揺れる糸
星明かりが雲間から漏れる深夜、蘇家の屋敷を囲む高い外塀に沿って立つ古い桐の大木に、薛環明は身を伏せていた。
彼の闇色の衣装は夜に溶け込み、その存在を完璧に隠している。呼吸さえも殺し、葉の間から庭を見下ろしていた。
月が雲を抜け、一瞬だけ庭園を白く照らした。その光の中、白い衣の上に黒い外套を纏った蓮舞の姿が現れた。
彼女は足音を立てないよう注意深く、しかし急ぎ足で庭道を駆け抜けていく。環明の眼は鋭く細められた。
これで三夜連続の深夜外出だ。最初の夜、偶然見かけたときは単なる気まぐれかと思ったが、三度となれば明らかに何かがある。
《何を企んでいる?》
環明は身を翻した。猫のように軽やかに木から飛び降り、屋根伝いに蓮舞の背を追う。彼女の黒い外套は夜風に揺れ、時折月明かりに照らされて銀色に輝いた。
蓮舞は民家の灯りが消えた静寂の中、古い城壁に沿って市の外れへと向かった。環明は距離を保ちながら、物陰から物陰へと移動し、その足取りを追う。
やがて到着したのは、通常なら日没後には閉まるはずの薬材問屋だった。その建物の側面には、かすかに灯りがともっていた。
環明は屋根に身を潜め、蓮舞が裏口に向かうのを見届ける。そこには一人の男が待っていた—孫家の下番、鄭崑だ。
帳簿改竄と密売で名高い悪党である。環明は彼の姿を一瞥しただけで、その粗雑な動きと警戒心の足りない目つきから、彼が単なる手足に過ぎないことを見抜いた。
蓮舞は懐から小さな包みを取り出し、鄭崑に差し出した。月明かりに銀貨が一瞬きらめいた。
鄭崑は包みをしまうと、懐から小さな巻物を取り出し、蓮舞に手渡した。彼らは短く言葉を交わし、すぐに別れた。蓮舞は来た道を引き返し始める。
環明は感嘆と共に眉をひそめた。
彼女の行動は、その気品ある外見からは想像し難いほど大胆だった。そして、彼女が何を企んでいるのか、その全容はまだ見えない。
夜風に乗って彼の耳に、蓮舞の小さなため息が聞こえた気がした。環明は静かに身を翻し、彼女が安全に蘇家に戻るのを見届けてから、自分の住まいへと消えていった。
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再び交わる二人
翌夕、蓮舞は書斎で巻物を広げ、懸命に航路図を読み解こうとしていた。ランプの光が紙面に落ち、彼女の指は海上の点と点を結ぶ線をなぞっていた。
「ずいぶんと物騒なことをしてるな」
後ろから突然低く響いた声に、蓮舞は振り返る。方無塵がいた。いつの間にか後ろに立ち、足音もなかった。
「……忍び込むの、やめてください」
「正面から訪ねては、君の評判に傷がつくだろう?」
無塵は言うと、彼女の側に立つ。
「何の用ですか?」
蓮舞は慌てて巻物を巻き戻そうとしたが、無塵の手がそれを止めた。
「昨夜、市の外れで何を手に入れた?」
その言葉に蓮舞の顔から血の気が引いた。
「私を監視していたのですか?」
「薬材問屋での鄭崑との取引も知っている」
蓮舞は息を飲んだ。
「なぜ孫家の下級役人から船の航路図を買った?」
もはや隠し通せないと悟り、蓮舞は観念したように小さく息を吐いた。
「陛下への貢物を載せた船が、来月海路を通ります。その船が...」
「あの夜に聞いた企みだな?」
蓮舞は頷く。無塵と今世で出会ったときに、壁の向こうから聞こえてきた陰謀である。
「鄭崑は酒好きで、酔えば口が軽い。孫文景の側近が港の役人に、ある船の監視を怠るよう金を渡したという話を耳にしました」
蓮舞は航路図を指差した。
「この座標には暗礁があります。普段なら港の役人が警告するはずですが、意図的に見逃せば...」
無塵は巻物を手に取り、真剣に見つめた。
「そして、お前はこの航路図から沈没場所を割り出し、事前に何か手を打つつもりだったのか」
「はい。船が出港する前に警告するか、別ルートを提案するつもりでした」
無塵は突然、巻物を丸め、強い口調で言った。
「無謀すぎる。お前一人で動けば、孫文景に気づかれる。そうなれば命はない」
蓮舞は顔を上げた。
「でも、何もしなければ...」
「なぜそこまで必死になる?」
「海路の安全確保は墨家の担当です。墨無涯の父上が責任者なのです」
無塵は少し驚いた様子を見せた。
「墨家の若当主か。お前とどういう関係だ?」
「友人です。彼は...真っ直ぐで正義感の強い人です。父親の墨千年も国に忠実で実直な方。彼らが罠にはまるのを、知っていながら見過ごせません」
蓮舞の瞳には、決意の光が宿っていた。
「この船が沈めば、墨家は責任を問われ、その地位を危うくする。」
無塵は黙って彼女を見つめた。
「それでも、危ない橋を渡ってまで阻止する価値があるのか?」
蓮舞は迷いなく答えた。
「あります。彼らは誠実に国に仕えてきました。陥れられて失脚するなど、あまりにも不条理です」
無塵は窓の外を見つめた。月がまだ昇らぬ空には、星だけが瞬いていた。
(正義感にあつい女侠だな...いずれ計画の邪魔になるだろう)
殺すべきか?その考えが瞬間脳裏をよぎった。蓮舞は怪しすぎる。何を企んでいるか本音も知れない。
だが、彼女の眼差しには嘘がない。その澄んだ瞳に映る決意は、純粋な正義感から来るものだ。
無塵は自分の中の何かが揺らぐのを感じた。いつもなら躊躇いなく除去する邪魔者となりうる者に、今回は手を下せない。あの夜、彼女の腕を引いたときの感触と、あの夜の彼女の目が甦った。
(俺には、この女は殺せない気がする)
無塵は一瞬抱いた殺意を、静かに打ち消した。
「わかった」
無塵は決意したように言った。
「協力しよう」
蓮舞の目が大きく見開かれた。
「本当に?」
「ただし、私のやり方でだ。お前は孫文景を甘く見すぎている。」
無塵は巻物を彼女に返しながら言った。
「船の件は、こちらで対処する」
前世の記憶から、無塵が一度言ったことは守る人だと知っている蓮舞は、黙って頷き、巻物を受け取った。彼女の指が無塵の手に触れた瞬間、二人の間に微妙な緊張が流れた。
「分かりました」
無塵は無言で頷き、来た時と同じように静かに窓から消えていった。
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船陰謀の輪郭
三日後の早朝、北岸の倉湾には霧が立ち込めていた。水面は鏡のように静かで、時折漁船のマストが霧の中に影絵のように浮かび上がる。環明の報告通り、この場所で孫家の下役たちが不審な動きを見せ始めていた。
無塵は倉庫の影から、孫家の配下たちが「空箱」を墨家の刻印が押された荷札で積み出す様子を冷静に観察していた。蓮舞から得た情報と環明の偵察が正確であることの証明だった。彼らは転覆事故を装い、墨家に責任を負わせようとしていたのだ。
「今だ」
無塵の合図で、刑部の部下たちが一斉に飛び出した。混乱の中、蓮舞の事前の情報により、重要な倉庫番も押さえることに成功した。この男こそが、孫家に買収され墨家の印を提供した裏切り者だった。
短時間の捜査で、無塵は黒幕の名が記された帳簿と、転覆前の「積荷ナシ」を証明する札を発見した。証拠は揃った。
しかし、孫文景本人はまだ網の外にいる。彼を追い詰めるには、さらなる手順が必要だった。
倉湾の水面に朝日が反射し始め、霧が薄れていく。捕らえられた下役たちが護送される様子を眺めながら、無塵は考えた。これはまだ始まりに過ぎない。孫文景を倒すには、もっと多くの証拠と勇気が必要になるだろう。
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学舎の陽だまり
そんな夜闇と陰謀の都だが、昼の学舎は春めいていた。校庭の桜はまだつぼみだったが、空気には確かな暖かさが漂い始めていた。
詩文の試験が近づき、雅堂には墨の香りが漂っていた。学生たちは小さなグループに分かれて、熱心に詩の構成を議論したり、批評し合ったりしている。
蓮舞は回廊を歩きながら、いつもより重い帳冊を脇に抱えていた。孫家の調査資料だ。彼女の心は既に30近い、将軍職だったにも関わらず、学生としての日常をこなさねばならない。
「蓮舞、一緒に詩題を解こう」
明るい声に振り向くと、趙孟龍が大きな白梅の束を抱え、朗らかに彼女に近づいてきた。孟龍の笑顔は太陽のように明るく、その純粋さは胸を打つものがあった。
蓮舞は帳冊を抱えたまま、彼に柔らかく笑いかけた。
「ごめんなさい、孟龍。今は調べごとで手一杯なの」
「なら花だけでも受け取って」
孟龍は照れるふうもなく白梅を差し出した。その朗らかさには何の裏もなく、蓮舞は彼の存在が学舎の中で一番純粋な光のように感じられた。
白梅の香りは淡く、しかし確かに彼女の胸の騒ぎを一瞬洗い流すようだった。蓮舞は深く息を吸い込み、その清らかな香りに心を落ち着かせた。
「ありがとう。あなたは、私にとって大切な友人よ」
蓮舞は花を受け取りながら、静かに言った。その声には真摯な気持ちが込められていた。
孟龍はその返事に、一瞬目を細めて
「...あぁ、そうだな」
一呼吸をおいて、孟龍は屈託なく笑った。
白梅を受け取った蓮舞は、しばしその香りを味わうように目を伏せていた。
孟龍はそれをじっと見つめていたが、やがて踵を返し、数歩歩いてふと振り返った。
「なぁ、蓮舞」
「……なに?」
「明日の祭り、行くだろ?」
蓮舞は驚いたように彼を見やった。孟龍の目は、いつもと変わらぬ朗らかさをたたえている。
けれど、その問いには、どこか一瞬の勇気がにじんでいた。
彼女は微笑んだ。
「もちろん」
言葉は自然に口をついて出た。
けれど、その瞬間、胸の奥に古い痛みがかすかに波を打った。
風が吹き抜け、白梅の香りがふたたび鼻をかすめた。
孟龍が手を振りながら軽やかに立ち去る背中を見送っていると、ふいに無塵の面影が脳裏をよぎった。
白い外套に黒髪をなびかせ、いつも群れから離れて静かに歩く人――
前世の記憶の中で、蓮舞が愛し、信じた人。
(……今世では、違う生き方をしなければ)
そう思っている。そう誓ってきた。
でも――
(でも、私はまだ……無塵を、思っている)
それは、否応なく胸の奥にあった。
たとえ彼が今、何も知らずそばにいなくても。
たとえ自分が違う道を選ぶと決めていても。
あの人の剣の影、そのまなざし、背に抱える孤独ごと――今でも、愛しさが残っている。
蓮舞は自分の胸の内を静かに見つめながら、そっと白梅を抱え直した。
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影の交渉
夜風が苔むす庭壁を撫でる中、方無塵は都の外れ、廃寺となった観音堂の奥へと足を踏み入れた。
香炉に火はなく、床の埃も誰にも踏まれた形跡がない。だが、無塵の目は、奥の闇にひとつの人影を捉えていた。
「遅いな、おまえにしては」
柱の陰から現れたのは、痩身に黒布を纏った男――安国の密偵・王荀。
つねに笑みを浮かべているような目元が、闇の中でも油断なく光っていた。
「親王は焦れておられるぞ。……薛国は崩れかけの楼閣、何をもたついている」
無塵は黙って裾を払って座り、懐から小巻の紙を取り出した。
「皇宮の出入りがようやく許された。軍の配置を調べるまで待ってほしいと伝えろ」
王荀の笑みが一層深くなった。
「配置図だの手間をかけずとも、皇帝を暗殺すれば早い。あとは皇太子が即位する前に毒でも盛ればよかろう」
「……それが意味のあることなら、親王がそう指示している」
無塵の声は低く、氷のように冷えていた。
王荀が眉をぴくりと上げる。
「皇帝を殺せば、皇太子が立つ。皇太子を殺せば、その弟が玉座に上る。今の皇族連中は、皆が血筋で正統性を持っている。皇帝を殺しても国は滅びない」
無塵は立ち上がった。
「だから、正統の威光を剥ぎ、重臣を腐敗の証で縛り、民に信を失わせる。皇室を“恥”と認識させて初めて、この国は地に落ちる」
「……小難しい言い回しだな。」
王荀は肩をすくめ、懐から小刀を弄びながら言った。
「おまえも随分薛に染まったんじゃないか?」
その言葉に、無塵の目が光った。
一歩、王荀に詰め寄り、鋭く声を発する。
「俺の邪魔をするな、王荀。おまえの“荒らして火を点ける”だけのやり方では、何も残らない」
王荀が小刀を止めた。
「……脅しか?」
「本気だ。俺の計画に水を差すような真似をすれば、その場でおまえの喉を掻き切る」
空気が凍った。
王荀はしばし無言で無塵を見つめ――やがて、ニタリと笑った。
「……いい目だ。裏切り者のくせに、そうでなく見える」
「さっさと帰って、親王に報告しろ。」
それだけを言い残し、無塵は風のように堂を去った。
王荀は肩を揺らして笑ったが、その目には鋭い色が戻っていた。