114.初めての気持ち(1)
その夜、男爵邸では私たちのために豪勢な食事が用意された。男爵は上機嫌で、これまでの功績を惜しみなく褒めてくれる。
その言葉を聞くたび、私たちは少し照れながらも、胸の奥が温かくなった。
ただ、ランカだけは違った。
笑みを見せることもなく、どこか居心地悪そうに視線を伏せている。まるで、自分だけがこの場に似つかわしくないと感じているかのように。
褒められて嬉しいはずなのに……なぜ? 胸の奥に、説明できない違和感が残った。
食事のあと、与えられた部屋で一息つこうとすると――
「疲れたから、先に休むね。おやすみ」
そう言ってランカはベッドにもぐりこみ、そのまま目を閉じた。いつもの元気な姿はそこになく、どこか儚げで……心配が募る。
どう声を掛けるべきか迷っていると、ふとクロネと目が合った。彼女は無言で扉を指し示す。――ランカのいないところで話をしようという合図だ。
私は小さく頷き、そっと部屋を出る。続いてクロネも静かにあとを追い、廊下に出てすぐに私は口を開く。
「ランカ、気分が落ち込んでいるみたい」
「……そうだな。前から、その匂いがしていた」
「クロネも気づいてたの?」
「ずっと様子を窺っていた」
やっぱり、クロネもランカの変化に気づいていたらしい。
「いつから、おかしいって思ったの?」
「ヘドロスライムと戦っていた時からだ。あの時……ランカの匂いが変わった」
「じゃあ、原因は戦闘にあるってこと?」
私は首を傾げる。戦闘中、ランカはしっかり動けていたし、大きな怪我もなかったはず。
じゃあ、何がランカの心を沈めているのだろう。
「ここで立ち話しても答えは出ないね。忙しくてすぐに聞けなかったけど……早く気持ちを聞かないと」
「……ああ」
お互い、ランカが何かを抱えていることには気づいていた。それでも、日々の慌ただしさに流され、声をかける機会を失ってきた。
しかし、これ以上は放っておけない。
そう思った矢先、クロネの様子が変わった。耳がわずかに垂れ、ふさふさした尻尾から力が抜けていく。
「クロネ、どうしたの?」
「……気づいていたのに、声を掛けられなかった」
「それは、私も同じだよ。ゆっくり話す時間が無かったから、仕方ないと思う」
「ううん、そうじゃない」
クロネは俯き、ぎゅっと拳を握りしめた。その小さな手の甲には白い筋が浮かび、爪が食い込むほどの力がこもっている。耳がさらに垂れ、影のように長く落ちた前髪の奥で、瞳が揺れていた。
「……なんて声を掛ければよかったのか、分からなかった」
低く震える声。悔しさと自責が混じり合っている。唇を噛み、呼吸が浅くなる。
「こういう時って……どう言えば、傷つけずに済むんだ?」
「それは……」
クロネの目が細かく揺れた。
「傷つけるのが怖かったんだ。怖くて……踏み出せなかった。前までは、こんなふうに怖気づくことなんてなかったのに……」
その言葉は、まるで自分自身を責める刃のようだった。その痛みは、私にも伝わってくるほどに鋭くて重い。
そんなクロネに向かって、私はそっと微笑み、彼女の小さな手を優しく包み込んだ。冷たい指先がわずかに震えている。
「……どんな思いだったか、聞かせて?」
促すと、クロネは視線を落とし、唇をきゅっと結んだまましばらく黙っていた。やがて、搾り出すような声が零れる。
「……ランカとは……仲良くしたいんだ。ずっと、そう思ってる」
「うん」
「でも……余計なことを言って、嫌われたくない。だから黙ってしまう。けど、放っておくことも……できない」
言葉は途切れ途切れで、今にもほどけてしまいそうな細い糸のようだった。握った手から、クロネの体温と一緒に、心の奥のざわめきまで伝わってくる気がした。
「……なんて言ったらいいか、分からないんだ」
小さく首を振る。耳は垂れたまま、尻尾も動かない。胸の奥に溜まった思いが出口を失い、行き場をなくして渦を巻いているのが見えるようだった。
「あたしの中……ぐちゃぐちゃで……うまく形にならない。言葉にしようとすると、全部バラバラになって……」
クロネは眉を寄せ、苦しげに吐息をこぼした。まるで胸の中に棘があって、それが少し動くだけで痛むような表情だ。
「ランカのこと、大事に思ってるのに……それを伝える方法が、分からないんだ」
その瞳には、焦りと後悔と、自分を責める感情が入り混じっていた。私はその手を少しだけ強く握り、そっと言葉を探す――。
「……分かるよ、その気持ち」
私はゆっくりと言葉を選びながら、クロネの手を包み込む。
「大事に思ってるからこそ、傷つけたくなくて、怖くなるんだよね」
クロネは小さく頷く。
「でも……黙っていると、ランカはもっと遠くに行っちゃうかもしれない。怖い気持ちがあるのは仕方ない。だけど、もっと怖いのは知らないでいるままだと思うの」
私はクロネの瞳をまっすぐに見つめた。
「うまく言えなくてもいい。形がバラバラでも、思いがちゃんとあるなら、それは届くから。だから、どんな言葉でもいいから、掛けてあげるのが一番なんだよ」
クロネはきっと、育ってきた環境のせいで、誰かとこんなに近い距離で関わったことがないのだろう。だから、どう距離を詰めればいいのか、その手順すら分からない。
そして、それはランカも同じだ。突然まったく違う環境に放り込まれ、どう接していいのか戸惑っている。
二人はまるで、不慣れな靴を履いたまま、同じ道を歩こうとしているみたいだ。ぎこちなく、たどたどしく、踏み出す足がためらいがちで――だからこそ、余計にすれ違ってしまう。
だけど、黙って立ち止まってしまえば、距離は縮まらない。
たとえ一歩が小さくても、言葉という踏み石を置いていけば、きっと近づける。少しずつでいい。お互いの間に橋を架けるためにも、言葉は必要なのだ。
「私はランカの気持ちを聞いてくるから、クロネはランカに伝える言葉を考えて」
「でも……上手く言えそうにない」
「下手だって構わないよ。大事なのは、ランカを思う気持ち。それさえこもっていれば、どんな言葉だって届く」
私はそっとクロネの背中を押すように言った。揺れていた瞳に、少しずつ迷いの靄が晴れていく。やがて、その奥に小さな火が灯るのが見えた。
クロネが私の手をぎゅっと握り返す。その力は、さっきまでの迷いを押し流すように強い。
「……分かった。あたし、考えるよ。ちゃんと、ランカに伝えられる言葉を」
「うん。その間に、私がランカの気持ちを聞いてくる」
クロネの気持ちが固まると、私の気持ちも固まった。ランカの憂いを払って、このわだかまりを消そう。