皇太子の資質
宰相府、石灯籠の火が揺れる回廊に、孫霊芝の足音だけが静かに響いた。
その奥、文机に向かう孫文景の背は、微動だにせず筆を運んでいた。
だが娘の気配を察してか、ひと呼吸置いて顔を上げる。
「どうした、霊芝」
「父上。……皇太子殿下の件ですが」
文景は筆を止めた。
「進展があったか?」
霊芝はきゅっと扇を握りしめ、低く声を落とす。
「殿下は、蘇蓮舞という女に心を寄せておられます。幾度も学舎へ通っておられるのは……その者に会うためです」
その名に、孫文景の眉が動いた。
「蘇……蓮舞?」
「はい。蘇家の嫡女ですが、正室の器にふさわしいとは思えません。言動も、品位に欠け――何より、私の目の前で殿下を翻弄したのです」
文景は巻物を閉じ、静かに立ち上がった。
「蘇仲元の娘か。……あの男、肝が小さすぎて使えぬが、娘までも面倒だとはな」
そして静かに言い放つ。
「皇太子の妃候補からは外す。安心しろ」
霊芝はようやく笑みを浮かべ、頭を下げた。
「感謝いたします、父上」
────
上陽学舎の中庭には、春の光が穏やかに差し込んでいた。
若木の芽吹きが風に揺れ、鳥のさえずりが青空に溶けていく。
その静寂を破るように、門前から怒声が響いた。
「……この愚か者め!」
それは皇太子・楊玄昌の声だった。
蓮舞が振り向くと、彼が付き人を鋭く睨みつけているのが見えた。
地面には巻物と砕けた墨壺が転がり、付き人は青ざめた顔で地に伏している。
「これが何の品か分かっているのか? 父上直筆の勅筆を、貴様の手で落とすとは――!」
「も、申し訳ありません……!」
「謝って済むと思うのか。鞭打ち10回だ!」
付き人は額を地に擦りつけ、身を震わせていた。
蓮舞は思わず足を早めた。周囲の護衛たちも黙して見守るばかりで、誰も口を挟まない。
「殿下、それ以上はおやめください」
その声に玄昌は眉をひそめ、驚いたように蓮舞を見た。
「蓮舞……?」
「落としたことは失態かもしれません。しかし、人は誰しも過ちを犯します。
それをいちいち罰していては、仕える者たちは皆、恐怖で従うことになります」
「だが、示しがつかぬ。価値の分からぬ者に任せたから――」
「だからこそ、教えるのです」
蓮舞の声には一片の揺らぎもなかった。
「教え、導くことこそ、上に立つ者の務め。罰するだけでは、真に人は育ちません」
護衛たちが息を呑むのが分かった。
皇太子にここまで言える者は、そういない。
玄昌は反論できなかった。
皇太子として育った彼にとって身分は絶対的であった。彼を恐れはしても正しいことを教えてくれる者はなかったため、傲慢に育ってしまったが、元来玄昌は素直で善良な気質の持ち主であった。
そのため、蓮舞の言葉が、鋭い刃のように胸に刺さったのだ。
「……おまえは、俺に楯突くのが好きだな」
「楯突いてなど。本音を話しているにすぎません」
蓮舞の瞳は真っ直ぐに玄昌を見据えていた。
そこには怯えもへつらいもなかった。
「たとえどれほど高い地位にあろうとも、誤りには目をつぶれません」
玄昌はしばし沈黙した後、目を逸らすように言った。
「……分かった。今日は見逃そう。下がれ」
付き人は深く頭を下げ、その場を去る。
蓮舞は皇太子を見つめながら思った。
(前世のような暴君にならないで)
玄昌は自分を見つめる蓮舞の眼差しを真っ直ぐに見返す。
(蓮舞が、そばにいてくれたなら――)
玄昌の思いが、無意識のうちに言葉となっていく。
「蓮舞。……俺はおまえが、欲しい」
蓮舞は一瞬、瞳を見開いたが――すぐに顔を引き締めた。
「ご冗談を。...聞かなかったことにいたします」
そして振り返ることなく、その場を後にした。