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失われた灯

蘇蓮舞は趙家に、約束の時刻より早く着いてしまい、庭の片隅にある苔むした石灯籠を見つめながら、孟龍の到着を待っていた。


やがて、庭の奥から背の高い人影が現れる。

趙孟龍はいつもより静かな足取りで近づき、蓮舞の前に立った。


「……急に呼び出して、どうしたんだ?」


いつもの軽やかな笑みを浮かべ、優しく問いかける。

蓮舞は、深く息を吸い込んで、静かに口を開いた。


「……今日は、孟龍に伝えておきたいことがあって」


孟龍の眉がかすかに動いた。

今までにない蓮舞の真剣な表情に、悪い予感がして身構える。


「……なんだ?」


蓮舞は目を伏せたまま、続けた。


「私、……方家と婚約を結ぶことになったの」


一瞬、風が止まったかのような沈黙が流れる。


孟龍はしばらく、まるで言葉の意味を理解できなかったように、蓮舞を見つめた。

そして、絞り出すように問う。


「……誰...って?」


「方無塵、刑部の侍郎よ」


その名を聞いたとたん、孟龍の表情が露骨に曇った。


「……方無塵? なんだそれは。聞いたこともないぞ」


声に混じるのは、驚きと戸惑い、そして――静かな怒りだった。


「……君と、その男にどんな接点があるんだ?俺は聞いてないぞ、いつからそんな……」


蓮舞は黙っていた。その沈黙が、孟龍の動揺に拍車をかけた。


「俺とは……ずっと何でも話してきたじゃないか。官吏としての夢も、家の悩みだって……」


「うん……そうね」


蓮舞は頷いた。だがその声は、まるで遥か向こうから届いたように、遠かった。


「……何で“そいつ”なんだ?」


孟龍の声が鋭くなる。


「……」


蓮舞は目を伏せた。だが、逃げるような表情ではなかった。


「皇太子妃の候補に私の名前が上がってるって……懐古から聞いたの」


「……!」


「それを聞いたとき、婚姻というものが、この機を逃せば自分の意思では決められないのだと、はっきり分かった。……だから、それより先に、私が選びたかった」


「それで……選んだのが、そいつか?」


「……そう」


「何でだよ」


孟龍の声が震える。


「なぜ俺じゃなかった? 君が誰かを“選ぶ”って瞬間に、俺の名前は一度も頭に浮かばなかったのか?」


孟龍は泣きそうな声で続ける。


「あの夜、君が、俺のことは友達としか思ってないって言ったから、分かってるつもりだったよ。だから俺じゃなかったとしても、懐古じゃダメだったのか? 無涯では? なぜ、突然降って湧いたような、どこの誰かも知らない男の名が、そこで出てくるんだ?」


孟龍の声は、やりきれない悲しみと怒りが宿っているように、低く震えていた。

めちゃくちゃな事を言っていると分かっていた。例え懐古でも無涯でも、きっと納得はできなかっただろう。だが、自分の知らないところで、蓮舞が婚姻してもいいと思うほどの男と出会っていて、交流があったということが、信じられなかった。

そのくらい、蓮舞のことは何でも知っていると自負していたのだ。


孟龍の泣きそうな声に、蓮舞の胸がきしんだ。彼の感情が、熱を持って自分にぶつかってくる。言葉の刃で責めているようでいて、それはただ“孟龍の純粋な悲しみと愛”だった。


「……孟龍」


蓮舞は目を閉じると意を決して口を開く。


「私は……こんなに早く誰かと婚約するつもりはなかったの。けれど、婚姻するなら方無塵以外の人とするつもりは、ないわ」


「.......一体、その方無塵ってやつは、君に何をしたんだ? 何故、俺じゃダメだったんだ」


蓮舞は何も言わなかった。その沈黙が、返答だった。


孟龍は、かすかに笑ったような顔をした。


「……俺、ずっと信じてたよ。たとえ今、君に選ばれなくても、誰より君のそばにいたって事実が、いつか意味を持つ日が来るって。……だけど」


彼は、わずかに肩をすくめた。


「君には、無意味なことだったんだな」


蓮舞の喉の奥に、何か熱いものがこみ上げた。


(そんなことない!)


そう言いかけて、その資格があるのか分からなくて蓮舞は喉を詰まらせる。


「……ごめんなさい」


「言うなよ、“ごめん”なんて。聞きたくない」


孟龍は、それだけ言って背を向けた。

その背は、初めて蓮舞に背を向けた趙孟龍の姿だった。


彼の背中が、遠ざかるその最後の瞬間、蓮舞の唇がかすかに動いた。


だけど声は届かなかった。


孟龍は、庭の門をくぐる直前、ふと立ち止まり、空を仰いだ。

夕暮れの光が木々の葉を透かし、その影が彼の瞳に差し込んでいた。


(どうしても……どうしても、やっぱり……)


心の中で誰にも届かない叫びが渦を巻いた。


(俺は、蓮舞を愛してる)


理屈でも、選択でもない。

ただそれは、彼の一部になってしまった感情だった。

突き放されても、選ばれなくても、どうしようもなく、それは消えなかった。


けれど同時に、彼の胸には――


(俺では、届かないんだな……)


という、痛みと絶望が沈んでいた。


そのとき、背後から風が吹き抜けた。蓮舞の気配を感じたような錯覚に、ゆっくりと振り返る。


その視線の先には、じっとこちらを見つめている蓮舞がいた。


目が合った。


ほんの一瞬、世界が止まったような、長い長い時間だった。


──どうか、幸せになって。

孟龍の深い愛を受けるに相応しい女性と出会ってほしい――


蓮舞の瞳には、そんな願いが揺れていた。


孟龍はそれを、言葉にされずとも感じ取っていた。それは、長年蓮舞を見て、蓮舞を理解してきた孟龍だからこそ、気付ける思いだった。

けれど、だからこそ、その願いがさらに残酷に胸をえぐった。


(……そんな顔するなよ)


孟龍は、わずかに目を細め、笑うでもなく、泣くでもなく、引き攣ったように唇を歪めた。

その表情に、蓮舞は言いようのない痛みを感じた。


やがて孟龍は目を伏せ、再び歩き出した。


もう振り返ることはなかった。

だが、蓮舞の中に、その一度きりの眼差しが深く残った。


風が止み、庭には再び静寂が戻った。

蓮舞はその場に立ち尽くしたまま、そっと手を握りしめた。

胸の奥に、名をつけることのできない痛みが燻っていた――。


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