88.商会長との食事
「お客様、お食事の用意が出来ました」
扉の向こうから控えめなノックとともに、そんな声が聞こえてきた。
その瞬間、まるで魔法が解けたように――私たちは、ハッと我に返る。
ベッドの上で猫の真似をしていたクロネ。それを楽しげにからかっていた私。
現実に引き戻されたことで、急に状況が恥ずかしくなって、胸の奥がじんわりと熱くなる。
何をしてたんだ、私たちは――。
あんなにふざけ合っていたはずなのに、今ではお互いに目を合わせるのが妙に気まずい。
クロネはそっと顔を背けながら、恥ずかしそうに身を起こす。頬が赤くなっているのが分かる。けれど、それを指摘する勇気はなかった。たぶん、私も同じ顔をしていたから。
私は慌てて手を振り、魔力で作ったねこじゃらしを消した。何もなかったかのように――けれど、頬の熱はどうしても誤魔化せない。
部屋には、何とも言えない気まずさと、ほんのりとした余韻だけが、静かに残っていた。
「ユ、ユナはもう大丈夫になったのか?」
「う、うん。クロネのお陰だよ、ありがとう……」
「そ、それならいい……」
お互いに顔を見合わせないでベッドから降りる。そして、大人しく部屋から出て行った。
◇
メイドに案内されて通されたのは、広々とした食堂だった。高い天井には豪華なシャンデリアが吊られ、長いテーブルの中央にあり、その席にはすでに商会長が腰かけていて、にこやかに私たちを迎えてくれた。
「よく、お休みになられましたかな?」
「えっと……はい」
「それは何より! とびっきりの部屋を用意したかいがありましたな。では、さっそく席に着いて、食事をご一緒しましょう」
ちょっと気恥ずかしさを感じつつも、私はこくんと頷いて席に着く。クロネも静かに私の隣に座った。商会長は満足そうに頷くと、手を軽く挙げて給仕に合図を送る。
まもなく、香ばしい匂いとともに料理が運ばれてきた。
焼きたてのパンに、ハーブの香るスープ。肉と野菜の煮込み料理は湯気がふわりと立ち上り、見た目にも豪華だった。
「ささ、冷めないうちに召し上がれ。遠慮はいりませんよ」
「いただきます」
ひとくち、スープを口に運ぶと、やさしい味わいが体にしみわたった。自然と顔がほころぶ。
「おいしいです」
「うん、おいしい」
「おお、それは良かった。うちの料理人は腕が良くてね。商談で来るお客さんの評判もいいんですよ」
商会長はにこにことしながら、グラスに入った果汁酒を口に運んだ。
それからの食事の時間は、全体としては穏やかだった。
商会長は朗らかに笑いながら、次から次へと話題を投げてくる。私たちはそれに答えたり、頷いたり。そうして会話は続いていたけれど――話しているのは、ほとんど商会長の方だった。
よく喋る人なのか、それとも気を遣ってくれているのか。いずれにせよ、場の雰囲気は悪くない。おいしい食事を囲んでいるのにふさわしい、柔らかい空気が漂っていた。
少なくとも、その時までは。
「そうそう、実はね。教会に顔見知りがいましてね」
ふと、商会長がワインを口に含みながらそんな話を始めた。
「今回の荷物の受け渡しのときに、偶然その人と出くわして、少し話し込んでしまったんですよ。おかげで少々、時間を食ってしまいまして」
私は何気なく頷いた。教会の人と知り合いなのは、商人としては珍しくない話だ。けれど、その次の言葉で、私は手を止めてしまった。
「……それで、その人がね。お二人のことをご存じでしたよ」
カチリ、と音がした気がしたのは、フォークを皿に落としかけた私のせいかもしれない。
教会にいて、私たちのことを知っている人。
――心当たりがある。
思わずクロネの方を横目で見る。彼女も気づいたのか、微かに目を伏せていた。
「なんでも、前の町では大変お世話になったとか。随分と感謝していましたよ」
にこにこと笑いながら話す商会長の表情は変わらない。だが、私の中では、さっきまでの安心感がじわじわと後退していくのを感じていた。
「それでね、その方……どうしてもお礼がしたいと言っていましてね」
声の調子はあくまで穏やかだった。けれど、私の中では何かが音を立てて崩れていくような感覚があった。
胸の奥がざわつき始め、息をするのが妙に重たく感じる。それだけじゃない。頭の芯がじんわりと熱を帯び、視界の端が少しずつぼやけてきた。
「それはね、とても良い話だと思ったんですよ。だから――協力することにしたんです」
商会長はにこりと微笑んだ。その笑顔は、さっきまでの温かさとどこか違っていた。
「スウェンという司教なのですが――ご存じでしょう?」
その名前を聞いた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。立ち上がろうとしても、体に力が入らない。
頭がじんわりと熱くなり、視界が滲んでいく。吐き気まではいかないが、何かが変だ――そう思った時にはもう遅かった。
「あなたたちも、この町の住人のようにして差し上げますよ」
商会長はにこやかに微笑んでいた。その笑顔が、ぞっとするほど冷たく見えた。
手足の感覚が薄れていき、世界がぐらりと揺れる。隣のクロネに目を向けようとしたが、体が動かなかった。
――まさか、薬を盛られた……?
そう気づいた瞬間、意識は闇に沈んでいった。
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