116.初めての気持ち(3)
「迷惑だなんて思ってないよ」
できるだけやわらかな声でそう告げると、しょんぼりと垂れていたランカのしっぽが、かすかにピクリと揺れた。
「でも……ランカは何もできない。ひとりじゃ役立たず……。ランカには価値がない。スラムにいた時と、何も変わらない……」
ぽつりと落とされた言葉に合わせるように、しっぽは再び力なく垂れ下がる。その姿が胸を締めつけ、息が苦しくなるほど悲しかった。
どうして、そこまで自分を責めてしまうんだろう。ランカは決して役立たずなんかじゃない。誰かを思いやる優しさも、笑顔の温かさも、全部がかけがえのないものを持っているのに。
それを価値がないと言い切る姿が、あまりにも切なくて、見ているだけで涙がこぼれそうになる。
きっとランカは、誰かの役に立つことでしか自分の存在意義を確かめられないのだ。目に見える力がなければ必要とされない。そう信じてきたのだろう。
スラムで過ごした日々が、きっとその思いを深く刻み込んでしまった。自分は価値のない人間だと、まるで呪いのように。だから今、必死に価値のある自分になろうと足掻いているのだ。そうしなければ、自分の存在を認められないから。
抱きしめていた腕をそっとゆるめ、ランカの顔を覗き込む。垂れ下がった耳の下にある表情は、今にも泣き出しそうで、胸が痛むほどに悲しかった。
だからこそ、今すぐにでも笑顔にしてあげたい。自然とそんな気持ちが込み上げてくる。私は息を整え、笑顔を作って、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私たちのために一生懸命になってくれるのは、本当に嬉しいよ。だけどね……それ以上に、もっと嬉しいことがあるんだ」
「……え? 役に立つこと以外に……?」
ランカが不思議そうに首を傾げる。垂れた耳が小さく揺れた。
「それはね、ランカが笑っていてくれること」
「……ランカが、笑ってること……?」
その言葉を繰り返すランカの声は、戸惑いと信じられない気持ちが入り混じって震えていた。
「そう。ランカが笑ってくれるだけで、私も嬉しくなるし、クロネも同じ気持ちになるよ」
私はゆっくりと微笑んでみせる。ランカの笑顔を思い浮かべるだけで、胸の奥がほんわりと温かくなる。
「役に立つかどうかなんて、関係ないんだ。ランカがここにいて、笑ってくれる。それだけで十分価値があるんだよ」
「……ランカが、いるだけで……」
ランカの耳がぴくりと動いた。今にも泣き出しそうな、でもどこか救われたいと願っているような、そんな表情だった。
「うん。ランカが笑ってくれたら、私も幸せになれる。……だからね、どうか自分を役立たずだなんて思わないで」
そっと言葉を重ねると、ランカのしっぽがわずかに揺れた。心の奥で、ほんの少しずつでもその思いが届いている、そんな気がした。
「……ランカには分からない。笑っているだけで、十分だなんて。今まで、そんな事なかったから……」
ランカは小さく眉を寄せ、困惑したような表情を浮かべた。
きっと、これまで過ごしてきた環境には笑顔なんて存在しなかったのだ。だからこそ、笑っているだけでいいと言われても、すぐには受け入れられないのだろう。
戸惑いに揺れていたランカの瞳が、今度はまっすぐにこちらを見据えていた。
「……知りたい。それがどんなものか知りたい。そうしたら、ランカも二人と同じになれる?」
「もちろん、なれるよ」
「だったら……ユナを嬉しい気持ちにさせて、笑わせたい。教えて。ユナは、どんなことをされたら嬉しくて笑えるの?」
その力強い口調に、思わず胸が温かくなる。私が笑顔になること……そう聞かれて、少し考えてから答えた。
「そうだなぁ……ランカの頭とか耳を撫でたら、私、きっと嬉しくなって笑っちゃうかも」
「……頭と耳を? それはランカが嬉しくなることじゃないの?」
「うん、私はね、もふもふが大好きなの。わしゃわしゃ撫でてると、それだけで楽しくて、自然と笑顔になるんだよ」
「そういえば、前にもそんなこと言ってたような……。じゃあ……ユナ、ランカの頭と耳を撫でて!」
ランカがそっと頭を差し出してきた。その仕草がいじらしくて、胸がキュンとなる。私はためらわず手を伸ばし、彼女の頭と耳をやさしく撫でた。
指先に伝わる髪のさらさらとした感触と、ふわふわの狼耳の心地よさ。触れているだけで幸せがあふれてきて、頬が自然と緩んでしまう。
きっと私は今、とても幸せそうな顔をしているんだろう。そんな私を、ランカはじっと見つめていた。その瞳はどこか不思議そうで、けれどほんの少し安心したようにも見えた。
「……何か、分かった?」
恐る恐る問いかけると、ランカは少し考えてから、まっすぐに私を見つめて答えた。
「ユナの笑顔を見ているとね……胸の奥がぽかぽかして、幸せな気持ちになる。……これが、ユナが言ってたことなんだね」
その言葉に、自然と微笑みが深くなる。
「うん。そうだよ。笑顔でいてくれるだけで、心が満たされるんだ」
「……うん!」
ランカの返事は、先ほどまでの迷いを吹き払うように力強くて。その耳がぴくりと立ち、しっぽが小さく揺れるのが見えた。その姿に、私の胸もまた温かく満たされていく。
すると、ランカが私の手をぎゅっと握りしめて、ぱっと花が咲いたような笑顔を向けてきた。
「これからはランカが、ユナをいっぱい嬉しい気持ちにさせる! とびっきりの笑顔になるように、がんばるから!」
「え、えっと……」
急に力強く宣言されて、私は思わず目を瞬かせてしまう。さっきまで価値がないなんて自分を責めていたランカが、こんなに真っ直ぐな顔で言ってくるなんて思わなかった。
戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。押しが強すぎて少し恥ずかしいけれど、それ以上に……嬉しい気持ちが溢れてきた。
「ふふ……そんなに頑張らなくても、ランカと一緒にいるだけで私は嬉しいんだよ?」
「でも! もっと笑顔にしたいの!」
ランカは真剣な表情で食い気味に言い切る。その必死さに、思わず笑みがこぼれた。
「……ほんと、ランカは頑張り屋さんだね」
「だって……ユナの笑顔が、ランカの宝物だから!」
耳としっぽをぴんと立てて言い切るランカの姿は、あまりにも眩しくて、胸がきゅうっと締め付けられる。こんなふうに思ってもらえるなんて、私は本当に幸せだ。
ランカの笑顔に見とれていると、朝日が差し込んできた。やわらかな光が二人を包み込み、世界が静かに輝き出す。
その温もりに重なるように、笑顔で満たされた幸せが広がっていく。まるで、この瞬間が永遠に続けばいいと願いたくなるほどに。