気になる?」
「それもあるけど……ユナに、迷惑をかけたことを思い出して」
耳をぺたりと伏せ、傷ついたように視線を落とす。
「操られている間も……自分の意思は少しだけ残ってた。でも、体が思うように動かなくて……まるで夢の中みたいだった。頭のどこかでは止めたかったのに……」
そこでクロネは唇を噛みしめ、小さく震えながら言葉を続けた。
「もしあのまま……ユナを傷つけていたらって思うと、怖くてたまらないんだ。自分が、自分じゃなくなるのに、それを止められなかった。そんな自分がすごく怖かった」
「……クロネ」
クロネの言葉、痛いくらいに分かる。もし、自分が同じ立場ならきっと胸が張り裂けていただろう。
私はそっとクロネの手を取った。彼女の手は小さくて細いのに、かすかに震えている。
「わかるよ、クロネ。全部じゃないかもしれないけど、その気持ち、すごくよく分かる」
私の言葉に、クロネはゆっくりと顔を上げる。目元が赤くなっていて、でも涙はこぼれていなかった。
「自分が自分じゃなくなるのって、怖いよね。頭では分かってても、体が言うことを聞いてくれないって……まるで夢の中で叫んでるみたいな感覚。きっと、すごく辛かったよね」
私はそう言って、ぎゅっと手を握る力を強めた。
クロネは、言葉を失ったようにじっと私を見つめていた。長い睫毛が震え、ようやくぽつりとつぶやいた。
「……あたし、怖かったんだ。本当のあたしは、ただの道具になってしまうのかって。誰かに勝手に動かされて、大切な人を傷つけて……そのくせ、止められない。そんなの、あたしじゃないのに」
その震える声に、私の胸も締め付けられた。
「それでも、ちゃんと戻ってこれたじゃん。クロネはクロネのまま戻ってきた。もう、それで十分だよ」
クロネを安心させるように、そっとその体を優しく抱きしめた。ビクリと小さく震えたけれど、戸惑いながらも、ゆっくりと私に身を預けてくれる。
やがて、怯えるように伸ばされた腕が、ためらいがちに私の背へと回される。
「本当に……良かった……。ユナを傷つけずにすんで。本当に、良かった……!」
震える声とともに、クロネの腕にぎゅっと力が入った。その強くしがみつくような抱擁から、クロネの想いが痛いほど伝わってくる。
「うん……私も。クロネが無事で本当に良かったよ」
私はそっと背中に手を添え、クロネのぬくもりごと、その想いを感じ取る。重なった心臓の鼓動が、ゆっくりと静かに整っていく。
やがて、名残惜しさを残しながらも、そっと体を離す。目が合うと、自然と笑みがこぼれた。ただそれだけで、不安や痛みが、まるで溶けていくようだった。
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