143.巨大な敵(1)
誰もが、そこにそびえる怪物を仰ぎ見た。畏怖を誘う圧倒的な存在感。風景が飲み込まれるように、その影が町を覆っている。
「この怪物はこの町を、あなたたちを滅ぼすまで止まりませんわ」
レイナの声音は先ほどの明るさを完全に失い、刃のように冷たく研ぎ澄まされていた。瞳は氷のように澄み、唇の端に淡い嘲りが残る。視線が合うだけで、誰の背筋も凍りついた。
「衛兵、カリューネ教の一団を拘束せよ!」
バルドルの号令が飛ぶと、衛兵たちが慌ただしく武器を構え、カリューネ側を取り囲んだ。だがレイナとその一味は動揺の色一つ見せない。むしろ、余裕さえ漂わせている。
「残念ですが、あなた方にかまっている暇はありませんのよ」
レイナはゆっくりと微笑んだ。それは親切でも歓迎でもなく、冷淡な宣告だった。
「次に行くべき場所があるのです」
「行くべき場所?」
「オルディア教の前教皇を抹殺する。それが私の真の目的。ここはただの通過点にすぎませんわ」
「なん、だと……。前教皇の抹殺、ここが通過点、だと」
その言葉を聞き、バルドルに怒りがこみ上げる。通過点というだけで、これほどの騒動を起こしたのだ。
「長話はこの辺りで止めましょう。では、ごきげんよう」
「そうはさせんぞ! 衛兵!」
逃げようとするレイナたちに向かって、バルドルは衛兵に指示をした。衛兵が捕まえようと踏み込んだ瞬間――レイナたちから黒い靄が溢れだした。
「くっ、これは!?」
レイナたちは一瞬で黒い靄に包まれた。まさか、この黒い靄に乗じて逃げるつもりじゃ。
私は魔力を解放し、風魔法に変換して、黒い靄を振り払った。風が黒い靄を押しのけた時、その場にいるはずのレイナの一団が忽然と姿を消していた。
「くそっ、逃げられたか!」
その光景を見て、バルドルは悔しそうに地面を叩いた。
「とにかく、今はあの怪物をなんとかしなければ」
そう言って、怪物を見上げた。怪物は周囲を見渡すと、一歩前に進みだした。
「くそっ、町に向かう気だな! 衛兵、あいつの動きを止めろ! お前は騎士団に行って、応援を呼んでくるように!」
バルドルが指示を出すと、衛兵たちが動き出す。私達も見ているだけじゃ終われない。
「バルドル様! 私たちも手伝います!」
「それは本当か? 助かる。今はあいつを止める人手が欲しい」
少しでも戦力が欲しいバルドルは私の声を聞いてくれた。だが、無常にも怪物は歩き出し、町を目指している。
「ユナ! あいつを止めるんだろう?」
「ランカも手伝う!」
「うん、二人の力も貸して!」
クロネもランカもやる気だ。ここは、みんなの力を一つに合わせて、怪物を倒す。
衛兵が怪物に向かって攻撃を仕掛けているが、聞いている様子はない。普通の攻撃は効かないようだ。
「二人とも、全力を出して。そうじゃないと、あいつを倒せない」
「全力……。分かった、力の出し惜しみはしない」
「本気出すの怖いけど……ランカはやるよ。みんなを守る」
クロネとランカは強く頷き、その場の空気が急に変わった。それまでの緊張とは別種の、鋭くて冷たい気配が波紋のように広がる。
背筋を伝う毛や獣耳の毛が総立ち、肩が落ちて重心が沈む。二人は無駄な動きを一切なくし、武器を低く構えた。ただそれだけで周囲の空気が締め上げられるように重くなる。呼吸は浅く、しかし確実に速さを増し、心臓の鼓動が岩を打つように耳に届く。
瞳は狩りをする獣のそれとなり、冷たい光を宿す。そこに迷いも情けもない。獲物を見据えるときの柔らかな慈しみは消え、代わりに抉るような意志だけが残る。怪物の喉元へと向けられたその視線だけで、相手の背筋が凍るようだった。
二人がただ立っているだけで、圧倒的な威圧を放ち、戦場全体を押し潰す力を備えていた。
「――行く」
「ガアァァッ!!」
クロネが静かに息を吐き、地を蹴った瞬間、空気が爆ぜた。地面が抉れ、石片が弾け飛ぶ。続けざまにランカが雄叫びとともに跳び出す。轟音が響き、地面が波打つほどの踏み込みだった。
「ランカ、右膝を狙う!」
「ウオォォォッ!!」
短い指示と同時に、二人の姿がかき消える。次の瞬間、風が裂けた。目にも止まらぬ速度で移動した二人の残像が空間を歪ませ、怪物の視界から一瞬にして消える。
怪物が動揺して体をひねった瞬間、稲妻の閃光が右脚の周囲を駆け抜けた。
「《迅雷双刃・双雷》!!」
クロネの双剣が奔り、空気が弾ける。一撃、二撃。連撃が閃光の爆発のように繋がり、轟く雷鳴のような音と共に右脚へ叩き込まれる。
そこへ重なるように、ランカの咆哮が轟いた。
「《ガロウクラッシュ》ッ!!」
ランカの爪に残光が飛び散り、力任せの一撃が叩き込まれる。大地が裂けるほどの衝撃が砂塵を巻き上げ、音が消えるほどの爆発的な衝突――。
怪物の巨体が揺れた。右膝の装甲がひび割れ、砕け散る。
「グオォォォォォッ!!!」
轟音が空を裂く。怪物の咆哮は雷鳴のように響き渡り、地面が揺れる。右膝から吹き出したどす黒い血が雨のように飛び散った。
クロネとランカの一撃は確かに効いていた。だが、倒れない。
「……まだ立ってる……?」
「クロネ、もう一撃いこう!」
ランカが叫び、再び地を蹴ろうとする。しかし――。
次の瞬間、怪物の巨体が不気味にうねった。まるで理性を失った獣のように、咆哮とともに暴れだす。
「グオオオオォォォッ!!!」
その腕が横薙ぎに振り払われ、衝撃波のような風圧が走った。空気が震え、周囲の壁が崩れ、コロッセオの石柱がまとめて吹き飛ぶ。
「危ないっ!」
咄嗟に二人を防御魔法で守った。すると、二人に向かって巨腕が叩きつけられる。だが、防御魔法はびくともしない。それを見た怪物は視線を外に向けて、歩き出した。
「どこにいくんだ!?」
「……逃げる気か!?」
「違う、町に――!」
怪物はコロッセオの壁を破壊しながら進み始めた。鋼のような腕で壁を砕き、崩落する瓦礫をものともせず突き進む。
外壁が粉々に砕け散り、粉塵が舞う。巨大な影が、ゆっくりと町の方へと歩み出していった。
すると、遠くからは人々の悲鳴が聞こえる。
「やばい、町が……!」
「追わなきゃ!」
「行って、止めよう」
三人で頷き合い、瓦礫を蹴って外へ飛び出す。崩れかけたコロッセオの壁を駆け上がり、外へと飛び出していった。




