111.汚染された川(2)
汚染された川を、私たちは上流へとさかのぼっていく。進むほどに水は濁り、鼻をつく異臭が強くなる。
「うっ……この匂い、きっついな」
「うん……鼻がもげそう」
「私でもこんなに匂うのに、二人は鼻が利くから余計きついよね」
「……別に、辛くない」
「またまた。絶対我慢してるでしょ?」
私が心配して声をかけると、クロネは急に表情を引き締めた。その様子がおかしいのか、ランカがからかうように笑う。けれどクロネは頑として表情を崩さない。
「クロネって負けず嫌いだもんね」
「匂いにも負けたくないってこと?」
「……そういうわけじゃない」
プイッと顔をそむけるクロネ。しっぽが不機嫌そうにパタパタ揺れているあたり、どうやら図星らしい。ほんと、素直じゃないんだから。
「とにかく、この先にいるヘドロスライムを倒さないとね。クロネは詳しい?」
「あぁ。Cランクの魔物で、力はそこまででもない。でも厄介だ」
「厄介って、どんなふうに?」
「体も吐き出す液体も、触れたものを溶かすんだ。ちょっとかかっただけでもダメージになる」
なるほど。それじゃあ、素手で触るのも、飛び散った液体を浴びるのも絶対に避けないと。
「あっ、見て! 何か動いてる!」
ランカが川上を指差す。目を凝らすと、水面の奥で、丘のような黒い塊がうねっていた。粘つく水音と共に、ぬるりと形を変えていく。――あれは……。
「……全部、ヘドロスライムだ」
「えっ!? あの丘みたいなのが?」
「間違いない。嫌な気配が固まっている」
「千匹も集まると、あんなになるんだ……」
数こそ万単位の群れには及ばないが、膨れ上がった質量は異様な威圧感を放っていた。
「倒せば、川も村も救える。行くぞ」
「よし、やる!」
クロネが双剣を抜くと、鋭い金属音が空気を裂いた。同時にランカの体毛が逆立ち、瞬く間に獣化する。二人の影が地面を蹴り、疾風のように丘へ突進した。
私は慌てて後を追うが、速さが桁違いで離されてしまう。息を切らせて近づく間にも、二人はすでに攻撃を開始していた。
「《月影舞》!」
クロネの姿が一瞬で掻き消える。次の瞬間、無数の銀閃がスライムの巨体を切り刻み、肉塊が四方へ弾け飛んだ。
「くっ!」
飛沫となった酸性の液体がクロネのマントに降りかかる。瞬時に繊維が煙を上げ、穴が広がっていく。歯を食いしばりながら、クロネは後方へ跳躍し距離を取った。
「次はランカ!」
ランカが地面を抉る勢いで飛び込み、両腕の一撃で巨体を斜めに裂いた。だが、その破片は細かく砕け、粘液を撒き散らしながらランカに降り注ぐ。
「うわっ――熱っ……! くぅっ!」
酸が皮膚を焼く匂いと、苦痛にこらえるランカの低い唸り声が耳を刺す。ランカは必死に後退し、呼吸を荒げた。
「ランカ!」
私は駆け寄ろうと足を踏み出した――その時、巨体全体が波打つように震えた。嫌な予感が背筋を走り抜ける。
咄嗟に魔力を解き放ち、防御魔法を展開する。直後、ヘドロスライムの丘から無数の粘液弾が弾丸のように射出された。
――バシュッ! バシュッ!
鋭い音と共に、酸の飛沫が防御魔法に叩きつけられ、火花のような魔力の波紋が広がる。防御魔法がなければ、一瞬で溶かされていただろう。
その隙に、私はランカの傷へ手をかざした。魔力を彼女の体にまとわせ、癒しの力へと変換する。すると、裂けた皮膚が淡い光を帯び、ゆっくりと塞がっていく。
「……傷が、消えてる。ごめん、足を引っ張って」
「ううん、気にしないで。でも、このままじゃ危険すぎるから防御魔法をかけるね」
「……そうだな。悔しいけど、頼む」
ヘドロスライムの飛沫は一滴でも致命的だ。私は深く息を吸い込み、全員を覆うように魔力を展開させ、それを防御魔法へと変換する。
「これで、液体を浴びても多少は耐えられるはず」
「ほんと!? じゃあ行く!」
ランカの顔が一気に明るくなり、そのまま勢いよく飛び出していった。
「ランカ! 防御にも限界があるから、受けすぎたら魔法が消えるよ!」
忠告が届く前に、もう戦場の中央に飛び込んでいる。呼び戻して諫めるべきか――そう迷ったところで、肩を軽く叩かれた。
「大丈夫だ、あたしがついてる。危なくなったら、必ず下げる」
低く、力強いクロネの声に、胸の奥の不安がすっと溶けていく。クロネが見ていてくれるなら、きっとランカは大丈夫だ。
クロネは双剣を握り直し、再びヘドロスライムの丘へと駆け込んだ。その視線の先――ランカが、すでに獣の勢いで突っ込んでいく姿が見える。
「これでどうだっ!」
岩をも砕く剛腕が、容赦なく振り下ろされる。振るうたびに空気が震え、一撃で数匹のスライムが弾け飛ぶ。もう一撃で十数匹が細切れとなり、粘液をまき散らした。
止まることを知らない連撃。しかしそのたび、酸を含む体液がランカの全身に降りかかり、防御結界の光がじわじわと削られていく。
一度下がらせた方がいい――そう思った瞬間、視界の端に別の光景が飛び込んできた。二人の猛攻でまき散らされた体液が、辺り一面に飛び散っている。
森の木々は葉を落とし、幹の表皮が泡を立てながら崩れていく。緑の絨毯だった地面は、黒く溶けた跡を広げていった。
村にとって、この豊かな森は財産だ。それが音もなく、酸に食い破られていく光景は胸が締めつけられるほど痛ましい。
確かに、この数のヘドロスライムは倒せるだろう。だが、全てを討伐すれば、その膨大な体液が一気に流れ出す。そうなれば、この一帯は腐敗に覆われ、村の生活も脅かされる。
討たねば村は滅び、討てば森が滅ぶ。この周囲を腐らせずに終わらせる方法……一体どうすればいい?