微かな綻び
夜は深く、都はすでに静けさに包まれていた。
月は雲の合間に顔を覗かせ、冷えた石畳を薄く照らしている。
方無塵は一人、礼部の裏手から刑部に続く小道を歩いていた。
音のない足取り。揺るがぬ気配。
だが、内心には一滴の波紋が広がっていた。
「珍しいじゃないか。殺さずに見逃すなんて」
無塵が足を止めるより早く、影が一つ、音もなく彼の目の前に降り立った。
薛環明。
俊敏な手練れであり、無塵の護衛を務める男だった。
黒衣の裾がふわりと揺れ、猫のような身のこなしで屋根から着地したその姿には、軽功の達人らしい軽やかさがあった。
「処理するだろうと思っていたのに、生かして返すとはね。おまえにしては随分甘い」
無塵は一瞥をくれるだけで、すぐに歩き出した。
環明も肩をすくめながら並び歩く。
「いや、これはほんの興味だよ。あの娘、何者なんだ?」
「……蘇蓮舞」
「蘇家の……?」
環明の目が細くなる。
「戸部尚書の娘じゃないか。大胆なお嬢様だな。だが、礼部に忍び込むなんて……何を探してた?」
「迷ったらしい。」
「はっ!?」
環明は驚きすぎて思わずつんのめる。
「こんな場所に迷い込むはずないだろ。でも、見逃すとは。……顔が好みだったか?」
無塵の足がふと止まる。
環明はその横顔を見て、珍しく気まずそうに咳払いした。
「……冗談だよ」
ふたりの間に、しばし沈黙が流れた。
風が、街角の紅い旗をはためかせる。
環明が口元に笑みを浮かべ、静かに言った。
「じゃあ、その娘を調べておこう。素性が真っ当でも、裏がある。……だろ?」
無塵は答えなかった。
ただ、目を伏せて歩き出す。その後ろ姿には、確かにいつもより一歩だけ、足が重たかった。
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運命の旋律
朝露がまだ草葉に残る早朝、孟龍は蓮舞の住まいへと足早に向かっていた。空には薄い霧が漂い、遠くには学舎の屋根が朝日に照らされて見える。
「蓮舞、準備はできたか?」
孟龍は門前で声をかけた。
扉が開き、蓮舞が現れた。普段の装いよりも少し丁寧に結われた髪に、試験用の上等な衣装を身につけている。手には大切に包まれた琴が。
「孟龍?どうしてここに?」
蓮舞は驚いた表情を浮かべた。
「今日は琴の試験だろう。心配でな」
孟龍は少し照れくさそうに頬をかいた。
「お前が琴の練習で苦労しているのを知っている。一緒に行こうと思って」
蓮舞は少し目を伏せた。前世の記憶から琴が弾けることは誰にも明かしていない。
(確かに、この頃の私の琴の腕は酷かったわね)
蓮舞は苦笑した。
「どんな結果でも、全力を尽くせばそれでいい。俺はお前の味方だ」
その真摯な眼差しに、蓮舞は思わず微笑んだ。どれほど技術があっても、こうして支えてくれる人がいることの方が大切なのかもしれない。
「では、お願いね」
蓮舞は花開くように笑った。
二人は並んで学舎への道を歩き始めた。朝の空気は清々しく、道端の花々が彼らの足取りを彩る。
学舎が近づくにつれ、他の生徒たちの姿も見えてきた。皆、緊張した面持ちで試験の準備をしている。
「ほら、無涯たちもいるぞ」
孟龍が前方を指さした。
二人は肩を並べて学舎の門をくぐった。
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静寂が広間を包み込む中、墨無涯が琴の前に座り、音を奏で始める。
無涯の奏でる音色は、清らかな水面に落ちる一滴の雫のように透明で、やがて波紋となって広がっていく。その指使いは自在で、あるときは激しく、あるときは優しく、聴く者の心を自在に操るかのようだった。演奏が終わると、熱狂的な拍手が湧き起こり、無涯は静かに頭を下げた。
次に立ち上がったのは楊懐古。彼の爪が琴弦に触れると、まるで夜明けの鳥の囀りのような繊細な音色が広間を満たした。懐古の演奏には儚さと強さが同居し、一音一音に魂が宿っているようだった。時折見せる微笑みが、彼の内なる喜びを表していた。
続いて琴に向かったのは趙孟龍。彼は明らかに緊張した様子で、最初は少し指が震えていた。しかし、演奏が進むにつれて次第に落ち着きを取り戻し、武人らしい力強さが垣間見える演奏を披露した。苦手意識は隠せないものの、努力の跡が伺える演奏に、審査員たちも頷きながら聞き入った。
長公主の演奏は、さすがの一言に尽きた。気品あふれる姿勢と、王族特有の優雅さが琴の音色にも表れ、広間全体が荘厳な雰囲気に包まれた。
豊家の令嬢、豊華惹の番になると、会場の空気が少し変わった。琴の名手として知られる彼女の登場に、期待の視線が集まる。華惹は優美な装いで琴に向かい、時折楊懐古の方を見やりながら、技巧的な演奏を繰り広げた。指先から紡ぎ出される音色は、まるで花園を舞う蝶のように華やかで流麗だった。
鳴り止まぬ拍手が庭園に響き渡る中、豊華惹は満足げな表情で席に戻った。彼女の指が奏でた繊細な旋律は、まだ空気の中に余韻として漂っているようだった。
特に楊懐古の前を通る際、彼に一瞥を送り、微笑んだ。
「次は、蘇蓮舞」
と試験官が静かに宣言した。
庭園に広がる沈黙の中、蓮舞はゆっくりと琴の前に進み出た。彼女の姿に、いくつかの囁き声が聞こえた。
「剣ばかり修練している彼女が、琴を弾けるのだろうか」
「彼女が琴を弾いているところを見たこともない」
蓮舞は琴の前に座り、深く息を吸い込んだ。その瞬間、彼女の姿勢が変わった。緊張は消え、代わりに深い集中力が全身から漂い始めた。
蓮舞の指が琴弦に触れた瞬間、誰もが息を呑んだ。その音色は、まるで別世界からの使者のように、現実離れした美しさを持っていた。彼女の演奏は単なる技巧を超え、聴く者の魂を揺さぶる力を持っていた。指の動きは流水のように滑らかで、まるで琴と一体化しているかのようだった。
最初の音は、朝露が花びらから滴り落ちるような繊細さだった。続く音色は、まるで山間を流れる清らかな小川のようだった。そして徐々に、その旋律は広がり、深まり、高まっていった。
蓮舞の指は弦の上を舞うように動き、一音一音が物語を紡いでいくようだった。それは単なる琴の演奏ではなく、魂の表現だった。音色は時に激しく、時に優しく、聴く者の心の奥深くにまで届いた。
不思議なことに、風が緩やかに吹き始め、どこからともなく桜の花びらが舞い降りてきた。まるで天が彼女の演奏に感動し、応えているかのようだった。
墨無涯の目には、蓮舞の周りに淡い光が見えた。彼女の才能は、この世界の中で完全に開花していた。
楊懐古は、知らず知らずのうちに身を乗り出していた。彼の目は蓮舞から離れず、その表情には純粋な驚きと感嘆が浮かんでいた。その横で、豊華惹の顔に一瞬、苦々しい表情が過った。
長公主は静かに目を閉じ、その音色に身を委ねていた。
趙孟龍は自分の演奏を思い出し、恥ずかしさと共に深い尊敬の念を抱いた。
特に注目すべきは皇太子楊玄昌の反応だった。普段は何事にも冷静な彼が、今は完全に蓮舞の演奏に魅了されていた。
彼の目には、今まで見せたことのない感情の輝きがあった。驚きと尊敬、そして何か別の感情も—彼自身もまだ完全には理解していない感情が。
演奏が終わると、一瞬の静寂があった。誰もが余韻に浸っていた。そして突然、楊玄昌が立ち上がり、拍手を始めた。それは他の全員への合図となり、庭園全体が熱狂的な拍手に包まれた。
蓮舞は優雅に頭を下げ、静かに席に戻ろうとした。その時、楊玄昌の目が彼女を追っていた。彼の心には新たな感情が芽生えていた—この才能あふれる女性を自分のものにしたいという強い願望が。
豊華惹は、楊懐古がまだ蓮舞を見つめていることに気づき、唇を噛んだ。彼女の拍手は機械的で、目には妬みの炎が宿っていた。
「まるで一国の宝だ」
と誰かが囁いた。
その言葉は、庭園に集まった全員の心に響いた。蓮舞の演奏は単なる試験ではなく、全ての人の魂に触れる瞬間となっていた。そして特に、楊玄昌の心に深く刻まれていった。
試験の場は閉じられたが、蓮舞の演奏は皆の心に深く刻まれ、彼女を巡る新たな運命の糸が、静かに紡がれ始めていた。