108.出発の日(2)
朝から元気いっぱいにじゃれ合った私たちは、笑顔のまま宿屋の朝食をとった。あたたかなパンとスープの香りが、旅立ち前の胸をほっと落ち着けてくれる。
食後、荷物をまとめて宿を出ると、通りには早朝の活気が満ち始めていた。商人が店を開ける音、馬車の車輪が石畳を転がる音、人々の挨拶の声。昨日まで見慣れていたこの町の風景が、どこか少しだけ名残惜しく感じられる。
でも、もう未練はない。やるべきことがあるから。
次に向かうのはロズベルク公爵領。あの地の公爵様に会い、カリューネ教の件について、きちんと相談するつもりだ。
門をくぐり抜け、ついに町の外へと足を踏み出した。途端に広がったのは、これまでとはまるで違う世界だった。
見渡すかぎりの緑。ゆるやかにうねる丘陵地帯には、ところどころに小さな森が点在している。朝露に濡れた草が陽の光を反射して、きらきらと輝いていた。遠くには山脈が霞んで見え、空には白い雲がのんびりと流れていく。どこまでも澄んだ風が吹き抜け、草の香りが鼻をくすぐった。
その光景を見たランカは、目を丸くして声をあげた。
「町の外ってこんなに広くて、綺麗なんだね!」
まるで子どものように目を輝かせるランカの隣で、私は小さくうなずく。クロネも無言のまま、視線を遠くに向けたまま何かを感じ取っているようだった。
「こんな光景だけじゃないぞ。この先、地方によって景色はまるで違う。一つとして、同じ風景はないんだ」
クロネの言葉に、ランカは目を丸くした。
「この景色だけじゃないの……? 町の外って、そんなにすごいんだ」
感嘆の声を漏らしながら、ランカは改めて前方の景色を見渡した。遠くには、淡い緑の丘陵が波のように連なり、揺れる草原の中を一本の川が静かに流れている。空はどこまでも高く、白い雲がゆっくりと流れていく。
「今まで、町の隅っこ……スラムの中でしか生きてこなかったから、こんな風に世界が広がってるなんて知らなかった。……でも、こうして外に出て、色んな景色を見られるって思ったら、胸がドキドキしてくる。こんな気持ち、初めてかもしれない」
彼女はその場に立ち尽くし、風を頬に受けながら、目を細めて遠くを見つめた。
明日を生き延びることに精一杯だった毎日。その中で忘れかけていた、自分の心の中にあった夢見る力が今、再び息を吹き返したのかもしれない。
その横顔は、どこか切なげで、それでも確かな光を湛えていた。
そんなランカの姿を見て、私とクロネは顔を見合わせて笑った。ランカを連れ出して良かった、そう心から思える。
「じゃあ、色んな景色を見に行かないとね。そのためには、まず移動しなくっちゃ」
「それはもちろん! 歩いていくんだよね?」
「ううん。私の作ったホバーバイクに乗るんだよ」
「ホバー……バイク?」
ランカが首をかしげると、私はクロネに視線を送った。彼女は頷き、慣れた手つきでマジックバッグからホバーバイクを取り出す。
「わぁ……なにこれ?」
「私の魔力で動く、宙に浮くバイクだよ。これに乗って移動するの。風みたいに滑るように進むから、すごく気持ちいいよ」
そう説明しても、ランカの目はまだ半信半疑な様子でバイクを見つめたままだ。そりゃあ、今までスラムの中だけで生きてきたランカにとっては、まるで魔法の乗り物に見えるだろう。
「でもユナ。……座る場所、二人分しかなくない?」
「あ、ほんとだ。一人増えてるんだった……」
クロネの指摘に、私はバイクを見回して頷いた。となると、座席を追加しないといけない。そうだ、横に付け足せばいいかも。
「よし、ちょっと待っててね」
私はバイクの側面に手をかざし、魔力を集中させる。頭の中に、追加の座席の形を思い描く。流線形のフレーム、バイク本体と同じ塗装、クッション性の高い座面――イメージを細部までしっかり固めていく。
魔力が空気を揺らし、淡い光を帯びながら形を取り始めた。小さな光の粒が集まり、やがて実体を持った構造へと変わっていく。
「わっ!? な、何これ……急に何かが出てきた……!」
「これがユナの魔力だよ。思い描いたものを、こうして実体化できる。どんなものにでも形を変えられるんだ。武器でも、道具でも、建物でも」
「ど、どんなものにも!? 本当に魔法みたい……! すごい……!」
ランカは目を輝かせながら、出来上がっていく座席をじっと見つめていた。
やがて魔力が収束し、ホバーバイクの横にぴったりと調和するサイドシートが完成する。
「すごい……なんか、昔に読んだ絵本の中みたい……」
「ふふっ、じゃあランカ。今日はその絵本の続きを、一緒に見に行こうね」
「うんっ!」
私がバイクに乗り込むと、後部座席にクロネが乗り、サイドシートにランカが乗る。隣に座ったランカは緊張した面持ちで座ると、私は魔力をホバーバイクに送り込む。
すると、ホバーバイクがフワッと浮いた。
「わっ、何これ!? 浮いてる!? 本当に浮いてるよ!?」
「それで、魔力を操作すると……ほら、前に進むよ」
私がゆっくりとホバーバイクを前に動かすと、ランカは目を見開いて驚いた。その反応が嬉しくて、ついスピードを上げたり、止めたりして見せる。
「すごい……すごいよ、ユナ!」
「ふふ、楽しいでしょ?」
その様子を横で見ていたクロネが、どこか得意げな口調で話しかけてくる。
「普通ならありえない事だと思う。最初は怖くても仕方が――」
「凄い! これ、凄い!」
ランカの興奮した声がクロネの言葉をかき消した。あまりの勢いに、クロネは口を閉じて苦い顔をする。
「……」
「ふふっ。どうやら、怖がる暇もないみたいだね」
「ま、まぁ……そういうタイプもいるってことだ。ランカ、意外に根性あるじゃん」
ランカが不思議そうに首をかしげる。
「えっ? どういう意味?」
「実はね、クロネはホバーバイクに乗れるようになるまで、かなり時間かかったんだよ」
「ユ、ユナ! それは言わないで!」
「ふっふっふっ、今朝の仕返しだよ」
「ぐぬぬっ……」
悪戯っぽく笑うと、クロネは居心地が悪そうに唸った。その様子を見ていたランカもニヤリと笑う。
「へー、クロネってホバーバイクが怖かったの? こんなに良い物なのに」
「そ、それはっ! だから、その……」
「クールを装って、鍛錬のために走るって言ってたんだよー」
「へー。クロネってクールに見えて、実は……」
「二人とも!」
二人でクロネをからかうように話しかけると、すぐに焦った声が返ってきた。その様子が妙に可笑しくて、私たちは思わず笑い合う。
ホバーバイクは、笑い声を風に乗せて走る。まっすぐな道の先に何があるのかは分からないけれど、この旅がきっと特別なものになる――そんな確かな予感が、胸の奥でそっと膨らんでいた。