秘めた愛
翌日、蓮舞は学舎の庭園でいつものようにくつろいでいた。そこへ、いつものように楊懐古も合流する。
蓮舞を筆頭に、楊懐古や趙孟龍、墨無涯、墨花蓮、長公主、が誰からともなくポツポツと、勉強の合間に庭園に自然に集まって談話に花を咲かせるのは、いつもの光景だった。
「懐古」
蓮舞は躊躇いがちに口を開いた。
「ん?」
懐古は読んでいた書物から目を蓮舞に移すと、柔らかく微笑んだ。
「私、婚約したわ」
蓮舞は何でもないことのように言った。
懐古の表情が一瞬凍りついた。風の音だけが、静寂を破っている。
「......婚約?」
懐古の声は平静を保とうとしていたが、わずかに震えていた。
「ええ。方無塵殿と」
蓮舞の目は、遠くの空を見つめている。
懐古は数秒間、言葉を失った。頭の中で、蓮舞の言葉が何度も響いている。
(婚約)
幼い頃から密かに想いを寄せていた女性が、他の男性と結婚する。覚悟はしていたつもりだったが、実際に聞くと、胸の奥が酷く痛んだ。
「方無塵.....」
懐古は努めて冷静に確認した。
「刑部の方無塵殿、だね」
「そう」
懐古は空を見上げた。木の枝越しに見える青空が、やけに眩しく感じられた。
分かっていた。
蓮舞にとって自分は、近しくてもただの友でしかないことも。
そして、自分が皇室に生まれた以上――
蓮舞のように、空を駆ける風のような、自由を愛する人を、傍に置くことなど許されないということも。
だから、孟龍のようにまっすぐ想いを伝えることは出来なかったし、してこなかった。
言葉にしてしまえば、欲を手放せなくなりそうで怖かったし、事実そうなったであろう。
そして同時に、好意を仄めかすことも、彼女の心を惹きつけるような振る舞いさえ、ためらわれた。
万が一、それで彼女が自分を選んでくれたとしても――
その先に待っているのが、皇室という檻の中である限り、彼女が本当に幸せになれるとは思えなかったからだ。
けれど。
それでも、愛していた。
その気持ちは、決して孟龍や無涯にも劣ってはいなかった。
彼女の笑顔は、胸を締めつけるほどまぶしく、
そっと触れた指先のぬくもりは、いつまでも肌に残った。
袖が触れると香る彼女の匂いも、何気ない日常を特別なものに変えた。
風のように気ままで、虚飾を嫌う性格、親しい友だけに見せる甘えや我儘さ、折れぬ意志で己を貫く頑固さも、身分や立場にとらわれず、誰に対しても敬意と真心をもって接する人柄も、
そのひとつひとつを、心の底からどうしようもなく、愛していた。
彼女が欲しかった。
届かないと知っていながら、それでも願ってしまう自分がいた。
だが、そのたびに思いとどまった。
蓮舞が笑っていてほしい場所は、皇宮という檻に囚われて、闇の中をもがいている自分のそばではない。
風の吹く野に、光の射す道に、彼女は立っているべきなのだ。
誰かの影に沈んだり、政の渦に巻かれたりするような生き方をしてほしくはない。
(けじめをつけなくては....な)
胸の奥で、何かが静かに崩れていくような感覚があった。しかし、表情には出すまいと必死に堪えていた。
「懐古」
蓮舞の声が、少し乾いて聞こえた。
「私は──」
「蓮舞」
懐古はゆっくりと視線を戻し、優しく微笑んだ。
「君が選んだ人なら、きっと良い方なのだろう」
その微笑みは、懐古の精一杯の演技だった。心の奥では嵐が吹き荒れているのに、蓮舞の前では優しい友人でいたかった。
「君の幸せを、願っているよ」
その言葉を口にした瞬間、懐古は自分の胸の痛みに耐えきれず、痛みを隠そうと俯く。
蓮舞の目に涙が浮かんだ。孟龍との辛い対話の後だったせいか、余計に懐古の優しさが、胸に深く沁みた。
「でも」
懐古は続けた。
「もし何か困ったことがあれば、いつでも頼ってくれよ。僕は、ずっと君の味方だから」
「ありがとう」
蓮舞は、嬉しそうに笑った。
葉が風に舞い、二人の間を静かに流れていった。懐古は蓮舞の幸せを心から願いながらも、胸の奥では激しい痛みと向き合っていた。
(これでいい)
懐古は心の中で呟いた。
(君が幸せなら、それでいい)
遠くからただ愛することを選んだ男の、静かな決意だった。しかし、その決意の裏に、深い悲しみが隠されていることに、蓮舞が気付くことはなかった。