囁く影、赤く染まる帳
春の陽が翳り始める頃、刑部の地下文書庫では、方無塵が黙々と帳簿をめくっていた。
彼の指先が止まる。
「……後宮金庫、第二期引当分、十万両超過?」
わずかに眉が動いたが、顔には出さない。
数日前に接触した孫家の財務担当・林宗鴻が、文景が“別帳”を保持していると漏らした件と符号する。
金はどこへ消えた?
孫文景。朝廷の実権を握る男。
その名を思い浮かべるたび、喉の奥が焼けるようだった。
――だが。
「……蘇蓮舞」
つぶやいた声は、微かに濁っていた。
彼女も、孫家を探っている。
あの夜、礼部の奥で、密かに潜り込む蓮舞を偶然見つけ咎めたが、なぜ孫家を探っているのか目的は分からない。
しかし何故か、彼女の眼差しは印象的で、なかなか忘れることが出来なかった。
無塵は唇を引き結び、書を閉じた。
⸻
朝廷の広間に響く足音が、いつもより重く感じられた。
孫文景は書類に目を通しながら、唇の端をわずかに歪めた。
倉湾での失態。密輸の証拠を掴まれ、穴を塞ぐために急いで処理しなければならない不都合な真実の数々。
「孫大人」
側近の李が小声で呼びかけた。孫文景は顔を上げずに「何だ」と答える。
「秘書官の范が、倉湾の件で指示を仰いておりますが」
文景の手が止まった。筆をゆっくりと置き、初めて李の顔を見た。その目には何の感情も浮かんでいない。
「そうか。それは…困ったな」
李は主人の冷たい微笑みを見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「呼んでこい」
「はい」
李が退出すると、孫文景は引き出しから小さな包みを取り出した。中には紫色の粉が入っている。茶器のそばに置き、お湯を沸かし始めた頃、秘書官の范が恐る恐る入ってきた。
「孫大人、お呼びでしょうか」
「ああ、范、座りなさい。茶を飲みながら話そう」
恭しく礼をする范。文景は穏やかな表情で茶を淹れる。
「倉湾の件、何故私の指示が必要なのだ?」
范の顔から血の気が引いた。
「そ、それは…」
「心配することはない。わざわざ私の元に来るほどこの件を重く捉えてくれているのだ」
安堵の表情を浮かべる范。文景は微笑んで茶碗を差し出した。
「さあ、お茶を。そして話を詰めよう」
范は感謝しながら茶を受け取り、一口飲んだ。文景はじっと范の様子を見つめていた。
数刻後、范の顔に異変が現れた。額に汗が滲み、顔色が青ざめていく。
「体…調が…」
茶碗を落とし、床に崩れ落ちる范。口から泡を吹き、けいれんし始めた。
孫文景は立ち上がることもなく、冷たく見下ろした。
「李」
入ってきた李は床に倒れる范を見て、一瞬たじろいだが、すぐに表情を取り戻した。
「急に具合が悪くなられたようだ。医者を呼ぶ前に亡くなるだろう。残念だが、范は持病を抱えていたという噂を広めておけ」
「はい、ただちに」
文景は窓の外を見た。春の空は澄み渡り、何事もないように青かった。
「そうそう、范の他に誰が倉湾の件に私が関わっていることを知っているか、調べておけ」
李は一度だけ眼下の范に視線を落とし、小さく頷いた。
それから一週間。朝廷内で次々と起こる"不幸な事故"や"突然の病"による死。宴席で食中毒に倒れた会計副官、馬から落ちて首を折った監察官、自宅で首を吊った兵務大臣補佐。
共通点はただ一つ。全員が倉湾の密輸計画に関与していたことだ。
「はっ…」
孫文景の目は微かに笑っていた。
倉湾での失点は痛手だが、敵の姿はまだ見えていない。
(炙り出しが必要だな)
そしてもう一つ――孫文景の興味を引く深い動きがあった。
「皇太子殿下は、最近どうしている?」
「……は。最近も学舎へ足を運んでいるようでふ」
「ふふ。若い」
文景は杯を傾け、琥珀色の酒を口に含んだ。
「娘の言う通り、蘇蓮舞にご執心だな」
「殿下を唆されますか?」
「唆す? いや、導くだけだ。欲望に正義の名を与えてやればよい。」
⸻
方無塵は細心の注意を払って、孫家の財務を担当する李書記の日課を調べていた。毎日同じ時刻に茶館に立ち寄るということを知り、今日もその時間に合わせて店に入った。
「この席は空いていますか?」
無塵は李書記の向かいに立った。
李書記は驚いた表情を隠せなかったが、すぐに取り繕った。
「どうぞ」
「最近、朝廷は騒がしいですね」
無塵は何気なく話を切り出した。
李書記は茶碗を手に取り、「そうですね」と短く返した。周囲に視線を走らせ、誰も聞いていないことを確認する。
「孫大人の粛清は、まるで嵐のようですね」
「嵐は過ぎ去るものです」
李書記は言葉を選びながら答えた。
「しかし、跡に何が残るかが問題です」
無塵は李書記の表情を観察した。恐怖と葛藤が見て取れた。
「孫大人は最近、財源に困っているようですね」
李書記の手が一瞬止まった。
「何を…」
「後宮の資金が不足しているという噂があります」
無塵は静かに言った。
「誰かが手をつけているとか」
「...私には関係のない話だ」
李書記は立ち上がろうとした。
無塵は彼の袖をそっと掴んだ。
「あなたのお子さんが科挙で何をしたのか、告発する用意はできている。証拠もある」
李書記の目が見開かれた。脅しか!
「明日、同じ時間に文房具店の前で」
李書記は小声で言い、立ち去った。
⸻
学舎に建つ楼には、楊玄昌が立っていた。広大な庭園の向こうに蘇家の娘、蓮舞の姿が見える。
「殿下、蘇家の娘に心を奪われておられるようですね」
振り返ると、孫文景が静かに歩いてきた。
玄昌は顔を紅く染めた。
「孫文景、失礼だぞ」
文景は柔らかく笑った。
「いえ、あれほどの器量であれば見惚れるのも当然です。更に彼女は美しいだけでなく、聡明でもある」
「そうだ…」
玄昌は真剣な表情で言った。
「彼女の正義感、知性、そして優しさ…私には彼女のような人間が必要だ」
「殿下が皇帝になられる日は、そう遠くないでしょう」
文景は静かに言った。
「蘇家の娘を妃にされることも、殿下の意志次第です」
玄昌は眉を寄せた。
「だが、彼女は…私の求愛に明確に返事をくれない」
「それは残念なことです」
文景は悲しげに言った。
「蘇家にも思惑があるのでしょう」
「どういう意味だ?」
「いえ…ただ、蘇家は第二皇子と親しいですから」
玄昌の目が鋭くなった。
「殿下のお気持ちが本物であれば、蘇家をご自身の味方につける必要があります」
「どうすれば…」
「彼らの弱みを探ってはいかがでしょう」
文景はゆっくりと言った。
「そうすれば、殿下の求めに応じざるを得なくなるでしょう」
玄昌は窓の外を見た。蓮舞は今、一輪の白い花を手に取り、香りを楽しんでいた。その表情には清らかな喜びが満ちていた。
「そのような手段で彼女を手に入れたくはない」
「愛は時に犠牲を伴います」
孫文景は静かに言った。
玄昌はしばらく沈黙すると、口を開いた。
「考えさせてくれ」
文景は静かに頭を下げ、退出した。
玄昌は再び窓の外を見た。蓮舞は庭を去りかけていた。彼女の姿が見えなくなる直前、彼女は一瞬、皇太子の居室がある方向を見上げた。二人の視線が交わった気がした。
玄昌の胸が高鳴った。
「蓮舞…」
その夜、玄昌は夢を見た。蓮舞が白い衣装に身を包み、皇后の座に就く夢。彼女の傍らに立つ自分。二人で国を治め、民を救う姿。その夢がどれほど麗しかったことか。
目覚めると、窓から朝日が差し込んでいた。玄昌は決意に満ちた表情で起き上がった。
「蓮舞は、いずれ私の妃になる。それがこの国の未来の形だ……そうあるべきなんだ」
彼の目には、これまでにない強い光が宿っていた。それは愛なのか、それとも執着なのか。彼自身にもわからなかった。