春灯祭
洛陽の空は、春の宵に透きとおっていた。
満月が昇り、城下を照らす灯籠の光と混ざり合う。
白絹で彩られた橋や路地には、市民と貴族が入り混じり、太鼓や笛の音があちこちで響いていた。
春灯祭――洛陽最大の祭の夜。
蘇蓮舞は、薄い紅梅色の衣に身を包み、長い黒髪を結い上げずに背に流していた。
飾り気はない。だがその凛とした佇まいは、雑踏の中でも一際目を引いた。
「蓮舞!」
駆け寄ってきたのは、趙孟龍だった。
普段の軍装ではなく、洒落た祭り用の装いで、白地に藍の模様が映える。
「来たな。迷わず来られた?」
「迷ってなどいないわ。地図は頭に入ってるもの」
「それでも……心配だった」
そう言って笑う孟龍に、蓮舞は思わず噴き出した。
「どうして心配するのよ」
「それは、だって……お前が今夜、一番綺麗だからさ」
軽く言って、すぐに話題を変える孟龍の笑顔は、どこまでも明るい。
墨無涯や懐古も揃い、皆で灯籠の揺らめく屋台通りを歩き出す。蓮舞は自然とその輪の中に溶け込んでいた。朱の灯の下、紅梅色の衣に肩までの黒髪を風に揺らしながら、民と共に笑う姿は、まるでこの祭の一部のようだった。
一方、同じ頃――
宰相・孫文景の娘、孫霊芝は白絹の裳に金の細帯、飾り過ぎぬ気品ある装いで、離れた場所に静かに佇んでいた。
今宵、この祭には“皇太子・楊玄昌と自然に出会い、印象を残す”という、大任がある。
父の策を成すには、まず第一歩。
皇太子の隣に並ぶ資格が、自分にあることを示さねばならない。
「殿下、お加減はいかがですか」
ようやく姿を現した皇太子に、霊芝は声をかけた。
だが玄昌は、ちらと視線をやっただけで、口元に曖昧な笑みを浮かべて返した。
「悪くはない。だが、人が多すぎてな。気が塞ぐ」
それだけ言い残し、玄昌はするりと霊芝の横をすり抜けた。
「殿下……?」
霊芝が慌てて追いかけると、彼の足がふと止まった。
その視線の先――人波の中、朱の灯籠を背景に立っていたのは、蓮舞だった。
薄い紅梅色の衣に身を包み、髪を結い上げもせず、肩までの黒髪を風に揺らしながら、民の中に自然に溶け込んでいた。
その隣には、墨無涯とその妹、趙孟龍、そして楊懐古がいる。
彼らの笑顔は飾らず、どこか楽しげで、何よりも「生きている」姿だった。
「……」
玄昌は、まっすぐにそちらへ歩いていく。
霊芝は一瞬固まったが、すぐに顔を引き締めて後を追った。
そして――
「――確かに。今夜の蓮舞は、目を引くな」
背後からかけられた声に、蓮舞は振り返る。
人混みの中から現れたのは、金の織り柄をあしらった礼装に身を包んだ、皇太子・楊玄昌だった。
「……殿下」
「ああ、どうせ“また来たのか”とでも言うんだろう? 今夜は許してくれ。」
蓮舞はため息をついた。
「ご公務では?」
「祭りに来てはいけないとでも?」
玄昌は、明らかに蓮舞を目で追っていた。
その姿を、少し後ろから、色鮮やかな衣装で見つめる孫霊芝。
その目は――凍てついたように冷たかった。
(皇太子殿下の目が、一度も私を通らない)
霊芝の視線の先で、蓮舞の周囲にはすでに輪ができていた。
墨無涯とその妹・墨玲花、楊懐古、そして趙孟龍が自然に集まり、蓮舞を中心にして話が弾んでいる。
まるで彼女がその輪の「核」であるように。
「殿下。少し、お時間を……」
霊芝が声をかけようとしたとき、大灯籠が一つ、空へ舞い上がる。
火の粉が散り、笑い声と共に夜風が通り抜け、大灯籠が、風に乗ってふわりと揺れた。
その光が水面に落ち、さらに蓮舞の頬に淡く映った。
誰もが、思わず息を呑んだ。
月明かりと灯籠の光が交わるその瞬間、蓮舞の姿は――まるで幻のように美しかった。
静かに立つだけで、そこにいる者すべての視線が、彼女に吸い寄せられていく。
「……まいったな」
趙孟龍が低く呟いた。
真面目に言えば気取ってしまう。だから彼は、冗談めかして笑うしかなかった。
「どうかした?」
蓮舞が問う。
「いや、綺麗だよ、本当に」
趙孟龍は、いつもの砕けた物言いではなく、静かに笑って言った。
そのやり取りを見ていた無涯は何も言わなかったが、まなざしが揺れていた。
懐古もまた、物言わぬまま、蓮舞の後ろ姿を見つめていた。
「蘇蓮舞……」
その声が、皇太子・玄昌の口から漏れたとき、霊芝の胸に何かがきしんだ。
(……あの女)
どの男も、あの女を見ている。
そして、自分を見ている者は誰もいない。
「……」
孫霊芝は唇を噛みしめ、笑みを貼りつけたまま目を伏せた。
(いずれ、思い知らせてやる)
このまま引き下がるつもりなどなかった。
この夜こそ、彼女の心に――確かな黒い種が、根を下ろしたのだった。
──────
朱色の灯火が夜空を染める祭りの喧騒から離れた高台に、二つの影が寄り添うように立っていた。
風が運ぶ笛の音が遠く、かすかに耳朶を撫でる。頭上では星々が瞬き、遥か下方では灯籠の光が川面に映り、金の鱗のように揺れていた。
趙孟龍は深く息を吸い込み、横に立つ女性の姿に視線を落とした。月光に照らされた蓮舞の横顔は、まるで古の絵巻から抜け出したかのように美しく、彼の胸は痛いほど締め付けられた。彼女の黒髪が夜風に揺れ、耳飾りの翡翠が月の光を受けて儚く輝いている。
「この場所、覚えてるか?」
孟龍は声を落として尋ねた。その声音には、幾年も胸の内に秘めてきた感情が滲んでいた。
蓮舟は目を細め、微かに頬を緩めた。
「ええ、もちろん」
彼女の声は静かな水面のように穏やかだった。
「十の夏、あなたと無涯と三人で来たわ。あの時は祭りを見下ろして、こんな景色だったわね」
「そうだ。あの日、君は木に登って……」
「そして、あなたが慌てて下で受け止めようとして、結局は二人とも転んでしまった」
蓮舞はくすりと笑った。
「無涯は呆れ顔で見てたわね」
「うん、そうだった。あの頃から今まで、俺たちはずっと互いの傍にいたよな」
言葉が終わると、二人の間に沈黙が訪れた。祭りの太鼓の音が風に乗って断続的に届き、木々の葉が細かに揺れて囁くような音を立てる。
蓮舞は孟龍の表情に何か特別なものを感じ取り、心臓が一拍早く打った。彼の瞳には、いつもとは違う決意のようなものが宿っていた。
「蓮舞」
彼女の名を呼ぶ声は、普段よりも低く、そして何かを決意したかのように響いた。
「何?」
彼女は問いかけた。
孟龍は一度目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「来月、俺の誕生日がある」
「ええ、知ってるわ」
蓮舞は首を傾げた。
「何か欲しいものでもあるの?」
「うん」
彼は遠くを見つめ、そして再び彼女に視線を戻した。
「うん。君の“承諾”がほしい。俺は、その日……君との婚約を申し込みに、蘇家へ行くつもりなんだ」
彼の声は静かだったが、その言葉は夜の空気を震わせるような重みを持っていた。
蓮舞は言葉を失った。彼女はゆっくりと孟龍から視線を外し、遠くの灯籠を見つめた。
「私は…」
言葉が喉に詰まる。
「最後まで言わせてくれ」
孟龍は静かに言葉を継いだ。
「俺は子供の頃から、君をずっと見てきた。日々の喜びも悲しみも分かち合ってきた。君の強さも、弱さも、すべてを知っている。君のことを、この世で誰よりも理解していると思う」
彼の瞳は、夜空の星々よりも輝いていた。
「ずっと、昔から……俺の気持ちは変わっていない。君も、分かってるだろ? 俺が、君をどれだけ大切に想ってきたか」
蓮舞は下を向いた。耳の中で自分の鼓動が響いていた。
「私、あなたのことを…」
「友達として見ているだけだということも、知っている」
孟龍は優しく言った。彼の声に恨みはなかった。
「それでもいい。君にとって俺が特別な存在であることは知っている。それだけで、俺は幸せなんだ」
彼はわずかに彼女に近づき、しかし触れはしなかった。
「俺たちは理想的な夫婦になれると思う。互いを尊重し、支え合って。穏やかで、幸せな毎日を築ける。安らぎのある家庭を築いて、共に年老いていく。君の才能を活かせる場所を作り、俺も君の支えとなる」
月の光が孟龍の横顔を照らし、その快活な顔立ちに影を落とした。
――蓮舞は、黙ってその言葉を聞いていた。
たしかにその通りだと思った。孟龍は、自分にとって特別な存在だ。
いつでも安心して背中を預けられる相手であり、言葉を交わさなくとも通じ合える親友。彼が不幸になることなど、考えたくもない。
命を懸けることすら厭わぬ相手――それほどに大切でかけがえのない存在。
だけど、それが“男女間の愛”なのかと問われれば……答えは、否だ。
それでも、もし孟龍と生きる道を選べば――
身を焦がすような愛はなくとも、彼の言うとおり、お互いを尊重し、支え合う穏やかな日々が待っている気がした。
それは、前世にはなかった未来。
前世の悲劇は起きないかもしれない、別の選択肢。
彼女の心の奥で、様々な感情が交錯する。
孟龍への深い信頼と友情、彼との未来への可能性。そして、消せない前世の記憶——無塵への思い。
無塵。
その名を心の中で呼ぶだけで、胸が締め付けられる。
無塵を想う心は、今も蓮舞の中に生きている。
彼と過ごした日々も、その死も、その言葉も。すべてが焼きついて離れない。
今世で再会した彼は、前世の記憶を持たない。それでも、心が追いかけてしまう。
無塵を忘れることができるだろうか。 その激しい想いを心から消し去ることができるだろうか。
そしていつか、孟龍を愛せるだろうか。
彼の深い愛に、応えられるようになるのだろうか。
蓮舞は、長く思案していた。
その沈黙に、孟龍はただ、静かに彼女を見守っていた。
蓮舞は長い沈黙の後、顔を上げた。
瞳は潤んでいたが、その口元にはかすかな笑みが宿っていた。
泣きそうな顔で、蓮舞は微笑んだ。
孟龍はその表情を見て、彼女の答えを悟ったかのようだった。
その顔を見た瞬間、孟龍はそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れようとして躊躇し、頭に優しく触れた。
指先で優しく、絹のような黒髪を梳きながら、彼は囁くように言った。
「急かすつもりはなかったんだ。ただ、君があまりに綺麗で、誰かに奪われてしまうのではないかと…」
彼はわずかに自嘲気味に笑った。
「焦ってしまったんだ、ごめんな」
「孟龍…」
蓮舞は初めて彼の名を呼んだ。
「あなたは私にとって、この世で最も大切な人の一人。それだけは、確かよ」
孟龍は笑いながら、ゆっくりと頷いた。
「もちろん知ってるさ」
二人は再び沈黙の中に佇んだ。
夜風が彼らの間を通り抜け、遠くの川面では灯籠の灯りが星のように揺れていた。祭りの太鼓の音が次第に遠ざかり、やがて、二人を包む静けさだけが残った。
蓮舞はただ、孟龍の手の温もりと、その優しさを、胸に抱くことしかできなかった。
──夜風がふたりの間をすり抜けて、灯籠の灯が遠くで揺れていた。