107.出発の日(1)
「ふぁ……起きなきゃ」
小さく欠伸を漏らしながら、まどろみの中で体を起こす。まだ瞼の重たい目を擦りつつ、ベッドを抜け出すと、カーテンへと手を伸ばした。
シャッ、と布を払うようにカーテンを開く。すると、一気に部屋に光があふれた。朝の陽ざしは柔らかく、金色の粒が空気に溶けて、部屋中を明るく照らしていく。
窓を開けると、ひんやりとした風が頬を撫でた。胸いっぱいに吸い込むと、それだけで目が覚めていく。
空はどこまでも青く澄み、遠くに浮かぶ雲は、まるで綿菓子のようにふわふわとしている。鳥たちのさえずりが軽やかに耳に届き、どこか遠くで馬の嘶きが重なる。
「うん、出発日和だね!」
今日はダランシェ子爵領を出発して、ロズベルク公爵家を目指す日。荷物の準備は昨日のうちに済ませた。あとはこの町をあとにするだけ――なのだけど。
「……まだ寝てるの?」
朝の陽ざしが部屋に差し込む中、ベッドに目を向けると、そこには小さく丸まって眠っている二つの影。
ひとりは灰色の髪に大きな狼耳、もうひとりは艶のある黒髪にふわふわの猫耳。どちらも小柄な体をすっぽりと布団に包み、ほんの少しだけ尻尾がはみ出している。
「か、可愛いっ……!」
思わず小声で叫んでしまう。だって、こんなの反則だ。
クロネの黒いしっぽは毛布からぴょこんと飛び出して、たまにぴくりと動く。その仕草が、まるで夢の中でも何かを警戒しているみたいで、たまらなく愛おしい。
ランカのほうは、狼のような耳をピクリと動かしながら、小さく寝息を立てていた。柔らかな灰色の髪が枕に広がっていて、そのあどけない表情はまるで天使のよう。
安らかに眠る二人の姿は、絵本の挿絵か何かかと思うほど尊い。なんだか、見てはいけないものを見ている気さえしてくる。
「こんな可愛い寝顔を見たら、起こすのがもったいないよ……」
だけど、今日は旅立ちの日だ。どうにか心を奮い立たせながら、私はそっとベッドに近づいた。
「クロネ、起きて。……ほら、ランカも、そろそろ朝だよ」
そっと肩に手を添えて揺すると、二人はもぞもぞと反応を見せてくれた。やがて、まどろみの中からゆっくりと目を開けて、眠たそうに体を起こす。
「ん……おはよう……」
「……おはよ……」
「ふふ、おはよう。よく眠れた?」
寝起きの二人はまだ完全には目が覚めていないらしく、ふにゃふにゃした表情でぼんやりとしている。
クロネの猫耳はぺたんと寝たままで、黒いしっぽがゆっくりと左右に揺れていた。ランカの狼耳もやる気のない感じで垂れ下がり、毛布の上でくしゃくしゃになった灰髪がぴょんぴょんとはねている。
そのあまりにも愛らしい姿に、胸がきゅっとなった。朝の光の中で眠たげにまばたきをする二人は、まるで夢の続きから抜け出してきた精霊みたいだった。
「ふふっ……ランカの髪、すごいことになってるよ」
思わず笑ってしまうと、ランカは無防備な顔のまま指先で自分の髪を触ってみる。
「そうなの? ……まぁ、別にいいよ、どうでも」
「よくないよ。身だしなみって、大事なんだから」
苦笑しながらそう言うと、私はそっと魔力を込めて、手のひらの上にブラシを作り出した。
「ほら、じっとしててね」
ランカの背後に回り込み、優しくブラシを通していく。灰色の髪がさらりと流れ、朝の光にふわりと反射して美しく揺れる。その中に混じる柔らかな獣毛の感触が、なんともいえずあたたかい。
「もう、スラムの子じゃないんだから。ちゃんと綺麗にして、胸を張って歩かなくちゃ」
「……うん。でも、どうしていいのか、よく分かんなくて……」
「だったら、一つずつ教えてあげる。まずは、起きたら髪を整えるところからね」
コツン、と額を軽くぶつけると、ランカはちょっと照れたように笑って、こくりとうなずいた。その笑顔がとても優しくて、私は胸の奥にじんわりと広がる温もりを感じていた。
その時、クロネが笑う声が聞こえた。
「ふっ。そういうユナも髪の毛が跳ねているぞ」
「えっ、そうなの!? 恥ずかしい……」
「だったら、あたしが髪の毛を整えてあげる」
「本当? ありがとう」
近づいてきたクロネに魔力で出来たブラシを手渡すと、クロネが私の背後に回って髪を梳かし始めた。
三人で並んで、相手の髪の毛を梳かす。なんだか、仲がいい感じでとてもいい。その光景に温かい気持ちになっていると、ランカが声を出す。
「んー、気持ちいい。髪を綺麗にするのってこんなに気持ちがいいんだね」
「そうでしょ? 私が毎日綺麗にしてあげるからね」
「えっ? い、いいよ……教えてくれれば自分でやるから」
「えっ、そんな事言わないで!」
私の手で綺麗にしたかったのに! それに、もふもふにも触りたかったのに!
すると、クロネが小さくため息をついて、やれやれといった顔で口を開いた。
「ランカ、諦めろ。ユナは獣人に触るのが好きなんだ」
「えっ、そ、そうなの?」
「そうそう。毛並みを見つけるたびにもふもふしてくるし、髪の毛も勝手に整えようとする。だからな、ユナの手から逃げられると思うなよ」
「ちょ、ちょっと!? それじゃあ私、なんか変な人みたいじゃない!?」
「似たようなもんだろ」
「に、似たようなものってなにそれ!? 私、そこまでじゃないもんっ!」
焦って否定するけど、なんだかランカの視線が気になる。もしかして――引いてないよね? 変な子だって思われてないよね!?
だけど、ランカはそっと視線を逸らして、ちょっとだけ頬を染めながら言った。
「ふ、ふーん……。まぁ、ちょっとくらいなら……触ってもいいよ」
「えっ、ほんとに!? それって、もふもふ許可ってことだよね!? あのフワフワとか、しっぽとか、耳とか――」
「やめとけ、ランカ。許したら最後だぞ。髪も毛もしっぽも耳も、全部制覇されるからな」
「ちょっとクロネ! 言い方が物騒すぎるってば! そんなふうに言われたら……もふもふ出来なくなっちゃうじゃん!」
「もう手遅れだろ? 本性、ダダ漏れだし」
「だ、ダダ漏れって!? 私、そんなんじゃないもんっ!」
「はいはい。とりあえず、覚悟しとけよランカ。ユナのもふもふ魔の手は、すぐそこだ」
クロネは真剣な目をランカに向けると、照れ隠しをしていたランカの表情が怯え始める。
「……や、やっぱりちょっとだけ、にしてね……?」
わーん! 私のもふもふが遠ざかった!