語られぬ真実
静謐なる予兆
夜風が、揺れる簾越しに書室の灯火をかすかに揺らした。
蘇蓮舞は机の前に静かに座り、手にしていた筆を置いた。開いた書面には、倉湾の地図と、過去三ヶ月分の人員配置の控えが広げられている。その目は研ぎ澄まされた剣のように、ただ一つの真実を捉えようとしていた。
しかし――その真実の断片は、いつも誰かの影に包まれている。
「父上……」
ふと、廊下を行き交う足音に目を上げると、部屋の戸口に立っていたのは父・蘇青松だった。白髪の交じった髭が風に揺れ、鋭いが温かい眼差しで娘を見つめていた。
「……また、倉湾の件か」
蓮舞は何も答えず、静かに視線を落とした。
「過ぎたことだ」と青松は静かに言う。
「軍の責任は軍で背負えばよい。お前が関わるには重すぎる」
「墨家を見放すのですか?」
その返答に、父はしばし口をつぐんだ。柔らかく微笑みながら、机の上の地図に手を置く。
「お前は優しいな、蓮舞。だが――政治には深入りするな。それが蘇家を守る道だ」
彼の声には、父としての切実な願いが込められていた。しかし蓮舞は、それが父の恐れから来るものだと知っていた。
父が恐れているのは、孫文景か──
その名が、胸の奥に鉛のように沈み、彼女はそっと瞳を伏せた。
⸻
夜も更け、星が瞬くころ。蘇家の庭にある小さな池に、月が淡く揺れていた。蓮舞は池のほとりに佇み、手にした湯呑を静かに見つめていた。
その心は、前世の一場面へと遡っていた。
──前世では、墨無涯の父は「軍資金の横領」という濡れ衣で捕らえられた。寡黙で誠実な将だった。軍部でも信頼は厚く、蓮舞の父・青松も一目置く人物だった。
だが、ある年、戦地への物資が足りず、それを理由に責任者として処罰された。当時、無涯が語ったのは言葉を思い出す。
「証拠となる六百両が、消えたんだ!届けたはずの金が、帳簿から、倉から、痕跡ごと!」
何も知らなかった前世は、その言葉の意味が分からなかった。ただ、あのときの無涯の瞳――何も信じられなくなったような虚ろさだけが、今も胸に焼き付いている。
そして今、あの事件を止められる機会がある。
「……墨家を、無涯を守らなきゃ」
蓮舞は、手にしていた茶をそっと地に注いだ。これは前世で守れなかった人への、密やかな誓い。
すべてはまだ、間に合う。
彼女は懐から、一枚の文を取り出した。そこには、かつて都の塩相場を読んで莫大な利益をあげたという若き商人・「沈灼京」の名が記されていた。
前世で蓮舞が名を聞いたのは、彼の死後だった。だが今はまだ彼が生きている。
「六百両……あの金額を商いで得られれば、例え墨家が陥れられたとしても、切り抜けられるはず」
時を遡る記憶は、道を示す灯火となった。
蓮舞は決意とともに立ち上がる。その歩みは静かだが、確かな剣のように真っ直ぐだった。
⸻
夜更けの都に、しんと静まり返った闇が降りていた。
狭い路地の奥にある古びた文房具店の前で、方無塵は身を潜めるように立っていた。月明かりも届かないその場所で、彼は約束の時刻を待っていた。
やがて、慎重な足音が聞こえてきた。現れたのは中年の文官・李書記。
明らかに怯えた様子で、何度も懐から布を取り出しては額の汗を拭っていた。
「私は、本当に何も知らない。」
李書記は無塵を見た。そこにあったのは、かつて政治に夢を抱いていた官僚の面影ではなかった。官位にすがりつき、ただ命を守ることに必死な顔だった。
「我が子は、ようやく今年、科挙に合格するはずだった。しかし孫文景様の腹心を合格させるために、答案の筆跡を改竄されてしまった。私が何も言わなければ、息子は落第に終わるが、声を上げれば……殺される」
無塵は黙って聞いていた。その目の奥には、同情でも軽蔑でもない、ただ真実を見据える静かな光があった。
無塵は口を開いた
「裏帳簿があるはずだ。でなければ、早々にバレているはず。息子を守りたければ、在処を吐け」
しばらく沈黙が続いた。夜風が路地を吹き抜け、どこかで夜鳥が鳴いた。
「帳簿は確かにある。だが私の手元にはない」
無塵の眉がわずかに動いた。
「後宮に仕える女官の一人――名は『玉栖』。賢い娘で、昔、何かあった時のためにと思い……託してある。だがこれ以上の協力は出来ない。私も殺されたくないのだ」
李書記の声は震えていた。帳簿について語る者の声がこれほど脆いのは、敵が記録そのものよりも恐ろしい存在だからだった。
「分かった。」
無塵はそれだけ言うと、背を向けようとした。
しかし――その夜の密会は、すでに見張られていた。
高い建物の屋根の影で、黒衣の男が身動きもせずに張り付いていた。彼らの会話の一部始終を、じっと聞いていたのだった。
翌朝、孫文景のもとに密報が届いた。
『李書記が方無塵と接触。帳簿について語った模様。女官"玉栖"に何かを託した可能性あり』
それを読み終えた文景は、ゆるやかに笑みを浮かべた。
「……中書侍郎ごときが、孫家を狙うとは。思い知らせてやれ」
その言葉と同時に、数名の黒い影が御苑の奥へと消えていった。死の気配が、すでに無塵の背後に忍び寄っていた。
蓮舞は、その夜また不安な夢を見た。血の匂いと、誰かの苦悶の声。そして、愛する人が危険にさらされている予感が、彼女の心を激しく揺さぶった。