125.ロズベルク公爵領の領都
「あっ! 見えてきた!」
道を進んでいると、突然ランカが弾んだ声を上げて前方を指さした。私は目を凝らすが、まだ遠くて霞んで見えるだけだ。
「おぉ……見えたな。あれがロズベルク公爵領の領都だ」
「へぇー! あんなに大きな町、初めて見た!」
二人はもうはっきり分かっているらしく、楽しげに会話している。けれど、私にはまだぼんやりとした影にしか見えない。
「二人とも目が良すぎるよ。私には全然分からないんだけど」
「ユナは獣人じゃないからね」
「視力は獣人の特権だな」
あっさりと言われて、ちょっとだけ不満が込み上げる。こういう時、自分も獣人だったらなあ。そしたら耳も尻尾も……もふもふ……いやいや、今はそんな妄想してる場合じゃない!
ホバーバイクの速度を少し上げる。すると次第に視界が開け、遠くの光景がはっきりとしてきた。
高くそびえる城壁。町というより、一つの巨大な要塞のようだった。
「……わぁ、大きい」
ようやく自分の目で確認できて、思わず息を呑んだ。今まで寄ってきた町とは比べようがないくらいの大きさ。
目の前に広がる光景は、圧倒的だった。石造りの城壁は山のように高く、空を切り取るほど。門前にはすでに商隊や旅人らしき人々が列をなし、活気ある声が遠くからでも聞こえてくる。
「すごいすごい! あんなに人が並んでる! 綺麗な旗がいっぱい並んでる!」
ランカは目を輝かせ、身を乗り出して指を差す。
「中は一体どうなっているんだろう? こんなに大きいと想像つかないよ」
私もその様子にテンションが上がる。一体、中はどんな感じになっているのか……。考えるだけでワクワクした。
そんな私たちを横目に、クロネが少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「……賑やかそうだな。人が多いところは、ちょっと苦手だけど……でも、楽しみだ」
その声は小さかったけれど、隠しきれない高揚感がにじんでいる。
「ふふっ、クロネも楽しみにしてるんだね」
「う、うるさい……」
照れ隠しに目を逸らす姿に、思わず笑みが零れる。
胸の鼓動が自然と早くなる。大きな町。新しい出会い。まだ見ぬ出来事。すべてがこの先に待っている。
「よーし! 行こう!」
「うん!」
「……あぁ」
三人の声が重なり、ホバーバイクは城壁へとまっすぐ進んでいった。
◇
「ようこそ、ロズベルク公爵領の領都へ」
門番の人が笑顔で言い、私たちを中へと通してくれた。見上げるほどの巨大な城門をくぐると、外の空気とは違う、熱気とざわめきが押し寄せてきた。
胸がドキドキと高鳴る。門を抜けると、まばゆい光とともに一気に視界が開ける。
そこには、今まで見たどんな町よりも大きく、賑やかな光景が広がっていた。
「わぁ……!」
思わず息を呑む。石畳の広い通りには人、人、人。荷馬車が行き交い、行商人たちが威勢のいい声で客を呼び込んでいる。焼きたてのパンの匂い、香辛料の香り、革の匂いが混じり合って鼻をくすぐった。
「……すごいな」
「うん!」
隣でクロネが低く呟く。普段あまり表情を変えないクロネでさえ、思わず見惚れているのが分かった。
私も同じだ。右を見ても左を見ても人、人、人。山積みの果物に色鮮やかな布地、煌めく宝飾品まで。目に飛び込んでくるものすべてが新鮮で、気づけば言葉を失っていた。
「ねぇ、見て! あっち、すごくない!?」
ようやく声を取り戻した私は、通りの先に並ぶ屋台を指さした。飴細工や焼き菓子が並び、子どもたちが歓声を上げながら群がっている。
「ほんとだ……! あんなにいろいろあるなんて」
私の声に、クロネも頷きながら小さく笑みを浮かべた。次第にこの賑やかな通りに慣れてきて、その光景を楽しむことが出来始めていた。
――けれど。
ふと見ると、ランカは立ち止まっていた。耳と尻尾がわずかに下がり、周囲の喧騒に押されているみたいに。
「ランカ?」
「どうしたんだ?」
私とクロネが声をかけると、ランカは苦笑して視線を落とした。
「なんか……すごすぎて、逆に落ち着かないんだ。ずっとスラムで暮らしてたから、こういう賑やかな場所に来ると……自分が場違いに思えちゃって」
楽しさに包まれた通りの中、ランカだけが少し影を落としていた。今まで薄暗いスラムで暮してきたランカにとって、この通りは光の世界だ。闇の世界に生きてきたランカには、眩しすぎる場所。
ランカは視線を泳がせながら、小さく肩をすくめた。
「スラムじゃ、人の声なんて怒鳴り声か喧嘩腰の言葉ばかりだった。食べ物の匂いだって、腐った残り物の匂いとか……そういうのばかりでさ」
目の前の光景と、これまでの暮らしを比べるように、ぽつりぽつりと言葉がこぼれる。
「だから、こんな……明るくて、にぎやかで、笑ってる人ばかりの場所に来ると……なんか、ここにいちゃいけない気がするんだ」
握りしめた手は少し震えていて、長い尻尾はだらりと力なく垂れていた。
見たことのない世界に憧れを抱くよりも先に、そこに自分の居場所はない。そんな不安の方が大きいのだろう。
「みんな楽しそうなのに、足がすくんでる。……もう、スラムから出たのに。こんなんじゃ、駄目だよね」
自嘲気味に笑うその顔は、普段の明るいランカからは想像できないほど弱々しかった。華やかな通りの真ん中で、ランカだけが一歩を踏み出せずにいる。
ランカは足を止めたまま、視線を地面に落としていた。人々の笑い声や呼び込みの声が、ランカにとっては遠い世界のもののように響いている。
「……一歩、踏み出すのが怖いんだ。こんな眩しい場所に、自分が入っていっていいのか分からなくて……」
その小さな声に、私はそっと微笑んだ。そして迷いなくランカの手を取る。
「じゃあ、私が引っ張ってあげる」
「えっ……」
「一人じゃ怖いなら、手を繋いで一緒に行こう。大丈夫、私が隣にいるから」
そう言って、ぎゅっと握った手を引く。戸惑っていたランカの足が、わずかに前へ動いた。
人混みのざわめきの中に、一歩。そしてもう一歩。そのたびに、私の手を握るランカの力が少しずつ強くなる。怯えていたはずの瞳に、ほんの少しずつ光が戻っていく。
「……行ける、かな」
「行けるよ。だって、私たち三人で一緒なんだから」
振り返ると、クロネが黙ってランカの隣に来た。そして、同じように手を握る。
「……これで怖くない?」
心配そうにクロネがランカを見つめる。それだけで、ランカの瞳に光が戻ってくるみたいだ。
ランカは頬を緩ませ、嬉しそうに笑った。
「うん……。これなら、行けそう」
「だったら、ランカに町の楽しさを教えないとね。行くよ、クロネ」
「任せろ」
私たちは笑い合うと、人でごった返す通りに向かって歩き始めた。




